日常のバリエーション

@kaibami

第1話


悩みの多い女子高生、田畑つんぼが鳥になりてぇと見上げた空がぱっかり割れてヒト科の赤子がどさどさ落ちてきた。だいたいはそのまま地面に落ちて残念な結果に終わったが、運良く何かがクッションになり命を留めた赤子らは1つ残らず泣き喚いていた。それから間隔を空けて二度、同じくらいの数が落ちてきて、それは終わった。学校の屋上にいた田畑つんぼの悩みも、全て終わった。空から普通の雨が降り、隅々まで濡らした。


しかし、この出来事のお陰で、出る杭はほとんど打たれたし、才能の芽生えより遥かに数の多い、最近ちょっと調子に乗りすぎじゃないか、というような有象無象もだいたい凹まされたので、結果的には良い出来事と言えるのではないだろうか、と紅茶を飲みながら私は思った。夜はチャーハンにスライスチーズを乗せて食べてみよう、とも思った。


力強く鍵盤を叩く。ドー。たぶんドが鳴る。それに関しては時計よりも正確だと思っている。ヘッドホンを付けているから近所迷惑にはならないし、ヘッドホンを着けていないから私にも聴こえない。どうせ私の耳ではそれがドであったかなんて判断できないし、どうしても曖昧さ、疑念が残ってしまう。そこで正しいことが行われた、という認識だけがあれば良いのだ。その電子キーボードの「ド」を起点にして、私を含むこの部屋に正しさが広がって行くのだから。


そして正しさに満ちた部屋で観るテレビ。そこから溢れる、正しくなくて、私には関係のない出来事。否が応にも際立たされるこの部屋の素晴らしさ。今日も一日中、部屋でじっとしていよう。間違ったことは1つもしないで過ごそうと思いました。


ご飯がないので出かけました。1人暮らしで引きこもりは難しいなぁ、と普通のことを思いながら。赤子もあらかた取り除かれた道は平坦。太陽の慈悲がそんじょそこらに広がります。無駄なことをした人生の絵描き歌を口ずさみながら近くのスーパー「丸九半」の自動ドアが開くのを待ち、出てきた人とすれ違って入ったのですが、そこでふと、私ったら何をラジオのパーソナリティみたいに自分の行動を語ってるのかしら、はしたない。と思ったことをよく覚えています。そして赤面して店を出た私を、一部マスコミが「この店は野菜の鮮度管理すらまともに出来ないのか」と怒って退店したと報じたことは今も残念でなりません。


プラス思考で暮らしていこう。歌とプリンをこよなく愛する有名ブロガーまるかよさんが階段から落ちて亡くなっても、もうブログの更新を気にしなくても良くなったし、記事を読む時間を他のことに使えるし、と前向きに捉えていこう。そして休みが取れたら旅に出よう。きっとぎくしゃくと切符を買って。


きゅうりを追って出ていった息子が帰ってこない、と野村和歌子からメールがきた。野村は漫画家になる夢を諦めた知り合いだ。そういえば本屋の前に足首入りの長靴があったよ、片方だけ。と返信して様子を見る。カーテンは開けない。少し不謹慎だったろうか。虚言に虚言で返すのは誠実さに欠けるだろうか。マヨネーズの消費期限がわりと近い。土手で我が子を殺めた新卒社員の翼で飛べる距離は橋向こうが精一杯。インドよりマシと思って生きる私のニッポンは、海外から見たら良くできた発泡スチロール製のレンガにでも見えるのだろうか。通りを歩む人々の重みで地球が少しずつ小さくなっているのに気付いてください!というパンフレットが郵便受けに入っていた。人類を減らしたい、そして私たちは残りたい、とのこと。生卵とマヨネーズを混ぜたら量が増えるような気がしている。


竹林の竹が全て人。それも勝手に動く。そんなおぞましいショッピングモールにある占い屋の脇を通っていたら「あなた、私のこと馬鹿だと思ってません?」「いえいえそんなことはないですよ」という会話が聞こえた。少しだけ殺虫剤の匂いがした。虫など殺せ、という爽快なメッセージを内包したささやかな香りに惹かれて私も占われたいと思った。

なぜ人は生きるのか、毛を伸ばしてまで。不遇であると感じるのはなぜか。10分ほど待ったが今のお客が終わりそうもないので帰った。


買ったばかりのレコードを指で縦に回しながら音楽を聴いたふりをしているとスマートフォンが「貧乏」に似た音を出して震える。村役場からの一斉送信メールが「太陽がまぶしいのでパンティをください」と言ってくる三十代中肉中背の男に気を付けろ、と報せてくる。私に注意を促すよりも、私がその男に遭わないことを願って欲しいものだ。そしてわざわざ追記で作家カミュの「異邦人」に言及しなくても良いと思う。天気予報は曇り続き。しばらくは安心と予想される。他人の創作物を読んで眠る。エントロピーという言葉の意味をネットで調べたのに、説明を読んでも意味が分からなくてもやもやする夢を見て夜中に目を覚ます。ニッポンの夜は暗い。しかし47都道府県のうち46はここではない。死んだ蟻と、まだ生きている蟻とをより分けるアリクイの手つきで目覚まし時計を静かに伏せる。これで朝に見つからなくて済むという意味の行為ではないけれど。


朝のテレビでは座頭市とヘレン・ケラーが戦っている。一軒家の二階からスタートし、先に玄関のドアを開けた者が勝者らしい。家には40代の夫婦と妻の母親、今年中学校に上がったばかりの娘が暮らしている。対戦中の2人のことはいないものとして扱わなければならないルールなのだが、高齢の母親がいまいちルールを把握していないというところが見所のようで何度もリピートされている。チャンネルを変えると蝉が鳴いている。鳴いている蝉をベーコンで巻いている。そのまま油で揚げている。私はコーンスターチを胃に入れる。次にプリンを。


カーテンを開けたら素晴らしい。窓を開けたのならもっと素晴らしい。自分で自分を肯定しなければ否定材料には事欠かない。余所の子どもを泣かせても守りたいものが私にはあるから仕方がない。割れた窓ガラスの穴を下敷きで塞ぐようなものと言われても挽き肉で塞がなかった賢さを賛美する小人たちを探す余裕は見当たらない。グー+チョキはパー、グー-グーもパー。道に落ちてたパン屑を辿って、警察が家にくる。


パン屑を乗せた右手のひらをこちらに突き出し、警察は「パン」と言った。不機嫌な父のように。私は食べかけの食パンをその手に重ねた。警察は「ん」と頷くと、食パンをスーツのポケットにねじ込み帰って行った。何かが成立した時に鳴る音がした。久しぶりに聞いた気がする。前に聞いたときは窓の外で猫が交尾をしていた。そもそも警察ではなかったのかもしれない。来訪者を警察と見なしてしまう私の思い込みは、私の過去と密接に関係している。


無職のタンバリン奏者の野辺さんが今月の生贄に選ばれたのは燃えるゴミを出すときに袋の縛り方がゆるいことがよくあるからというやむを得ない理由だし私も回覧板の承認欄に判子を捺して燃えるゴミと一緒に出したけれど、野辺さんがこれから1ヶ月の間に受ける、現状に菓子パン1つ足したくらいの待遇は贄という言葉からはほど遠い穏やかさで結局は私たちの弱さや賢さを象徴している。こんな無意味な制度さっさと止めてしまえばいいと回覧板がくる度に捨てているのに2年経ってもなにも変わらず続いている。スマートフォンが周囲に遠慮しながらメールの着信を伝える。八つ子のメリーゴーラウンドに駅前のラウンドアバウトを占拠された。という報せ。三つ子くらいまでで止めることは出来なかったのだろうか。やり方は思いつかないけれども。それでも駅に行かねばならない人たちの哀しみを背負って、私は駅へは行かない。


餅が原因で若くして亡くなった甥の遺体を、たまたま近県で起こった未曾有の大災害による遺体の安置所にこっそり並べてきた津村さんから毎年、命日が近いこの時期に送られてくる長文の手紙が今年はまだこない。プラス思考にでもなったのだろうか。今日は風が強い。揚げたてのカツを飛ばされて嘆く男女がインターネット上に散見される。足りなかったのは力強さ。有り余ったのはキャベツ。1日のプラスマイナスを平らに馴らすロードローラーも欠勤が続いている。タバコの煙と淹れたコーヒーから昇る湯気を混ぜていたら、音もなく灰が水面に落ちた。運転も出産も、全てが自動になったら私が怒られる回数も減るのだろうか。タイムマシンで子供の頃に戻って、七夕の短冊に「呆けたい」と書きたい。そしてその延長線上の今でありたい。昔の恋人が指先から血を流している写真をメールで送ってくる。誓いが見つからないようだ。流血は心を可視化したものだろうか。それにしては量が少なく、切実さに欠ける。そういえば彼は、やること言うこと全般的に、そんな印象を与える人だった。視界が周りから暗くなる。目を閉じていたことを忘れて立ち上がり、座り直す。なぜ閉じていたのかを思い出し、横になる。


ハンググライダーとパラグライダーの違いがよく分からないまま、何らかの機構で空を飛んでいる。両手が塞がっていては検索も出来ない。目の前は下から見上げた時の空の下の方。足の遙か下に電線と電柱。遠くを走る電車。私が手を離せばグライダーが上昇するであろうことは想像できるが、それ以外の操作方法が分からない。いつの間にか目前に迫る、それはそれはジャイアントなジャイアントパンダ。私はそのもっふぁりとした身体に衝突し、暑苦しくて目を覚ます。この世界の何処かの部屋の扇風機が、ガーターベルトとストッキングを揺らしている午前1時過ぎ。そう思ってスマートフォンを見ると6時半過ぎ。この認識の差を埋めるには、映画2本分くらいのエピソードが必要なのだろう。受信メールフォルダを開くと銀色夏生と名乗る者から暮らしに彩りを与えるクーポンについてのお知らせが着ている。彼はいい人なのかもしれない。その気遣いが私以外の誰かに、しかと受け止められれば良いと思いながら改めて眠る。謹賀新年、と言ってもさほど間違いではない年の暮れに、今と同じように私が息をしていることを願いながら。


粘土から土の味を抜いたような団子を食べる私よりも貧しい人々への甘酸っぱい慈愛をオカズに朝食を済ませ、でんぐり返しで洗面台へ向かう幻想の私を追い越して先に歯を磨く。歯が一枚の板状でないのは何の手違いだろうか。どうせ思いのままにならないのなら、せめてアフターケアのことを考えておいて欲しい。人類はもっと良くなる。泥から産まれた塚本さん家の長女に子供が出来た、と郵便受けに入っていたA4サイズのビラで知る。塚本さんは、たまにこのような手製の家族新聞を近所の家に配って回る癖のある老夫婦だ。対面したことはないが元気そうでなによりと思う。しかしもしかしたら、既に亡くなっている塚本さんに成り代わって、別の家族が新聞を作り続けているのかもしれない。そうだとしたら、その場合の感情は嫉妬か羨望か、または哀れみか。とりあえずこの件は保留としておいて、新聞を丸めて捨てる。どうせ丸めるなら何かを包めば良かったか。金魚など。


役に立たない図鑑を眺めながら本と人間の違いを考えて大敗を喫する私の、取るに足らない役割を果たしに今日も家を出る。遠心力の勢いで出勤し、戻ってくる力で帰ってくる自分をイメージし、その間に経過した時間については不問とする。要するに終わった、ということだ。ビー玉3個分の煌めきさえ覚束ない日常をぎりぎりの高さで越えていくベリーロールで今日もベッドに倒れ込む。ヒロイン気取りの独り舞台のカーテンは閉まりっぱなし。まるで青空に浮かぶ雲のように形を変えながら私の中を移動する、ツナや春雨。ミニトマト。


眠れずに語り合った夜のことを思い出そうと記憶を辿ったら園児まで戻ってしまった。そんな夜など無かったと言いたいのだろうか私は。5年くらい前から違う誰かの記憶に切り替わっていると考えることは出来ないだろうか。または友人のいない人の間を転々と乗り移る魂が、たまたま今は自分を司っていると言っても良いだろうか。誰も聞いていない場合に限り良しとして、この時間はそれに該当する。さよならと言って離れた人の中に、改めて声に出して呼びかけたい名前は無い。黄ばんだカンヴァスに油彩で描く家計簿よりも価値のある光景など無い。月が地球に墜ちる時、自らの使命を思い出し覚醒する予定のアジア象たちも乱獲によって数を減らし、もはや何の役にも立たない。その時、彼らは目に涙を浮かべるだろうか。そこまでの知性を持っていなければ良いのだが、と思いながら私はてんてんと靴を履き、外へ出る。何気なく髪に触れると、後頭部に1本、針金のようなものが生えている。長さは10センチくらいだろうか。抜こうとすると頭皮が引っ張られ、何か抜けてはいけないものまで一緒に引き抜かれそうな肌寒い感触がある。とりあえず根元から、頭の形に合わせて折り曲げる。痛みはない。


メートル法を讃える歌を歌いながら小学生の集団が下校する。どうすればすれ違う私がこれから登校するわけではないと、彼ら全員に間違いなく伝えることが出来るだろうか。「私は学校へは行かない」という意味の英字がプリントされたシャツを着れば良いだろうか。日本語はさすがに恥ずかしい。自意識過剰ではないかと思われるのが心配だ。それでも頭の中にゆっくりと「そんなことを考えるのは無駄だ」という認識が広がってゆく。私もそう思う。そうしてまた私は、何か新しい、素晴らしい発見への入り口を閉ざしてしまう。閉ざす口あれば開く口あり。開店時間ちょうどにたどり着いた本屋の前に転がる、片方だけの長靴を入口隅に立たせ、手近に咲いた紅い花を差し店に入る。その様子を犬が見ている。本屋に溢れる使用済みの紙束を眺めて勿体ないと思って帰る。途中、パン屋に寄ってプリンのパンとメロンのパンを買う。道路のギリギリまでゴミが積まれている大五十嵐さん宅の前で記念写真を撮っている2人の外国人観光客の英語が翻訳されないまま私の耳を通過する。ブライダル、と言った気がする。


日捲りカレンダーを毎日0時丁度に捲りきる定価6万円のロボットの機能を目の当たりにすることなく私は毎朝床に落ちた日付を拾い、裏を表にして所定の位置に重ねる。1日1枚、メモ用紙が増えていく。数字は抜けることなく正しく並んでいる。そうして1ヶ月分がキレイに揃うと、ピコンと何かが弾けるような音がして紙束は消え、私の右上に表示されている得点が増える。3千点を越えると1面クリア。2面に私は出てこない。そこで私は自分がプレイヤーでも主人公でもなかったことに気付くのだ。しかし、もしそうしたらその後、私はどうやって生きてゆこう。新しいプレイヤーがくるのを一面で待ち続けようか新しい仕事を探そうか。それに比べたら今の暮らしは平和そのもの。私と十字架と野良犬を結ぶ糸は路肩で雨に濡れている。屋根のある幸せに部屋中が気付き、どこも濡れていないと喜びの声をあげる。やがてその声も一段落する頃、足りないものへの不満が浮かび上がる頃、私はお腹の痛みの他に何も考えられないでいる。右手でお腹をさすりながら、頭とお腹をループする「すごくお腹が痛い」という信号を力ずくで、小刻みに古今東西の名探偵に送る。2、3件の殺人事件を迷宮入りさせた辺りで、ようやく痛みは治まる。


新しい情報は何もない。新しいものはこの日付と時刻くらいだろうか。これを死ぬほど欲しがったのに貰えなかった人のことを考える。その表情を思い浮かべると何故か黒くなってしまう。何語で欲してるのか知らないけれど、その切実さを幾らかでも分けてくれれば、私ももう少しドラムが巧く叩けただろうか。今の記憶を持ってあの頃に戻っても、出来ることはあまり変わらないような気がする。それは慰めだろうか。期待に応える返事はない。村井千賀子から「ズボンの入り口知らない?」とメールが着ていた。返す言葉もない。テレビを観ているとニュース速報が入る。「今月初めから、テレビから菖蒲(あやめ)色が消えてるんだけど、気付いてた?」とのこと。きっとその他にも幾つかのものが消えているのだろう。たぶんそれは色ではなく、芸人とか。影響の少ないものを敢えて公表することにより大きなものから目を反らさせる、ありふれたやり口だ。私はテレビ画面を優しく撫で「大丈夫、誰も気にしてなどいないから」と呟いて消す。一瞬だけ、嵐の相葉くんが映った。


のどの奥に、のどと同じ太さのミミズがいると仮定して食欲を無くすダイエットをしていた女性が呼吸困難で亡くなったというニュース記事を読まなかった世界の私がハンバーガーを片手に1つずつ持ってもりもり食べている想像をして、どちらが良かったのだろうかと考えていると、風鈴がちりーん、と鳴る。風の無い室内でも風流な気分が味わえるようにとスピーカーを内蔵したこの風鈴は、数年前にネットの俳句コンテストに入選してもらったものだ。律儀に窓枠にぶら下げた当時の私は、今より明らかに若かったのだろう。それは好ましいことだ。私という人間が、昔から何もかもまるでダメだったわけではないという証拠だ。そして今の私にそれは不要だ。秘密の箱に風鈴を入れて、鍵をかけて鍵を捨てて、箱も捨てて、冷蔵庫を開けてパンを取って、電子レンジで温め直して、温め過ぎて冷めるのを待つ間に行ってしまった、様々な列車と、それぞれのレール。チャンスは幾らでもあったかい?と壁に問う。跳ね返されて戻ってくる問いは無視をして、私はそこに緑を置きたい、と思う。なにか育つものを置きたいと思う。すると、思ってはいけないことを思ってしまったときに現れるキャラクターが、久しぶりに顔を出す。それは私が過去、やってみようと思ってやって、上手くいかなかったものたちの象徴であり、私のことを「ママ」と呼ぶ。


ガソリンスタンドの真横で爪を研いでいる間にも私の口座に小銭を追加してくれるようなゆるキャラについて考えていても、目の前を車を数台乗せた大きなトラックが通り過ぎれば何かを思い出してしまう。記憶にフタをして、精神異常のような偏執さでフタを縫いつけて久しい今では一瞬で終わる反射的な揺らぎでしかないけれど、それ以上弱まることはないのだろう。自分が馬鹿であることに異論はない。グミをパンに挟むほどではないにせよ。「私の辞書にパーティーという言葉はない」と、インターネットに書き込んだ後で、2、3度はあったことを思い出す。この虚偽が追求される日はくるのだろうか。もしそれが、もう顔も名前も忘れてしまった嘗ての同級生の証言によるものであったとしたら、私はその幸福を唇から溢れさせずに否定出来るだろうか。


遥か遠くに海岸線。ここは波打ち際。浜辺に打ち上げられたシーソーが何かに押されてぎこたんばこたん鳴っている。今日も沢山の水と入れすぎた塩の中で、美味しいものや生臭いものが育っている。きっと塩で水分が抜かれ、同時に周りから水を摂取する、そのような絶え間ないサイクルが力強い何かを育てるのだろう。最後に必要になるのはやはり根性なのだ。今は静かに往き来する波を眺めながら、私は自らの我慢強さのせいで手遅れにしてきたものを新しい順に4つ思い出し、帰路に着く。


アメリカンドッグをあたふたと扱いながら私の人生は今後もこんな感じかしら、と思ったのでその旨を眼前のアイスコーヒーに報告する。無音であることには何の苛立ちもない。木々を彩る黄緑色の緑が風に揺れながら「お前の感傷を俺に乗せるな」と怠そうに主張している。そんなことはないと思う私と、そもそも何も主張していない木々の間の、ちょうど中間地点を進む物に乗りたい。自販機の下に手を伸ばす半分黒い野良猫のお腹の中で作られつつある、新たないらない命に「思いとどまれ」と念を送る。


手に塗った栄養クリームが乾くまで何にも触れない。なにかの到来を待ち望んでいる人に思っていたものとちょっと違うものが訪れるけれど、世の中そういうものよね、という主旨の歌を歌いながら、うっかりなにかに触れてしまう時を待つ間にふと、私だって他人の諦めによって許されてここまで来たのでは、という疑念が生まれる。ここまで来なかった場合は死んでいたのだろうか。可能性の数だけ分岐する世界で同時に存在する私の8割が途方にくれている。私はその一歩手前で、茶碗に湯を注ぐ。


前世は首切り役人だったと言ってきかない丸園悦子から「虹!」という件名で曇り空の写真が送られてくる。誰も相手にしないからこんな風になってしまったことについて、御両親に尋ねたらなんと答えるだろう。私はお湯を飲みながらその写真に件名を添えてインターネットに投稿する。どこかの他人がロクに見もせずに「いいね」をすることで供養が終わるような気がする。そんな、溜まってゆくばかりの写真をつらつらと眺めたり陰湿な漫画を読んだりしている内に、お湯は冷めて水になる。その悲しみはスーパーで買い物中、少し目を離した隙にいなくなってしまった三男が夜に貯水槽で発見された専業主婦の悲しみの何十分の一くらいだろうか。濃厚なマーマレードの匂いが漂ってくれば忘れてしまう程度の悲しみだろうか。私は水を飲まない。それは私より強く水を欲している人のためではない。


キャサリーンと呼ぶ声がメールの着信を知らせる。たまたまタイミングが重なっただけかもしれない。二十歳の誕生日に下唇に豚毛を移植してオンリーワンの自分になった佐伯泉からのメールは読まずに捨てて、私はただでは生かさせてくれないこの社会で生き残るためにやるべき20のことという本を読んで自分は生き残れない側の人間だと思いながら生きている人たちの表現展が一昨日から開催されている、数ヶ月前はコンビニエンスストアだった近所の建物に行く。受付に座る小太りな男の前に立ち、がま口を使ったトリックで五百円玉を出現させ中に入るなり私は「ここがコンビニエンスストアなら良かったのに」という言葉を飲み込んだ。周りの人からは思わず息を飲んだ風に見えただろうか。だとしたら、周りに人がいなくて本当に良かったと思う。「絶望」と書いて「絶望」と読ませるような展示物の数々を眺め、ここにビー玉を1つ置いたらあらゆるランキングの首位を独占するだろうと思いながら私は髪の長い、ワンピースを着た女の脇を通って会場を出た。私はそこにいなくてもいいんだ、と思った。一度、丸められたあとで広げられ、しかし何事もなかったかのように振る舞う紫色の折り紙みたいな空の下、健康に役立つドリンクを手渡され上機嫌な私がいる。降りる駅を間違えていることに気付かない異邦の旅人のような気持ちで部屋のドアを開けると、部屋の真ん中に女が倒れている。


鍵は締めたはずだが、と周りを見回すと窓が大きく割れている。つまり怪しいところは一つもない。密室でなければ中に入ることは容易い。女は腕と脚を軽く折り曲げ、横向きに倒れている。とりあえず脈をとって、もし無かったらそこで初めて知った感じで驚こうと決め、上側にある右手首を持つと、視界に違和感が生じた。見えるものの何かがおかしい。知り合いだろうか。たしか母親ではないはずだ。ならばこの違和感は何か。しばし考え、思いつき、私は女の右腕の肘を、床にある左の肘に慎重に、正確に重ねてみて了解する。この女は右腕の肘から先が、左腕のそれより5センチメートル以上長い。


放置した、と言うべきか、部屋に保護していると言うべきか。今の私は町の広さに驚いている。女が目を覚まして部屋を出ていくまでに必要な時間はどのくらいだろうか。目覚まし時計をかけてこなかったことが悔やまれる。女の左手指を伸ばそうと引っ張っていたら振り払われたので慌てて外へ出てしまった。目的もなく歩きながら、私が大事にしていきたい自分の良いところを考えていたらいつの間にか辺りは暗くなっている。路地裏で交尾をしている男女も明日の仕事を思い身嗜みを調えている。私はもし部屋に女がまだいたら、窓辺に座らせて風を防ごうと思いつつ部屋に帰る。窓の穴が1つ増え、女が2人倒れている。こういうのはとても困る。


まずは先にいた女を、出来るだけ静かに抱え上げ、女が入ってきたであろう窓の穴から外に出してみようと思う。そのまま下に落ちるような世界なら私はもう奇跡を信じない。それに2階だから落ちてもたぶん大丈夫。深刻なことにはならない。


意識のない人体はなかなか扱いが難しい上に、窓ガラスの穴から出そうとしたことに無理があったのか、真横のままふわっと手放すつもりが頭からずるんと滑り落ちてしまった女の背から翼が生えればいいのにと思う間もなく地面に到着したのを見届ける。新幹線が轢いてくれれば何もかもなくなるのに女はまだそこにいる。はしたなく開いた脚が街灯に照らされ、隠されていた女子力をアピールしている。「では次の人ー」と呟き、もう1人の女を抱える。まるで中身が空っぽであるかのように軽いのは、中身が空っぽであれば良いと思う私の錯覚だろうか。次こそちゃんと、下に落ちない。そんな私の願いをあっさり裏切り、時刻は午後11時半を向かえる。タイマー設定をしていたラジオのスイッチが入り、ポップな音楽に乗せて可愛らしい声が部屋に流れる。「橘しこりのフィンガーズナイト」の時間だ。窓の穴にはとりあえずカーテンを閉じて対応し、私はラジオの前に比較的きちんと座る。この番組は、家族について暗い感情しか持てないアイドル橘しこり、こと私の妹が、昨日見た夢の話やリスナーが見た夢の話、いつか見てみたい夢の話を楽しそうにする番組だ。ちなみに番組名の「フィンガーズ」は彼女の指が左右合わせて12本あるところからきている。コンプレックスを個性にした良い例だろう。今は水没した町を傘をさしながら泳ぎ、空に浮かぶ鯛焼き屋さんへ行って真っ赤な鯛焼きを買う夢について語っている。もう何年も顔を合わせてないのに、こうして話し声を聞けるというのは便利なものだ。これからも私が毎週聞いているなどとは夢にも思わず、朗らかに続けてくれればよい。私は飲みかけのコップの中に何が入っていたかを思いだし、流しに捨てる。そして体長5センチメートルくらいの甲虫が2匹、部屋のどこかにいると想定してベッドに倒れ込む。


風が、忘れられた女たちを舞い上げ、無かったことにしようと出来るだけ遠くの海を目指し運ぶ。そうしてくれると助かります、と私はカーテン越しの空に会釈する。決して無かったことにはならないガラスの穴を塞ぐための下敷きをネット通販でまとめて買う。ついでに胸の部分に「太陽と奴隷船」と書かれたエンジ色のTシャツを買う。


豚の胃の中を淡くぼかしたような色の空からコクヨの画鋲が降り注ぐ中、運命を奏でる鼓笛隊が交差点を封鎖し、気にしないトラックが通行してゆく。もつれたメロディが戻るまでの間になら許されそうな悪態をつく人々。そこから200メートルほど離れたアパートの2階で、私は開け損なったドアの鍵を締め直し「どうしたの?」と問う母の声に「どうもしない」と小声で返す男子の粗雑さで椅子に腰掛ける。天井に貼った雲のポスターが半分剥がれている。どんな姿勢とどんな目で、それを貼ったのかまるで思い出せない。


女子になりたかったのだ私は。焦燥もなく。いまだに次の夢は見つからない。起きたら虫になっていた人の名前が、いかにも虫になりそうなものだったのは偶然だろうか。意味のないものにも価値があるとするならば、次に必要なものはなんだろう。意味も価値もないものがあるために必要なものはなんだろう。本当に意味も価値もないものが本当にあるならば、ありとあらゆるものがあっていいものであるならば、後で挨拶でもしに行こうか病院のベッドで死にかけの祖父のところへ。


決意や決心の言葉をシャッフルして一番上っ面のカードをめくれば大抵の用事は必然性を失う。私から自販機へ小銭を運ぶ蟻の列と、冷たいミカン飲料を自販機から私へ運ぶ別の蟻の列を想像しながら今日することを諦めても誰からも怒られない時間の到来を待つ。ほとんどの場合、スタンダードは美しく、変形は歪だ。歪なものの美しさは反抗期のように一過性だ。問題は私たちの飽きやすさでしかない。何かの本で読んだが、願いがあるとき、それが現実になったイメージで言葉にすると、より叶いやすいらしい。つまり「お肉食べたい」と願うよりも「お肉食べた」と言った方が結果的にお肉を食べやすいということだが、既に食べたという人に誰がお肉をごちそうしてくれるのか、甚だ疑問である。


自分の名字が板東で、周りから「ばんどうさん」と呼ばれていたら、私はもう少し地に足を着けた暮らしをしていたように思う。この思いが無い物ねだりなのか世迷い言なのかはっきりするためにスマートフォンを使い母へ「もしかしたら父は板東さんではなかったろうか」と問うと私はそれまで当たり前のようにあると思っていたものを失い初めてその大切さに気付くのだろうか。何気なく発した一言が掛け替えのないものを一瞬で台無しにする様を目の当たりにするのだろうか。そう考えながらこれからも生きてゆこうと思い、どうせならあんパンを買えよ、と自分に悪態をつき食パンをかじる。


郵便受けに「私的制裁倶楽部」と書かれたチラシが入っていたので捨てる。誰だって頑張ればミュシャみたいな絵が描けるようになるしボードレールみたいな詩を書けるようになる。トイレのドアを開けると女が座っている。水を流しても一緒に流れてゆくようなサイズではない。よく見ると女は便座にフタをし、その上で体育座りをしている。表情はまるでテレビに夢中な子供のように、目はまっすぐ前を見、口は半ば開き固定されている。私に気づいた様子はない。暇つぶしがてら、スケッチブックを開き女を描く。目に見えるものをそのまま絵に描くことが出来ないのは、私の目が悪いのだろうか、それとも手が悪いのだろうか。もしや目と手の仲が悪いのかもしれない。

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