第二話 女池春 1

一体の怪獣がいた。


どこまでも続く空は、赤く染まっていた。太陽は見当たらない。月が薄っすらと浮かんでいる。


一体の怪獣は、泣きそうな顔をしていた。けれど涙は流さない。涙なんてもう忘れてしまった。ただただ、悲しい顔を浮かべて、赤く染まった空を見上げていた


ふと下を見て、一体の怪獣は驚いた。どす黒い液体が、足元に広がっていたからだ。

怪獣は思った。これは血だ、と。


見れば、怪獣が歩いてきた道はどこもどす黒い血で満ちていた。その中には、自分が殺した死体もあった。


再び空を見上げる。下を向いていると嫌でも血が、死体が目に入ってしまうからだ。赤い空を見上げ、既視感に襲われる。この赤い空を見たのは、いつだっただろう。


どこまでも続く赤い空に、かつて絶望したことがあった気がする。


一体の怪獣は目を閉じた。その目から滴が零れ落ちることは無い。瞼の裏に浮かんだ景色は、優しい顔をしてこちらに笑いかける、一人の人間の姿だった。


 *   *   *


 

東暦三十二年六月五日午前八時二十二分。

僕は、高校の制服を着て、学校の教室の席に座っていた。昨日のミッションを終えてから、あまり寝ていないせいか、朝から眠気が襲っていた。頭の中は霧がかかったような感覚がする。色で例えるなら、全ての感覚に白を混ぜたようだった。僕は「意識」を意識することを止め、腕を組み、そのまま机に突っ伏す。

 

どれくらいの時間が経ったのだろうか。誰かが僕を呼ぶ声によって、僕は起こされた。辺りを見渡し、未だぼうっとする頭を無理やり働かせる。左手の時計に目をやる。既に授業中らしい。視線を感じ、顔を上げると、二年一組の担任であり現代日本史の授業の教師が、ややイラついた目でこちらを見ている。


「ほら、教科書の二十一ページだよ、はるくんっ。早く教科書出して」


「あ……ごめん、ありがと」


隣の席に座る宮浦那奈に言われ、教科書を取り出す。

 

宮浦那奈。毛先にやや癖があるショートヘアに、前髪にヘアピンを付けている彼女は、二年一組のクラスメートだ。明るく元気な性格をしている一方、頭が良く成績も常に上位だ。色素のやや薄い茶色の髪に、くりくりとした大きな瞳と、整った顔立ち。更には大きな胸の膨らみ。彼女は学年のアイドル的な存在だ。


那奈に言われた箇所を開くと、僕は音読する。


「西暦二〇六二年、アメリカ合衆国の崩壊、更にEU内戦の激化により、一つの時代が終焉した。日本、中国、韓国の三カ国による会議、『沖縄会議』にて、東アジアを中心とした新しい国際秩序の創出と、それに伴う『東暦』の時代の開始を宣言した。内戦により国力を大幅に落とした欧米に変わり、東アジアの国々が世界的な指導力を持つようになった。更には「世界平和共栄圏」の拡大を目的に、内戦状態の欧米諸国へ積極的に軍事介入し、ここに『新帝国主義』の時代が始まった。……」


自分の口から出る音に、わずかに顔をしかめる。高校二年生の男としては、やや高い声。あまり好きではない。ちゃんと喉ぼとけは出ている。声変わりをしてこの声ということは、もうこれ以上低くなることは期待できない。


「ああ、そこまででいいぞ。それから、次俺の授業で寝ていたら、単位削るからな」


「……はい」


思わず反抗しそうになったが、あまりにも先生が睨みを利かせてきたため、何とか返事をしておく。どうせなら、この教師くらい低い声だったらと少し思う。


「女池春。お前はテストの点はいいんだから、もう少し真面目に授業を受けとけ」


「……はい」


先ほどのより、少し優しい調子で放たれた言葉。気に掛けているような発言に、少し驚く。この現代日本史の教師、藤見幹也は僕から視線を外すと、再び授業の話を始めた。眠気はすっかり飛んでいた。感覚がビビットカラーで染められていく。


窓に目を向ける。窓の向こうに見える校庭の手前で、窓に反射するように透過した僕の顔が映る。黒い髪に灰色の目。瞳の色は、ロシア人の父の遺伝。中性的な顔立ちのその表情は、あまり感情を映さない。白い肌も相まって、無機質な印象を与える。


―強くなれ。守るだけじゃ幸せになれない。辛さを、その手で幸せに変えられるくらい、強くなれ―


懐かしい記憶を断ち切るように、僕は黒板に目を向けた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

サイレン・トレイター カズキ @navy-nezumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ