4:救いの手
秋永の店はおよそ二年くらい前から経営が傾いてきたらしい。そもそも自分の趣味で始めたようなものだった。いつかは終わるものだと、腹は決めていた。だからこそ、利益がなくても、知る人ぞ知る、そんな店にしたかった。しかし、経営が傾くまでの五年間。細々ながら続けてきたこの店に、未練が生まれてきた。一番バイトを長く続けてくれている三田には相談しようかとも思ったが、一バイトに相談して、どうなるのだろう、と思い止まった。それに、経営難に走っている秋永の実情を知らなかったとはいえ、店長の自分を支えてくれたのは紛れもなく彼だった。三田は聞いたらどうするだろうか。バイトをやめてしまうのだろうか。自分と一緒に金策に走ってくれるのだろうか。自分にそれだけの人望が無いことも、そもそもバイトがこの店にそれだけの思い入れが無いことも、何より、バイトに縋ろうとしている情けなさも、もちろん知っている。
最初は気軽な気持ちで金を借りた。一瞬でも金があればどうにかなる、そんな一枚の宝くじで一等を狙うような絵空事を本気で考えるのが秋永である。結果は火を見るよりも明らかだった。借りた金は返せなくなり、他の金貸しに金を借りる。悪循環が悪循環を呼び、借金は雪だるま式に増えていった。
そして秋永には早々に打つ手が無くなった。
そんな時に神倉と出会った。初めは一通のメールだった。仕事を終え、自宅のアパートに戻ってきた秋永はメールが届いていることを知った。題名に『あなたの心の休息に協力します』と、いかにもな謳い文句だったが、秋永にはもう、正常な判断能力はついていなかった。
店には欠かさず顔を出していたが、料理に手をつけることはままならず、客と言葉を交わし、精神を落ち着かせることが、秋永のできる唯一の仕事だった。ここにきて、三田や、長くバイトを続けている人に仕込みやレシピを伝えていたことが、役に立った。普段からおちゃらけた性格も功を奏し、「バイトばっかに料理作らせてー」と客になじられても自然に振る舞えた。バイトも大方同じ反応だった。三田も「僕はここでのバイト好きですし、店長が接客してくれたほうが、料理の提供するスピードも回転も速い」と、侮蔑にも近い台詞で秋永を励ましてくれた。
メールを開き、本文に記載されているアルファベットの羅列を押す。
押した先には、『渡し舟』と記載されたホームページにアクセスされた。淡い黄色を基調とした、優しく、そして暖かい印象を与えた。トップ画面には『渡し舟』の特徴が謳われ、最後に「あなたの輝かしい未来への架け橋となります」と締めくくっている。
メールを送る欄を見つけると、今の自分の現状を綴り、連絡先を最後に入力して、送信した。秋永は送信したあと、ほっと一つ大きな溜め息を吐いた。
返信は思った以上に早かった。時間にして五分も掛かっていない。
「秋永様の内容承りました。つきましては担当を寄越しますので、都合のつく日付、時間帯を下記より、お選びいただきますよう、よろしくお願いします」
これもまた、いかにも、と言うくらいの定型文だ。どんな内容に関しても、このメールですべて返信が出来る。
秋永は手帳を見て、スケジュールを確認する。といっても、秋永のやることいえば、金策に走ること以外、特に何もしていなかった。
どの日付、時間帯でも構いません、といったメールで返信する。
秋永の返信も五分として掛かっていなかった。
しばらくすると電話が掛かってきた。マナーモードにしていたため、振動が手元で響き、反射でビクッとする。最近の秋永に掛かってくる電話といえば、たいてい催促か、脅迫だ。恐る恐る画面を覗く。ホラーやスプラッタといったおぞましい映像を見るように、目を細めてぎりぎりで文字を読み取る。
知らない番号だった。もし金融会社であれば、この着信で取らなければ最悪だ。奴らに二度目という言葉は存在しない。過去に居留守を使ったらドアを文字どおり蹴破って入ってきた時は、この世の終わりを悟った。
息を吐き、通話ボタンを強く押す。
「もしもし」
言葉が正しく発せられているか、秋永自身はわからない。
「もしもし」
景気のいい、大きな声が秋永の声に届く。
「秋永さんの電話でよろしいですか」
「あ、はい。そうですけど」
「改めまして、はじめまして。『渡し舟』の担当、神倉と申します」
快活に話す口ぶりは、悩みを聞いてくれる相談員、というより、商品をいかに巧妙に売り付ける営業に近いな、と率直に思った。
「日付とお時間について、連絡をしたいんですが、今よろしいでしょうか?」
「はい。大丈夫ですが」
「いつでも大丈夫とのことですので、まずは話を聞くために、今からでもお会いできたら、と思ったんですけど」
「今から、ですか」
秋永は時計を確認する。時刻は十二時を過ぎたところだった。
「お時間は取らせません。それに、秋永さんにとっては、早く話を聴いてほしいんじゃないんですか?」
「まあ、そうなんですけど」
「それに善は急げ、っていうじゃないですか」
あなたと会うことが善か悪かわからないんですが、と喉まで出掛ける。
「それじゃあ、今からお宅にお邪魔させていただきますので、よろしくお願いします」
半ば強引に、約束を取り付け、電話は勝手に切断された。今までのヤクザ系の人らとなにも変わらない。物腰は柔らかいのに、話す言葉は、催促と脅迫そのものだった。
自宅で待機していると、部屋のチャイムが鳴り響く。ドアスコープを覗くと、見知らぬ男が立っていた。
「どちらさまですか」
鍵は開けず、ドア越しに話し掛ける。
「神倉です。『渡し舟』の」
ドアスコープから全身が見えるようにか、男は一歩下がった。
玄関前の光をも吸い込んでしまいそうな黒い服で全身を覆っている。黒く、シルクハットのような鍔の大きい帽子を少し上げて、顔を見せた。にやり、と笑い、こちらの警戒心を解こうとしているのか、無邪気なその笑みは、若々しい子供のように見えるが、不気味な雰囲気は一向に解ける気配は無かった。
「今、開けます」
鍵を開け、男を招き入れる。
「ありがとうございます」
男――神倉は、帽子を取り、笑顔を絶やさず秋永に頭を下げる。ぼさぼさの髪がゆらゆらとゆっくり揺れる。
「でも」
黒い上着に手を伸ばしたかと思うと、気付けば秋永は押し倒されていた。床に叩きつけられた衝撃で、自分が倒されたことに気付く。喉元にナイフを突きつけられ、呼吸をする度に先端が当たる。ひんやりとした感触が否応なしに恐怖を煽る。
「ダメですね。簡単に人を信じて、扉を開けちゃあダメでしょう。俺の名を騙るヤクザだったらどうするんですか?」
ナイフをポケットにしまってくれたが、秋永はまだ立ち上がれずにいた。まだナイフが擦れあっていた感触が残っている。
「でも、あなたの名前はさっき電話で聞いたばかりですし」
「盗聴」
「え」
「盗聴されてますよ、この部屋」
自然な物言いに、ああそうなんだ、と簡単に受け入れてしまいそうになる。
「この部屋が? どこに」
秋永は辺りを見回すが、それを見て神倉はけたけたと笑う。
「いや、例えばの話ですよ。でも、それくらい注意したほうがいいですよ、ってことを伝えたかっただけです。秋永さんの身辺にはそうヤバい、人たちが増えつつあります」
「ヤバい、ですか」
「ヤバい、ですね」
英語の単語を反復して覚えるように、神倉のヤバい、を反復する。
「僕ら、『渡し舟』はそんな秋永さんを守るのが仕事です」
秋永は名刺を秋永に渡した。営業、と書いてあるのを見て、堂々とした話口調に合点がいった。
「『渡し舟』のコンセプトは『人生の道半ばで疲労や虚無感、絶望を感じた貴方へ――私たちが新しい光へと誘う渡し舟となります』ですからね」
充分に胡散臭い謳い文句だったが、神倉が話すと、どうも信憑性が高くなるのが不思議だ。
さて、と神倉は手を叩き、同じく黒のウエストポーチからメモ帳とペンを取り出した。受けを狙っているのか、両方とも黒色だった。
「秋永さんはどれくらいの借金がありますか?」
記者がインタビューをするように、ペン先をマイクに見立てて、秋永の前に突き出す。
「四桁行くかどうかってところですね」
「かなり膨らんでますねえ。まずは返済計画を立てるところでしょうが、恐らく不可能ですよね」
不可能、という言葉にずしりと重たい何かが心に沈む。
「でも、まあ大丈夫です。お金の方はこちらが何とかしましょう。一番の理想は、借金を無くすこと。最低でも、元手のみの返済で済ませるように手配します」
「そ、そんなこと出来るんですか」
「まあ、大丈夫ですよ」
こちらの心配を取り除くために、努めて明るく振る舞っているのか、神倉の貼り付いた笑顔の裏が読み取れない。
「これをクリアしないことには、スタートラインに立てないでしょう。でもこれをクリアしたところで、スタートラインからゴールまで走りきれませんからね。秋永さんは今後の計画を立ててもらわないといけません。借金がチャラになっても、今のまま利益が満たせないならお話にならない」
「まあ、確かに」
「とりあえず、来週までに僕が借金をどうにかしましょう。それから秋永さんの判断を仰ぎたいと思います。それでも僕らの信用が得られないのであれば、依頼をキャンセルしていただいて構いません。もちろんその時、チャラにした借金を元に戻すこともありません。依頼金の相談もそこからでいいでしょう」
「それって、そちらの会社が損しかしないんじゃないですか」
会社の方針なんで、と神倉は全く気にしていない。
「それじゃあ、俺は失礼します」
ナイフの件はすいませんね、と軽く会釈し、部屋を後にした。時間にしてみれば、一時間もかかっていない。しかし、情報が濃密で、神倉のいなくなった部屋は余計にぽっかり穴が空いたように静寂だった。
秋永はもう一度名刺を見る。
『渡し舟』。秋永にとって、この船が渡す場所は、天国か地獄か。この行き先を知っているのは、神倉という得体の知れない男だけだ。
神倉の結果は三日後に届いた。
店でいつものように客と他愛のない話に花を咲かせていると、秋永の携帯が鳴った。携帯は厨房に置いていたため、三田が秋永に手渡した。
「店長、電話ですよ」
「あ、すまん。ありがとう」
秋永は携帯を見ると、ちょっと出掛ける、と三田に告げ、店を後にした。三田はもしかしたらうすうす勘づいているかもしれない、と思った。最近出掛けることが多い自分はどのように映っているだろうか。
店の裏で、隠れるように通話ボタンを押す。
「秋永さん、無事借金はチャラにしましたよ」
電話口で少し興奮気味に話す神倉は、買ってもらったプレゼントを自慢気に話す子供に似ている。どうですか、俺すごいでしょ、と。
「全部ですか」
「もちろん、そういう約束なんで」
「ど、どうやったんですか」
あのヤクザ染みた人たちが容易くチャラになんてしてくれるとは思えない。出前やネット注文をキャンセルするのとは訳が違う。
「それは企業秘密ってやつで、お願いします」
ははは、と爽やかに笑う神倉。企業秘密という言葉に、只ならぬ恐怖を感じ、ぞわりと背筋を凍らせる。
神倉は、それでは後で自宅に向かいますので、と告げると電話を切った。
急いで自宅に帰る。ただ無心でひたすらに走った。家に着くと、玄関前には神倉がすでに立っていた。やはり黒い服装で身を包んでいたので、街灯に照らされても、近づくまで気付かなかった。鍔の大きい帽子を深々とかぶり、上から照らす灯りでは、神倉の表情は読み取れない。
「お疲れ様です」
「お、お疲れ様です。ほ、本当にありがとうございます」
秋永は、深く頭を下げる。神倉の顔を見ないように、深々と。
「別にいいですよ。何度も言いますけど、これが仕事ですから。まあ立ち話もなんですし、部屋に上げてもらえると助かるんですけど」
季節は春だが、梅雨はすぐ後ろまで来ているようで、汗ばむ程度には蒸し暑い。神倉は長袖のスーツに袖を通しているため、余計に暑いのかもしれない。
「あ、すいません。どうぞ」
がちゃがちゃと忙しなく鍵を開け、神倉を先に通す。電気をつけ、部屋を照らす。八畳一間の1Kの黴臭い部屋に奇妙な男と二人きり。前回は突然のことで気にも留めなかったが、異様な空間だった。
冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注ぐ。麦茶のパックは何回も使い回しているせいで、茶色がかった水に近かったが、出さない方が失礼だと割り切ることにした。普段来客の無い秋永の自宅に、コーヒーなどの来客用の代物はこの部屋には無い。
「こんなのしか無いんですけど」
「お構い無く。ちょうど喉が乾いていたので、どんなものでも美味しくいただける喉になっています」
神倉は冗談のつもりなのか、秋永を笑わせてリラックスさせるつもりなのか、わからない皮肉とも本心ともつかない、台詞を平然と口にした。
「どうですか、契約はされますか」
「ここまでしていただいたのであれば、契約させてください。でも借金は無くなりましたが、持ち合わせているお金はそもそもありません」
親指と人差し指で輪をつくり、上下に降る。
「大丈夫ですよ。秋永さんの事情も充分にわかっているので。今回は、これから一年間の売り上げの一割でいかがでしょう。もちろん売り上げの金額に下限は設けません。純粋に一割を頂きます。よろしいですか」
「やっぱりそちらには、損しかしないんじゃないですか」
「こちらは秋永さんの心配事が取り除ければ、それでいいんですよ。それに利益はいろいろなところからあげられるので、気にしないでください」
「いろいろなところ?」
「これも企業秘密です」
にやりと笑うが、秋永は反応に困った。借金の心配は無くなったが、見返りが少なすぎて、気味の悪さばかりが、心を蝕む。
「まあ、無くなった借金の話よりも、今後の売り上げの話をしましょう。上がれば上がるだけ、俺たちの利益が増えるわけですし」
ぱん、と手を叩き、テーブルの上にメモ帳とペンを置く。
「まずは、店の経営を上向きにするための施策ですけど、何か良い案はありますか?」
「どうですかねえ。仕入れの品の質を落とすくらいしか方法はないかなあ、と考えているんですが」
質を落とすことで、客が離れることは充分に考えられる。それでも常連を繋ぎ止められるだけの旨い料理を作ればそれでいいと割り切るしか無い。元々料理の腕前には自信はある。最初の口コミは小さい店だが旨い店が売りで少しばかしの人気が出た。それが、調子に乗ってしまった要因だ。大衆の受けを狙おうと、小洒落たメニューを出して、質の良い食材を仕入れるようにした。それが運の尽きだった。移り変わるトレンドに振り回され、食材をその度に仕入れ直し、金を散財し続けた結果がこのざまだ。
「なるほど。覚悟はあるわけですね。じゃあ俺からも一つアドバイスさせてください。まあ、とは言っても、俺も経営に関しては、全くのど素人なんで、さっぱりわかりません。だからこそ、適した人に相談をするってのはどうでしょう?」
「僕にそんな知り合いはいませんけど」
「竹田昭仁ってお客さん、知ってますよね」
「竹田、竹田……ああ、常連の」
秋永と同じひょうきんな男の顔が浮かんだ。今時のちゃらちゃらした雰囲気は醸していながら、どこか憎めない男だった。どんな料理を出しても、旨い旨い、と本当に美味しそうに頬張る姿は、料理人として好印象だ。そういえば、会社員だとは聞いていたが、何の仕事をしているかは、しっかりと聞いたことはない。
「その人に相談してみるといいですよ。彼本人はきっかけにすぎないんですが、きっといい結果に繋がると思います」
「神倉さんは、その竹田くんとはどんな関係なんですか」
「どうなんでしょうね。赤の他人と言えば、赤の他人ですし。知り合いの知り合いと言えば、知り合いの知り合いになることもないかもしれません。まあ、そんな間柄です」
回りくどい言い方をしているが、結局は知らないのだろう。恐らく、あの『企業秘密』なやり方で見つけた、対策案にすぎないのだ。
「結局は、俺と竹田という男が知り合いかどうかは、秋永さんには無関係ですよね。そう考えていただければ、些末な話であることがわかるかと思います」
「わかりました。まずは、竹田くんに相談してから、結果をご報告します」
「よろしくお願いします」
神倉はすっと右手を差し出した。傷一つ無いマネキンのように綺麗な手をしていた。薬指には指輪をはめている。屈託の無い、清らかな光の屈折が、霞んだぼろアパートの天井に吊るされた電球の灯りでも輝いて見える。宝石類には疎い秋永でも高級な物と分かる光具合をしていた。
「よろしくお願いします」
秋永もそれに倣い、右手を差し出し、握手を交わした。
もうすぐ夏を控えたこの季節だというのに、彼の手は死人のように冷たかった。
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