締め切りを破るマンガ家は好きですか?-1
「それで電話してきたのか」
「ご無沙汰……していました」
電話に出た紅麗亜さんの声は、これまでにないぎこちなさを含んていた。
「いや、その、こちらもその、いまさらだが。いろいろ申し訳ない。あの件に関しては……」
「それは後にしてください。いずみさんの居場所を知りませんか。アパートにいないんです」
「……先日、私の留守電に、いずみからのメッセージがあってな。休載に対する謝罪と、しばらく留守にするということだった」
「居場所は分からないんですかっ!」
「うっ、声がでかい。おそらく実家だと思うが、……それは規則上、言えないことになっているんだ」
「お願いします! そこを何とか! 読んでもらいたいものがあるんです!」
「だから声がでかい。……その、だな」
声をひそめて彼女が言う。
「規則上言えないとは言ったが……言わないとは言ってない」
「じゃあ――」
「人道的に考えるとすれば、だな、弟子が何かを達成したのなら、まずは師匠に報告するのが筋というものだ。弟子がマンガを描いたのなら、師匠に見せに行くのが筋というものだ。だから、その、だな……いま、手元に書くものはあるか?」
「ありがとうございます!」
僕は思わず電話を握ったまま、お辞儀をしていた。
彼女は「いや、大したことじゃ……」と言い、「違うな」と咳払いをしたのちに懐かしい口調で言い直した。
「気にするな」
僕は電車に揺られて、見知らぬ土地に来ていた。
都心から一時間足らずでこれほど緑あふれるところまで行けるのかと驚き、紅麗亜さんから聞いた住所に足を向かわせた。
山に囲まれるような土地では昼近くでもかなり寒い。二〇分ほど歩き、僕は一つの民家にたどり着く。そして深呼吸をしてインターホンを押した。奥で、
「ああっ、んもー。なんで勝てないのよー」
いずみさんの声だ。
その声に僕の胸は高鳴りと安堵を覚える。
「はーい、なんでしょ……う」
ドアを開けて現れた、いずみさんは僕を見て一瞬固まった。
「おはよう、いずみさん」
「へ? は? え、なんでっ?」
「マンガが出来たから見てもらいたくて。ここの住所を紅麗亜さんから聞いたんだ」
「はぁ! ばっかじゃないの!?」
目を丸くして即答する。
だけどそれは否定するような怒り方ではなくて、だから僕は笑って、「ひどいなあ」と応じた。
「いや、ごめん、驚いたから、その……」
彼女が声のトーンを落とすと家の奥から、「いずみー、だれだったー?」という大きな声が響いた。
「と、友達ー」
「ちょっと別のところに行こっ。家だと母ちゃんいるから」
「でも、その格好でいいの?」
いずみさんの服装は色気もへったくれも無い、グレーのスウェット姿だった。
「――っ! ちょっとだけ待ってて!」
勢いよく閉められて、ちょっとして、息の上がったいずみさんが「おまたせ」と現れた。外に出られる恰好になっているけど、寝癖を直しきれていない頭頂部の跳ねた髪の毛が、彼女の残念さを表している。
いずみさんに案内されたのは近くの公園だった。
僕たちはカラカラに乾燥しきった木のベンチに腰掛ける。
「外でごめんね」と彼女は謝ったが、スーパーや薬局では落ち着いて話も出来ないし、喫茶店はすごく混んでいた。
「最近は公園に人がいないんだね……」
「まあ、そうかも。でも休みの日は子連れで誰かしら……あれ、学校はっ?」
「あはは、サボっちゃいました。お弁当食べます?」
持ってきた弁当箱の袋を掲げる。
笑う僕を見て、いずみさんは自分の手を顔に当てた。
「うわ~っ、まなぶが不良になっちゃったよー。もう、なにやってんの!」
「実はさ」
僕はさっそく話題をすり替えてカバンから封筒を取りだし、「マンガ描いてたんだ。ちょっと気分を変えて普段描かないジャンルを」と言っていずみさんの前に差し出す。
「いずみさん、読んでください」
不思議なまでにさらりと言えた。
いずみさんの、驚きとわずかな怯えを見せたその目は、封筒、僕、そしてまた封筒、僕へと目を動かし、手を出しかけて引っ込めた。
その手を膝に置き、
「……そっか、描けたんだ。すごいねまなぶは。前向きだ」
と、俯いた。
「ね、読んでよ」
「あの、これは持ち込み原稿?」
「ううん、もっと大事な原稿」
そう答えるといずみさんは、意味が分からないよと言いたげに眉をひそめる。
「読んでみてよ。ううん、読んでください。僕が描かなきゃいけないものを考えて、結局、このことしか思いつかなかった。初めて会ったとき、いずみさんはすごい輝いて見えた。無茶苦茶だけど引き寄せられるのは魅力的なキャラクターだなって思った」
「なな、なに、いきなり……」
いずみさんの顔が紅潮していく。
「とにかくありったけの気持ちで描いたんだ」
僕はもう一度、
力を込めて、
原稿をいずみさんに差し出した。
「だから、とにかく読んでみて」
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