第肆皿目 トマトの肉詰め焼き
暗い夜霧の世界とは無縁の煌びやかな街に朝陽が昇る。本日の仕込みを終えた狐小路食堂の店主、
「今日は少し風が強いな……」
誰に話しかけるでもなく、ため息混じりに独り言を呟きながら入り口の清掃を開始する。お客様に気持ちよく来店していただく為に店内だけではなく外まで掃除する事を狐太郎は日課としていた。
そして今日はいつもより風が吹いているせいか、落ち葉や人間たちが捨てたゴミなどが道を汚し、街の景観を損なわせていた。だが狐太郎は文句一つ垂れる事なく入り口周辺から小路全体を隈なく掃除していく。
「精が出ますね、狐太郎殿」
路地の奥を掃除していた狐太郎へ、そんな風に話しかける声がひとつ。狐太郎が後ろを振り向くと、その者はいた。
ふさふさとした薄墨色の見事な毛並み、大きくも凛々しい紅色の瞳。首に首輪を付けていないが、野良という感じは全くせず、品位すらも感じさせる容貌の大型犬だった。
「これはこれは
狐太郎が柔和な笑顔を向けると、犬上は長い尻尾を激しく揺らしながらそれに答える。
「ええ。最近ゴミを荒らす輩がいるとの事で、こうして歩き回っております」
「それはそれは、お疲れ様です」
「ありがとうございます――では狐太郎殿、またお店の方に伺わせてもらいますぞ」
「はい、お待ちしております」
熊吾郎よりも、ずっとずっと昔からの常連である犬上に挨拶をし、狐太郎は再び掃除を開始する。そうして仕上げにと店の入り口を掃除し始めた時だった――。
「小太郎さん。おはよう、ございます」
ゆったりとした口調で話しかけて来たのは、頭に三角巾、口にはマスク用の布、箒とちりとりを持った手には皮の手袋、身体には割烹着を着用した腰の曲がった老婆だった。
「……トメさん。おはようございます」
「はい。おはよう。コタロウさん、いつも、お掃除してくれて、ありがとうねぇ」
トメと呼ばれた老婆は暗い小路を見回した後、皺だらけの顔をさらに皺くちゃにして狐太郎に微笑む。
もちろん、店はおろか玄関自体が人間には目視する事が出来ないので老婆には狐太郎が何もない、ただの道を一人で掃除しているように見えている。繁華街の方を一人で掃除しているトメは、いつからか狐小路を掃除していた狐太郎に興味を持ち、こうして早朝に出会った時には世間話をよくしていたのである。
「いえいえ。道が綺麗になれば気分も晴れやかになりますから」
「若いのに本当にコタロウさんは偉いわぁ。昔はこの道も活気が溢れていたんだけどねぇ……」
遠い目して話す老婆がこの話を狐太郎にするのは、もうこれで六度目だった。だが狐太郎は初めて聞いたかのような反応で興味深そうに話に耳を傾ける。
「むかしむかし、あたしがまだ子供だった頃……この先にはお稲荷様を祀った神社があってねぇ。その頃は本当に此処も賑やかだったわぁ」
「そうなんですね。今は静かで少し寂しいですね」
「そうねぇ。都市開発とやらで、いつしか誰も通らなくなってしまったけれど……こうして、若い貴方がお掃除してくれるのはとても嬉しい事だわ」
そう言って頬に手のひらを添え、微笑む老婆だったが、すぐに「でも……」と不安そうな口ぶりで言葉を詰まらせた。
「どうかしたのですか?」
「それがねぇ……最近、生ゴミを荒らすカラスが何処からか来たみたいで困っているのよ」
「カラス、ですか?」
先ほど犬上が言っていた事を思い出しながらも老婆に訊ねてみる。
「そう。たった一羽なんだけどねぇ、人に慣れているのか、手で追い払おうとしても動じないし……貴方がせっかく綺麗にしてくれても荒らされたら元も子もないでしょう?」
「そうですね。お腹が空いてるのでしょうか」
至極真面目そうな顔で狐太郎がそう答えると、老婆は口元に手のひらを当てて、ふふっと声を漏らす。
「そうかもしれないわねぇ。お腹が満たされれば、もう荒らすことはなくなるかもしれないわね」
「ええ、何か良い解決策があればいいのですが」
「私たちがカラスとお話しでも出来ればねぇ、なんて。ふふっ。それじゃあ、あたしはあっちを掃除してくるわね」
「はい。また明日お会いしましょう」
「ええ、また明日」
繁華街の先を指差した老婆は手のひらをひらひらとさせて立ち去っていった。やがて見えなくなった老婆を見送り、狐太郎はぽつりと呟く。
「カラスですか……少しお話をしてみますかね……」
◇
陽が沈み、夜が更けても辺りは喧騒に包まれたままで。人でごった返す繁華街と、酔っ払いすら立ち入らないひと気の全くない狐小路との間。そこに挟まれるようにして立つ電信柱の下に生ゴミの入った袋が次々と置かれる。というのも、この時間になると最寄りの飲食店がこぞってゴミを出し始めるのだ。
そこにやって来たるは、一羽のカラス。
ガァガァという特徴的な鋭い鳴き声を上げることもせず、光沢のあるその黒羽を羽ばたかせながら静かにゴミ袋へと舞い降りる。それから袋を破き、中から客の食べ残しや廃棄された食材の切れ端を啄ばんでゆく。世辞にも綺麗とは言えない食べ方で、一心不乱に食し、袋の中身を道路に散乱させていく。
もちろん、背後から迫る狐太郎の気配に気づいている様子はない。
決して怒鳴ることはせず、あくまで対等の同じ動物として、柔らかい口調でカラスに語りかける。
「カラスさん。こんばんは」
「あん? 今、おデは食事ちゅ――」
人参の皮を嘴で器用に咥えながら振り向いたカラスはもぐもぐと咀嚼しつつ狐太郎に応対する。
「なんダ、人間カァ……って人間ンンン!?」
そして狐太郎の姿を見たカラスは思わずそのオレンジ色の皮を地面に落とし、目をまん丸にして口をあんぐりとさせた。
「いえ、私はヒトではありませんよ」
「な、なんデ、おデの言葉が分かるんダ!?」
「ヒトではないからです」
「人間じゃないのカァ……。ん? なら、お前は何者なんダ?」
「私はこの先を真っ直ぐ進んだ所にある食堂の店主をしております、狐太郎という者です」
姿勢を正し、ピンと伸ばした手のひらを胸に当てながら会釈をすると、カラスは目をギョロリとさせ、声を張り上げた。
「あそこのカァ! 狐がやっているという小料理屋のォ!」
「ご存知でしたか。では……話は早いですね」
「なんだト? どういうことダ?」
「……よろしければ、うちのお店で御飯を食べていきませんか? もちろん、他のお客様同様、お代は頂きませんし、お好きな物を提供したしますよ」
「んグッ! こ、断るッッッ!」
一瞬、ぴくりと身体を震わせ反応したカラスだったが、直ぐにねじ切れんばかりに首を横に振り、狐太郎の申し出を断った。その後も何度か勧めてはみたものの、遠慮している素振りはなく、狐太郎を警戒の目で睨み続けた。
「カラスさん、どうしてでしょうか。訳を聞かせて頂けませんか?」
「ウヌヌ……怪しすぎるんダ。お前は怪しイ。信用出来なイ」
「怪しい……ですか。私はしがない食堂の店主です。カラスさんをご飯に誘ったのは実はゴミを荒らされて困っている方がいるからなのです。カラスさんがうちでご飯を食べるようになれば、いつでも温かいご飯が食べられますし、路上も荒れなくなります。両者の利益が一致するのです。素晴らしい事だとは思いませんか?」
「うぬゥ……」
カラスは俯き加減に身体を掻き毟り、羽根を散らし始める。一枚、二枚、三枚、四枚と漆黒の羽根がヒラヒラと落ち葉のように道路に落ちていく。
「怪しいと思うのは当然かもしれません。ですが私は料理を作り、お酒を振る舞い、お客様が笑顔になってくれるのを見るのが生き甲斐なのです。私はカラスさんの笑顔も見たい。その願いを叶えてはくれませんか?」
極めて真摯な対応で狐太郎は返すがカラスは、うぬぬ……と小さく唸り、だが、と付け加えた。
「……おデは狐は信用しない。昔カァちゃんに聞いた事があるんダ。狐は、おデたちカラスを騙して肉を奪った事があるから信用するなト!」
「肉を奪った……?」
そう呟いた狐太郎は指を顎に当て、考える。そういえば海外の、イソップという名の童話にそのような話があったような気がすると。
「決して、そのような事は致しません。それならこうしましょう、肉料理をお作りしましょう。いかがですか?」
「肉カァ……」
自分が想像出来うる限りの肉料理を頭に思い浮かべたのだろう。目を上向きにさせたカラスの口端からは夥しい量のヨダレが溢れでていた。やがてそのヨダレを舌で舐め取り、幼な子のように目を輝かせる。
「と、トマトも付けてくれるカァ?」
「トマト、ですか?」
「あァ! おデはトマトが大好物なんだァ! 南にいた頃は、畑のトマトをよく食べてたんだヨォ!」
「わかりました。そういう事でしたら、トマトを使った肉料理に致しましょう」
「そうカ、そうカァ……トマトと肉……ふふふ……」
「では、行きましょうか」
子どもを見守るようにニコリと微笑む狐太郎だったが、どういうことか、カラスはその場から動こうとせず浮かない顔をしている。
「カラスさん、どうかしまし――」
「イヤイヤ! おデは騙されないゾ。とびっきりの酒も用意してくれるくらいじゃないト、おデはテコでも動かないゾ!」
「もちろん、ご用意いたします。とびっきりのお酒を」
「じゃ、行く! おデ、行く!」
◇
あの騒々しいカラスは何処へやら。席に着いたカラスは、しばらくの間は借りてきた猫のように大人しかった。しかし羽と背筋をピンと伸ばし器用に椅子に座っていたカラスは、やがてキョロキョロと店内を見回し、自分以外誰もいない事を改めて確認したようだった。
「なぁ、狐の」
カウンターを隔てて厨房に立ち、食材の下ごしらえをしていた狐太郎にカラスは神妙な面持ちで話し掛ける。まな板からカラスへ目線をズラすと首を傾げていたカラスが狐太郎の目に入った。
「この店、お前だけでやっているのカァ?」
「ええ。私だけで、なんとかやっております」
「おデ、外からよく見てたガ、結構客、入ってる時あるよナ。特に金曜。一匹で大変じゃないのカァ?」
「そうですね……大変ですが、その大変なのも含めて楽しいものですよ」
「そうカァ。誰か雇えばいいのニ」
「雇う、ですか……それは難しいかもしれません」
「難しイ?」
「ええ。人型に変化出来る者は我々、狐か、狸。そして一部の猫と限られておりますし、何より皆、今の生活があります。私が道楽でやっているような、この店では生活も立ち行かなくなるでしょう……」
「そうカァ……色々あるンだナ……」
「はい。色々あるのです」
「ところで狐の」
「はい?」
カラスは真剣な眼差しで狐太郎の顔を覗き見ると、目をらんらんと輝かせてこう言った。
「シュワシュワが飲みたいんだガァ。人間たちがよく飲んでいるシュワシュワした飲み物ダ。酒はそれがイイ」
「シュワシュワですか。それならば、ビールに致しましょうか?」
「ビイル? ここはニホンシュというのを出しているんダロ? ニホンシュでシュワシュワしたのはないのカァ? おデは、シュワシュワが味わいたいんだァ、シュワシュワがァ」
「日本酒でシュワシュワですね。もちろん、ございます」
「オォ! それじゃ、それを頼むッ!」
「はい。ではまずは前菜とお酒をお出し致しましょう。少々、お待ちくださいませ」
◇
狐太郎が厨房に消えてから僅か数分。トレーに乗せられ、カラスの前に運ばれてきたものはカラスが今まで目にした事のない料理だった。手に収まるくらいのガラス容器に盛られているのは容器と同じくらい透き通った透明感のあるジュレ。その上には、ふんわりとほぐされた蟹身とバジルの葉が乗せられている。
自分はトマト料理をリクエストしたはずだぞと言わんばかりにカウンターへと羽を置き、身を乗り出したカラスは目の前に出される前に、その謎の料理を怪訝そうな顔で見る。
「おい、狐の。これは、なんダ?」
「はい。こちらは、蟹身とトマトのジュレでございます」
「そうカァ。蟹とトマ……トマトォ!? これ、トマトなのカァ!?」
そうしてブツブツと呟きながら考えるカラスだったが、結局のところ答えは出なかったようだ。
「トマト……トマトは赤い。でもこれは透明だけど、トマト。ウヌヌ……わからなイ」
「カラスさん。とりあえず、食べてみてはいかがでしょう」
「そうだナ。モノは試しダ」
目の前に置かれたジュレに嘴の先を慎重に近付け、恐る恐る、ちょこんと突っつく。その後、大丈夫だと確信したのか、再び嘴で突っつき、少しだけ啄むと、顔を上向きにし、口の中へと入れた。
瞬間、カラスの口いっぱいにトマトの甘酸っぱい味が広がった。透明なのにしっかりと感じられる馴染み深いトマトの味に困惑しながらも、無言でジュレを纏った蟹身を嘴で咥え、また口内へと招き入れる。戸惑いの顔から一変し、嬉々とした表情でジュレを食べるカラスにはもう狐太郎を疑う気持ちは消えていた。
「カラスさん、次はこちらも一緒にどうですか」
ジュレを堪能するカラスの目の前に、狐太郎は一本の細身のボトルを差し出す。季節外れな気もする涼し気な薄水色のボトルからは下から上に気泡が上がっている。
俗にいうスパークリング日本酒であり、日本酒でシュワシュワの正体である。
「注いでいきますね」
口から底にかけてスマートなフルートグラスに、炭酸が吹き零れないように気を付けて開栓した日本酒を注いでいくと、シュワァと清涼感のある音が空間を支配した。カラスはというと、嘴をパカパカと開いたり閉じたりしながら、狐太郎が注いでいく様を見届けている。
「白くてシュワシュワ……」
「発泡にごり酒なので、このように白く濁っているんです」
「シュワシュワ……」
「ええ、シュワシュワです。こちらのお酒の名前は――」
「酒の名前なんてイイ。おデは早く飲みたいんダ。シュワシュワ早くシュワシュワ」
「……失礼しました。では私はメインディッシュに取り掛かりますので、ごゆるりとお楽しみください」
「お! 分かったゾ、狐の! 期待してるからナ!」
「ご期待に沿えるよう、尽力いたします。では」
狐太郎が会釈して厨房に再び消えたのを確認したカラスは、嘴をグラスの中に差し込み、ズゾゾと下品に音を立てて酒を吸い上げる。そして顔を上げて開口一番、叫んだ。
「うまァッ!」
もう一度グラスに嘴を
「シュワシュワァ……トマトの風味がァ……口の中で弾けてェ……シュ〜ワァ〜」
口の中に残った余韻を愉しみながら、至福の表情を浮かべたカラスの頬は目に見えて紅く染まっていた。
というのも穏やかな香りに、しっかりとした米の旨みがあるこの酒は心地良い辛口で、非常に飲み易いお酒なのだが、アルコール度数が十五度もあるので調子に乗って飲んでしまうと簡単にこの様になってしまう。ましてや、酒を飲み慣れていないカラスでは一目瞭然、あっという間に酔っ払いの完成である。
「フワァ……シュワシュワトマト美味しイ……」
自らボトルを器用に持ち、空になったグラスに再び注ぐ。
とくとくとく。
ごくごくごく。
とくとくとく。
ごくごくごく。
ボトルもグラスも空になる頃にはカラスはもう完全に出来上がっていた。
「狐のォ〜まだカァ〜。おデは腹減ったぞォ〜」
空になったボトルをカウンターの上で揺らしながら狐太郎を呼ぶと、左手に白い皿を持った狐太郎が厨房の奥から戻ってきた。
「――お待たせいたしました。おや、全部呑まれてしまったのですね」
「狐のォ〜。お前が待たせるからだァ。腹、減ったぞォ〜」
「じっくり焼いておりましたので、少々時間が掛かってしまいました。それではこちらをどうぞ」
狐太郎がカラスの目の前に差し出してきたのは、直径十三センチほどの白い深皿。その真ん中に乗せられているのは――焼きトマト一個だった。
顔をほんのりと赤らめ、ウキウキしていたカラスの顔がみるみるうちに変化していく。熟れたトマトのように顔を真っ赤に染め上げるとカラスは激昂したように喚き立てる。
「こんなに待たせてトマト一個カァ! 狐のォ! 肉がないッ! ただ焼いただけのトマトなんテ、おデを騙したのカァ!」
再び沸き起こる狐太郎に対する猜疑心を抑えきれずに席を立つカラスだったが、狐太郎は全く動じている様子はなく、冷静に言葉を紡ぐ。
「カラスさん、落ち着いてください。騙すつもりなど全くありませんが、騙されたと思って、トマトのヘタを掴み、蓋を取ってみて下さい」
「ヘタァ……?」
「さあさあ。熱いうちにお召し上がり頂きたいのです」
「うぬゥ…………」
ギロリと狐太郎を一瞥したカラスの黒い瞳がトマトに移動する。目の前にあるのはオーブンで焼かれたであろう直径八センチほどのトマトだ。やや大ぶりで、ヘタから二センチほど下のところに切れ目が入っていて蓋になってはいるが、至って普通のトマトである。
だが、カラスがヘタを器用に嘴で挟み、上にあげた瞬間、その一瞬で状況は一変した。
カラスの顔面に襲いかかってきたのは、湯気と共にふわりと漂う肉の焼けたいい香り。
立ち上る湯気を掻き分けるように、あるいは匂いを嗅ぐように頭を左右に振ったカラスが目にしたものはトマトを受け皿としてパンパンに詰まった肉、いやハンバーグのようなものだった。
「狐の……これハ……」
「トマトの肉詰め焼きでございます。トマトとお肉、一緒にお召し上がりください」
「あ、あア……」
唾をゴクリと飲み込んだカラスは、狐太郎の言った通りに肉と受け皿になっているトマトを中央辺りで器用に挟み、口の中へと入れる。その瞬間、ほろりと肉は崩れ、中に隠されていた肉汁とトマトの果肉に含まれる水分がジュワァと口いっぱいに広がった。
「はひゃ……ふまひ……」
トマトは焼くことにより甘みが増す。そしてその甘みの中に絶妙に絡み合う酸味。トマト本来の旨みと、じっくりと焼かれた肉から滲み出た肉のエキスが見事に調和し、抜群の相性を生み出していた。
だがカラスにはそれを上手く表現出来る言語力を持ち合わせていなかった。ただただ言葉にならない声で「旨い、旨い」と連呼し、満面の笑みを浮かべるばかりであった。
◇
「喜んでいただけたようで幸いです」
「狐の、疑って悪かっタ。こんなに旨い飯を食べたのハ、初めてダッタ」
あっという間に一個完食したカラスは狐太郎におかわりを催促。予め、幾つか焼いていた狐太郎はその全てを差し出し、カラスは全てを完食。
そうして膨らんだ腹を撫でながら、七福神の恵比寿様のような表情を見せていた。
しかし急に陰を落とし、ぽつりぽつりと身の上を話し出す。それも悲しそうな表情で。
「……おデは仲間やカァちゃんとはぐれてカラ、ずっと一羽で生きてきタ」
「そうですか、ずっと一羽で……」
「一羽でいるのモ、南にいた時ハ、畑もたくさんあっテ、飯には困らなかっタ」
「南の方はここと違い、自然が多いと聞きます。ですが、ここは……」
「あァ。ここは畑ひとつ、なイ。空気も悪イ。食い物も生ゴミばかりダ。おデだって好きで生ゴミを食べてる訳じゃないんダ。人間たちは、おデを見るなり手で追い払ったり、時には恐ろしい武器で威嚇してきたりもすル……おデは腹が減ってるだけなのニ。おデは……おデは……」
今までの態度が嘘だったかのように瞳に浮かべた雫をカウンターへとポトポトと落とすカラスの頭を狐太郎は優しく撫でる。嗚咽を上げながらその暖かい手に身を寄せカラスは泣きじゃくった。
「一羽で大変でしたね……」
「あァ……」
「ですが、ヒトに迷惑を掛けていい理由にはなりません」
「…………」
「ヒトには本来、我々動物の声は聞こえないし、届かないのです。届かないのであればカラスさんの身の上も分からない。カラスさんに食べ物を与える道理だって無いのです。それは分かりますね?」
「……わかル。分かってル。でも、そしたらおデはどうすればいいんダ? 人間の迷惑になろうとモ、生ゴミを食べなくちゃ、おデは生きられないんダ」
「カラスさん。そこで、ここですよ」
人差し指を下に向けて上下にゆっくりと振る狐太郎の行動にカラスは疑問符を浮かべながら頭を傾げる。
「ここ、狐小路食堂は、いつでも貴方を歓迎しますよ」
「いいのカ……? おデなんかが、また来ていいのカ?」
「もちろんです。毎日だって来てください。お肉とトマトを使った料理を用意して待っております」
「でも、おデ、お前に何も出来なイ。おデ、何もない」
「お代は結構です。ただ食べに来て、お話をして下さるだけでよいのです」
「こんなに旨い飯をタダで食えるんなラ、そりゃ毎日来たイ。もう生ゴミなんテ、口にしたくなイ。でも、本当にいいのカ?」
「もちろんです」
「ア……ア……」
「はい?」
「ア……ありが……とウ。あり、ガと、う。ありがとう……」
何度も何度も言い直し、お礼を述べるカラスに狐太郎も口角を吊り上げ、微笑む。
「はい。どういたしまして」
「ア、あの。狐の。お前、名前なんだったカ。もう一回名前、教えてくれないカ」
「狐太郎と申します」
「コタ、ロウ。こ、狐太郎。疑って悪かっタ。そしテ、ありがとう。おデ、また来る。明日も来る。いいカ?」
「はい。お待ちしております。ええと……」
「おデ、名前、なイ。カラス、でダイジョウブ」
「分かりました。カラスさん、また明日もお待ちしてますね」
「ありがとう、狐太郎。それジャ、また明日」
狐太郎がドアを開けてやると、カラスは黒羽を羽ばたかせて暗闇の中、森の方へと帰っていく。姿が見えなくなるまで見送った狐太郎は店を閉め、閉店作業に取り掛かるのであった。
◇
カラスが狐小路食堂を初めて訪れてから数日が経った。
仕込みを終えた狐太郎は日課を行うため、箒とちりとりを手に、食堂の扉を開く。それから眩しい陽の光に目を細めながら、外の清掃をし始めた。
「おはよう、コタロウさん」
背後から毎朝、耳にする声が、狐太郎を呼んだ。
狐太郎は振り返り、その主に笑顔を返す。
「トメさん、今日も早いですね。おはようございます」
「コタロウさんこそ。あ、そういえば」
「はい? どうかされましたか」
「あのカラス、ゴミを荒らしてたカラスだけど、全然見かけなくなったのよ。どこかいい餌場でも見つけたのかしらねぇ。何にせよ、良かったわぁ」
「ええ、そうですね。良かったです」
軽く談笑した後、老婆と狐太郎はまた手を挙げ、それぞれの道へと分かれる。
そうして食堂への帰路の途中、狐太郎は今日も来るであろうカラスの為に、トマトの仕入れを増やさないといけないなと思い、ふふっと静かに声を漏らすのであった。
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