二章:但馬善吉

1:日常の風景

「但馬さん、ちょっと相談があるんですけど」

 後輩の竹田が相談を持ちかけてきたのは、昼休憩中の時だった。昼食を終え、オフィス内で日課である小説を読み始めたところだった。趣味である読書を妨げられることは、耐え難い苦痛があったが、但馬は顔には出さず、「どうした?」と竹田に返した。

「ちょっとここだと、周りの目もあるので、帰り飲みにでも行きませんか?」

「いいけど、何の話かは教えてくれよ。時間がかかる話なら、家にも連絡しないといけないから」

「あの恐い奥さんですか。大変ですね。結婚って。でも、どうかお願いできませんか?但馬さんじゃないと話せない案件なんで」

 先輩の嫁を捕まえて恐い奥さんと言える竹田のずけずけとした物言いは、人によっては毛嫌いされるだろうし、社会人の節度が一本どころか二本も三本も足りないのは但馬も承知するところだったが、個人的には可愛いげのある、好きな後輩の一人だった。

 但馬は二十五年前の二十四歳の年に結婚し、後れ馳せながら、五年前には子供を授かり、家に帰れば、夫婦二人で子育てに奮闘している。勝ち気な妻に頭が上がらず、付き合っていた頃には持ち合わせていた主導権は、結婚と同時にいとも容易く奪取された。しかし、それでも文句も言わず、家事を完璧にこなし、但馬が仕事で不在の間は子育てに一人で立ち向かってかれているからこそ、但馬は何不自由なく暮らせている。こちらが文句を言う資格も、言うつもりもない。だからこそ、遅くなるときには連絡を怠らず、何も無ければ真っ直ぐ家に帰宅することで、感謝の意を示しているのだ。

「大丈夫だよ。行くことは行く。ただ遅くまではいれないかもしれない。すぐ終わりそうか?」

 こうして頼ってくれるだけでも先輩冥利につくというものだ。他の先輩たちにはそれが気づかないらしい。近頃の後輩は、先輩たちはもとより会社の人間とのコミュニケーションを図ろうとしない者も多い。だからといって触らぬ神に祟りなし精神なのか、そんな後輩に対し、歯牙にもかけず、同じ対応をとる先輩たちも先輩たちだ。そう考えれば、誰でも気さくに話しかけてくれる竹田は可愛がられる気もするが、先程の言動から「若者はなっとらん。言葉遣いもろくに扱うことができんのか」、と難癖ではないにしろ、あっちを立てればこっちが立たずの状態で、お互いが歩みよりをしない、子供の喧嘩のような冷戦が続いている。

 それでも仕事は回るし、会社は成り立っているのだから不思議なものだと但馬はげんなりしながら思っている。

「そうですか。ちゃんと話したかったので、時間を気にはしたくなかったんですけど」

 竹田は本当に落胆した様子で、深い溜め息を吐いた。余程切羽詰まった話なのか。

「なんだ、借金とかそういうことか」

 但馬は小声で耳打ちをする。

「いや、そういう訳じゃないんです。だけど、ここじゃ話せないことなので」

「わかった。じゃあ遅くなることを伝えるから、気にせず話してくれればいいよ」

「本当ですか! ありがとうございます。じゃあ仕事終わりにいつものとこで待っています」

 いつもの調子に戻り、竹田は但馬の席を後にした。但馬はやれやれ、といった調子で嘆息し、携帯を取り出した。妻に連絡をするためだ。

『帰り遅くなる。後輩からの相談を受けた』とメールを打つ。すると五分も経たずに返信が来た。

「何時?」

 冷めきった文章と捉えられがちだが、但馬も似たような文面で打つことが多く、それに彼女のそういった端的に意見を述べるところに惚れていた。

「わからない。どうやら深刻な様子」

「わかった。じゃあ、先に寝ておく」

「ありがとう」

「明日は晴日の相手してあげて」

「了解」

 妻とのやり取りを終え、辺りを見回すと、竹田がこちらを心配そうに見つめている。但馬は小さく右手でOKサインを出し、仕事に戻れ、と払うように彼を促した。安堵した表情の竹田を見た但馬は、子供を思う親のような朗らかな気持ちになったところで、昼休みのチャイムが鳴った。今日は全く小説が進まなかったと、後になって但馬は嘆く。

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