締め切りを破るマンガ家は好きですか?-2


「だから、とにかく読んでみて」


 いずみさんは僕からおそるおそる封筒を受け取った。

 しばらく手にとったまま見下ろして、丁寧に原稿の束を取り出した。


 原稿は上から順々に一枚、また一枚と手に取られ、いずみさんの視線はゆっくりと紙の上を旅していく。


 僕はただじっと彼女が読み終わるのを待った。


 終盤にさしかかり、いずみさんの手が止まり、目を伏せる。


「……ダメ」


 と、彼女が鼻をすんと鳴らす。


「卑怯だよ。これ以上読んだらわたしの涙腺ホントやばい。だってどう読んだってこれ、男の子は君だし、女の子は、その……わたしだし」

「そうだね」

「いつものアクションマンガはどうしたのさ。いつの間にこんな青春くさいのを描くように……、いつからこんなに感情を描けるように……。いつからこんなに……」


 もう彼女の声は震えていて、僕の原稿にシワがつかないよう大切に体に抱き寄せる。


「いずみさん。これがいま、僕が描かなきゃと思って、僕がいちばん描きたくて、いずみさんに読んでほしかった作品なんだ。この男の子も女の子もマンガが好きで好きで仕方ない」


 そして僕は鼻を掻いて、だけどここまで来てしまったし……と、逃げずに言った。


「僕は、マンガが大好きないずみさんが好きなんだ」


 いずみさんは原稿をやさしく抱いたまま、言葉を発さない。

 俯き、すすっていた鼻も、ゆっくり落ち着いてきて、

 そして、


「……いま、何時?」

 

 いずみさんが訊ねる。

 僕は時刻を伝える。


 いずみさんが携帯電話を手に取って電話をかけた。

 静かな公園にいずみさんの声だけが響く。


「もしもし「紅麗亜くれあ? ひとつムチャを聞いて。今の締め切り、明日の夕方まで延ばして。掲載予定の枚数はいつも通り40。あと写植はそっち。急な無茶だけどね。……何よ。……そっか、いつも通りだね。……違う、泣いてない。……うっさい、泣いてないったら泣いてないっ!  …………そのことはまなぶが決めること。でも、これが終わったら、わたしたちはわたしたちでちゃんと話をしよう」


 あんがと。

 最後にそう言って彼女は通話を終える。


「いずみさん」

「まあ、わたしの数少ない友達だし。このまま始末付けないと、まなぶも気持ち悪いしょ」


 携帯電話をポケットに入れると、いずみさんは、えいやっ! とかけ声を上げて両手で頬をバシバシッと叩く。

 覆われた手を離すと、その奥から現れた彼女の表情は、僕の見たかったいずみさんの顔になっていた。


 それは、

 ――いつものように力に満ちていて――

 ――それは、たまにいじわるい笑みを浮かべて僕を茶化し――

 ――それでいてマンガのことになればまっすぐ向かい合う――

 ――僕が憧れ、惹かれてしまった――

 僕の大好きなマンガ家、瀬戸原いずみの目だった。


「締め切りまで四十時間もない……。よし、まなぶ! 君は今すぐ学校に戻りなさい!」

「はいっ! って、あれ?」


 ……手伝え、じゃないの?


「学生の本分は勉強。アシスタントを理由にサボるなんて言語道断!」

「で、でも時間が」

「そう思うなら放課後すぐに仕事場に来なさい。徹夜してもいいように授業中の寝溜めなら許してあげる! 君が戻る頃にはネームを終わらせておくから、ペン入れと消しゴムお願いね!」

「あ……、はい」


 サボるのはダメで、授業で寝るのはいいって矛盾だろ。 


「じゃあまた仕事場でねっ!」

「え? 仕事場って、いずみさんこっちに引っ越したんじゃなかったの?」

「なんのこと?」

「だって、紅麗亜さんは『実家に帰った』って」

「うん、そだよ。傷心旅行ならぬ、傷心帰省」


 ……帰省かい。



 僕らは夕方から寝食を忘れてマンガを描き続けた。

 空が漆黒に染まり、紫がかり、青になって、ほんのり白みを帯びて、そしてまたオレンジ色に変わり始めた頃、いずみさんと僕は40枚の原稿は完成させた。


 もういやだと思っていた、綱渡りをような冷や冷やする恐怖心と、期限に迫られ進まなければいけない焦燥感。とんでもないマンガの作り方だといつも思っていた。今回だってもうごめんだと思う。


 ――だけど、今回だけはそれがとても懐かしくて嬉しい感じがした――

 


 今回はバイク便で集荷を頼み、僕は原稿の運ばれる方角をしばらく眺めていた。

 部屋に戻るといずみさんは自室のベッドに座って、僕のマンガを読んでいた。


「寝ないの?」

「うん、まだ大事なことが終わってなくて。……わたし、ここの言葉せりふ大好き。この原稿も家宝にする」

「……おおげさ」

「ううん、あと、まなぶの言葉も一生覚えてる。大事な大事な告白だもんっ」

「や、やめてください」

 

 僕は顔中が腫れるような熱の起こりを感じる。


「……ねえ、まなぶ?」

「な、なんですか?」

「考えたんだけど、この話に出てくる女の子の話は興味ない?」

「女の子の話?」

「そう、キュートで可憐で、マンガと同じくらいにこの男の子を大好きになっちゃった、マンガ家の女の子の話」

「……えっと、できれば、知りたい――」

「よし! それじゃあ膳は急げだ! 瀬戸原いずみちゃん、いまから特別読み切りの作成に取りかかりますっ! あ、でもその前に――んっ」

「――んむっ――」

「にへへ~、初キッスあげる☆ あっ、でもここから先は18歳になってからだよ?」


 そしていずみさんは、僕の頭をきゅっと抱いて、ベットに転がり込む。


「ちょっと! 言ってることとやってることが――」

「うるさい、抱き枕は黙るのじゃ。はまずはこうやって、構想を練ることをご所望じゃ」

じゃなくての間違いでしょ! 寝るなら本物のまくらを使って……って、いずみさん?」 


 頭の上からはすでにスースーと、幸せそうな寝息が始まっていた。

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