……いずみさん、帰ろうか?
僕はいずみさんに飛びつくようにして突進を止め、カッターを取り上げようと腕を取る。
「なんであんなやつを守るのっ!」
「違う! それはいずみさんがすることじゃない!」
「わたしは、まなぶの原稿を大事にしなかったから! あの女に渡したせいだからっ! わたしのせい! わたしのせいだから、わたしがしなきゃダメなのっ。いいから離して!」
「いやだ!」
僕は両手でいずみさんの右腕をひねる。
力を加減してではなかなか引きはがせず、しばらくもみ合う形になる。
「――いっ」
「――――っ!」
いずみさんが小さく声をあげ、ようやく、手からカッターが離れた。
落ちたカッターはカシャンという音を立てて、床の上で小さく跳ねる。
いずみさんが僕の手を見るために一歩後ずさりをする。
「ダメだよいずみさん。いずみさんのマンガを楽しみにしてる人はいっぱいいるんだから。ね?」
いずみさんは、僕の右手を見ていた。
――ぱたっ
滴が床を叩く音がした。
すぐにもう一度、今度は二回の
見ると僕の腕にはスッと赤の直線が引かれ、そこからさらさらと血が流れ出していた。
「まなぶ……手、血が……」
彼女の顔が青ざめていた。
自らの服を僕の傷に押し当て、両手押さえながら、叫び声をあげた。「……ぁぁぁあああああ。ああああああああーーーーーーーーーーーっっっっっっっっ!」
僕はいずみさんに笑いかける。
「だいじょうぶ。全然へーき。痛くないから。いずみさんこそ腕は大丈夫? 怪我してない?」
僕の問いかけには答えず、いずみさんは、「うそっ、痛くないの!?」「動かないの!?」「血が止まんない!」「どうしよう!?」と、同じ言葉を繰り返し、出血を抑えようとさらに力を込めて傷口を合わせるように押さえてきた。
「血が、血が止まらない! やだ、止まってよ! ああぁ……あああーーーーっっ!」
叫び、さらに目を赤く染めて、彼女は大粒の涙を流した。
僕の腕にしがみ付くようして、何度も謝罪を繰り返す。
ごめんなさい。
ごめんなさい。と。
「学! 救急車をっ!」
紅麗亜さんが携帯電話を取り出した。
「だめだ!」
声を荒げて制止する。
「……大丈夫です。手、動かせるから。たいした傷じゃないです。だから救急車は呼ばないで。事件になっちゃうと大変だ」
「しかし!」
「動くから。……ペンだって、握れるように動くから」
あの時の怒りより、今は彼女を守らなくてはと思っていた。
「本当に動くから、大丈夫です。とにかく、いずみさんが落ち着くまで、待ってください」
僕は彼女の頭をなでる。
「いずみさん、僕は大丈夫だからね」
彼女は泣きじゃくりながら、何度も何度も、何度も謝っていた。
謝罪よりもそれは必死な祈りにも聞こえた。
実際に右手は熱っぽさのほうが強くて痛みはそこまで酷くなかった。
人さし指も動く。薬指を動かすと痛いだけで、きっと描くことに支障はない。 だからこれだけ冷静でいられたのだと思う。
彼女の悲痛な叫びはしばらく続いた。
泣きすぎてしゃっくりが止まらなくなり、息も絶え絶えになってきて、手を握る力も弱まってきて、ようやく静けさを見せ始める。
それでもまだかすれて、か細くなった声で、ごめんなさいとつぶやきつづける。
「……いずみさん、帰ろう?」
僕は彼女を抱きかかえて立ち上がらせる。
腕の傷を見ると出血はほぼ収まっていた。
「ほら、血が止まってる。たいした傷じゃないでしょ」
彼女はしゃっくりで不規則になった呼吸のまま、小刻みに頷いた。
「……彼女を家まで送ります。この一件は、僕に預けてください」
それだけ言って、僕らは荒れた作業場をあとにした。
外は知らない間に漆黒に満ち、黒い空からは雪が降り落とされていた。
雪はアスファルトの上で溶けて、みぞれ状に積もってた固まりは堆積した泥のような、綺麗とは言い難いグレーの凹凸を作っていた。
僕らはそれを、くちゅんくちゅんと、力ない音で踏み潰した。
血で染まった服を着たいずみさんを隠すため、彼女にコートを掛けた。
帰り道もいずみさんは僕の横で泣き続けた。
どこにそれほどの涙を溜め込んでいたのだろう。
彼女の家に着くまでに、僕の袖だけが広い範囲でぐずぐずに濡れていた。
彼女を家に送ってから念のため病院で診察を受けた。
大事には至らないと告げられ、包帯を巻かれた右手を見下ろして、ペンを握る形を作ってもあまり痛みがないことにホッと息が漏れた。
しかし問題はそこじゃなかった。
僕の貯めていたアイデアはあの日から、すべてが無味乾燥なものに見えた。
そしてもう一つ。
いずみさんがペンを握ろうとしなくなった。
ごめん、描けないや……。
そう言った彼女は、自身のマンガ家人生で、初めて連載に穴を空けてしまったのだ。
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