**2章**

持ち込み原稿、読んでもらえますか?

「……き、奇跡だ」


 思わず言葉が漏れた。

 珍しい出来事というのは、実は世の中にたくさんある。しかし奇跡というものは常識的に起こりえないことを指している。

 僕はいま、まさにその奇跡というものに立ち会うことができたようだ。


「僕、この機会に立ち会ったばかりに明日死んじゃうとかないですよね?」

「締め切りより三日早く完成したくらいで失礼極まりないね、君は」


 いずみさんは心外だとばかりに不満を前面に出してにらんでくる。


「昔はこれくらい早かったんだから。持続期間は短かったけど」

 イスの背もたれに体を預けて、いずみさんは口を尖らせ続ける。


「いやいや、すごいです。感動です! 昔から締め切りを延ばす人なんだと思ってましたけど、いや、延ばした期日も平気で破って、それからようやく描き始めて写植も前日に丸投げして担当編集の胃に穴を開けて病院送りにする人非人だと思ってたのに!」

「……君がどんだけ師匠をナメてるか分かったよ」

「いえいえそんなことはないです。……ところでいずみさん、ちょっといいですか」

「ん? あっ、頑張ったいずみちゃんにご褒美くれるのかにゃ? わくわく☆」

「いえ、すぐ済むと思います」

「すぐ済む!? 早撃ちなんだ!?」

「何のことを言っているのかさっぱり分かりませんがひと言だけ。違うわバカ!」

「え、だって、ご褒美くれるって言うから」

「そんなことひとことも言ってません。そうじゃなくてですね、その」


 僕はカバンの中の、ようやく描き上げた作品をつかむ。

 ――読んでほしいんです。――

 そのひと言が恥ずかしくて、僕はもごもごと口ごもる。


「なに、そんなもぞもぞと? 男ならいずみさんが好きだって言ってみなさい」

「いずみさんのマンガ『は』好きです」

「そうやって知らず知らずに君はピュアピュアな乙女心を傷つけているのだよ?」


 僕は覚悟を決めて、だけど目をつむって封筒を突き出した。


「も、持ち込み原稿できました! い、いちど読んでください!」


 い、言えた……。


「へえ、できたんだ。見ていいの?」


 僕はまだ目を閉じたまま、ぐっとうなずいた。

 指に乗っていた重みがふっと消え、僕はゆっくりまぶたを開ける。

 いずみさんは机の方に向き直り、封筒から原稿を引き抜いた。


 蛍光灯が彼女の真上にあるからだろうか。

 目が光っているように見えたのは座った位置関係のせいだろうか。


 ――面白いって言ってほしいなぁ――


 すこし前まで、自分が解放されたい気持ちから出てくる言葉は、いずみさんのを見てニュアンスが変わった。


「……うん………………なるほど、ね……」


 いずみさんはどんなマンガを読むときも表情はまっすぐで、いつも考えが読めない。

 課題ではなく本当に自由に描いた。

 ダメだったろうか。

 教えてもらったことが生かされてないとか、昔に逆戻りしていたとか言われるかもしれない。

 構図は飽きさせないだろうか?

 あのセリフ回しはおかしくないだろうか?

 なにより、ちゃんとキャラクターは生きているだろうか?


 課題の時以上に、足元は荒い波の上にいるような不安定な感じを覚えて、時間はこれまで以上に進みが遅く、重々しく感じられた。


「もう一週、読むね」

「は、はい……」


 いつもより長く、いずみさんが僕の作品と向かい合っている。

 心臓がこれまで以上にドクドクと音を立てて、体の皮の奥が痒くなる。

 駄目だったらいっそひとおもいに一刀両断でお願いします!

 目を閉じて祈るように待ち続けていると、コンコンと原稿を整える音がした。


「まなぶ」

「――」

 声が出ず、空気だけがのどを通った。僕はつばを飲み、「はい」と言い直す。


「いいね、これ! すぐに出版社に持ち込もう」


 彼女のやわらかな口調と表情。

 僕のこわばっていた全身が急速に弛緩していく。


「は、はい!」

「うわ、すっごい汗だく。あははっ、緊張しすぎ~」

「す、すいません」

「それだけ真剣だったってことじゃない。いいことだよ。あ、そだ、紅麗亜にも見てもらおう!」


 言うが早いか、止める間もなくいずみさんは電話をかけた。

「やほーっ。……ちがうって、原稿はもうでき――嘘じゃないわいっ!」


 ……見事に信用されていない。

 それでもいずみさんはすぐに上機嫌なトーンで話を戻し、雑談を交えながら用件を伝えていく。


「うん、まなぶの。そう。一回見てほしいんだ。うん。まなぶのはそのまま投稿のほうに渡してくれてもいいんだけど。ん、おっけい、部屋に置いておくね。鍵はいつものところで。んじゃよろしくおねがいねー」

「鍵って?」

「忙しいからあとで読ませてもらうって。ついでにわたしの原稿も持ってってもらうの」

「だから鍵って」


 危機管理のない人だなあ……。


「よしっ、時間ができたからたまにはちゃんとした時間にご飯食べようっ。いずみちゃんおごっちゃうよ、まなぶセンセっ」

「や、やめてください」

「お、まんざらでもないって顔ですなぁ」

「やめてくださいっ」

「照れるな照れるな、まなぶセンセっ」


 いずみさんは店に行くまで常に高いテンションで僕をからかい続けた。

 結局いつものラーメン屋に行くのだが、支払いの時は変なテンションになったまま、僕の分も自分が払うと譲らずに少しもめて、レジの店員さんが露骨にいらだっていたのを覚えている。


 そして、紅麗亜さんに原稿を渡してから二週間が過ぎていた。


 作品に関する連絡は――まだ来ていない。

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