**3章**
やるべきことはなんですか? -1
いずみさんがペンを握らなくなって一ヶ月以上過ぎた。
包帯のとれた僕の右手は、まっすぐの肉腫の線を残したままだが、すっかり痛みは消えていた。紅麗亜さんからの連絡もなく、あの日のことは預かると言ったように、誰も何も言ってこない。広小路先生もあれからずっと休載が続いている。
僕もいずみさんもあの出来事を極力口にしないようにしていた。
意図的に避けている感があった。
今日も学校帰りにいずみさんのアパートに寄り、インターホンを鳴らす。
はい~と気の抜けた声がした。
「すいません寝起きでしてぇ~。ちょっとまっててくださいねー」
「いずみさん、もう夕方だよ」
「その声は、まなぶ?」
「うん」
「わたしの旦那さまの、まなぶ?」
「すいません、家を間違えました」
「ごめんごめん。冗談です、冗談」
ようやくドアが開いた。
僕は「生活管理も創作活動のひとつですよー」と、あの事件を避けるように、努めて平然としてに部屋に上がる。……が、部屋の中を見てその乱雑さに目を点にする。
「あ、いやーん、えっちぃ~」
描きかけの原稿用紙やトーンのカス。使った画材道具の山々。とくに目につくのは散乱した原稿用紙の多さだった。丸めて捨てられているのものあれば、そのまま床に落されたものもある。それにはずべて、ある印がついていた。
「えっと……いやまあ、ちょっとね」
彼女はちゃぶ台の上に置いてあった紙も無かったかのように床に払い落とす。
「そ、そーじしなきゃねっ。そーじ!」
それでも落ちた原稿用紙は表を向けたままで、そこにはすでに散らばっていた紙達と同様に、鉛筆で描き殴った上から筆ペンで大きな×印が描かれていた。
「いずみさん……」
「も~、あんまり見られると、いずみちゃん恥ずかしいにゃあ~……」
ごまかすような口調でも、覇気のない声だと分かる。
そして、
「……マンガ描かないと、全部なくしちゃうって思ったら」
と、痛々しく笑った。
僕は何を言えばいいのだろう。
言葉は瞬時に浮かばず、僕は彼女に同意する形をとった。
「……そうだね。いずみさんは、プロだもんね」
「そう、いずみちゃんはプロだからねっ。プロだから、プロだから描かなきゃファンは消えていくし、お金だって入らない。みんな離れていっちゃう。……だったら描けないなんて言ってちゃダメだもんね。描かないと……まなぶがここに来る意味もなくなっちゃうしさ」
「そんなことないよ」
「そう?」
「うん。それにさ、いずみさんはすぐ描けるようになるって! 次の締め切りがまだ先にあるから気持ちが乗ってないだけだよ」
「そっかー、そうに違いないね! うん……、そうだよね……」
また力のない返事だった。
「掃除、しますか?」
「そうだね。ゴミ袋持ってくるよ」
僕は床に捨てられた紙を拾い集めて袋に入れた。
そこに描かれたマンガは誰も生きていなかった。
いずみさんが描いたとは思えなかった。
認めたくなかった。
だから僕は、それらを見ないようにゴミ袋の奥へ奥へと押し込んだ。
掃除を終えてから、夕食はどうするのか訊ねると、また寝るからいらないと言われた。食べに行こうと誘っても、断られた。
「……あの、いずみさん。しばらくの間、こまめに来られなくなるけど、いいかな」
「どうしたの、用事?」
「うん。少しの間だけ用事ができたんだ」
「いいよ。用事あるならそれを優先しなよ」
「ありがとう。それじゃあ、また今度」
「うん……また来てね」
いずみさんは笑ってドアを閉めた。
だけどそれはとても静かに。
音を立てない閉め方は、明らかに元気のない証拠だった。その切なさがさらに僕をせき立てた。ドアを背にして大きく息を吸って、大きく強く吐き出した。
――僕のやるべきことは決まっていた――
僕はエレベーターを使わずに、階段を全速力で駆け下りた。
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