こちらの課題は合格ですか?

 無音ののちに――チッ――チッ――という壁掛け時計の音がやってくる。

 作業場のBGMが変わろうとしていた。

 でも今はまだ、細い針の回る音だけ響いている。


 あの理不尽に早められた課題をパスした僕はいま、次の課題原稿をいずみさんに渡して、作業場で直立していた。


 いずみさんは表情は一切変わらない。


 じんわりとしか進まない時間。

 移した視線の先にはブラインドで覆った南向きの窓。

 白と白のすき間から、僕は外が黒く冷たい世界に変わっていたことに気付く。


「ふむん。なるほどね」


 トントンと机で原稿を揃えたいずみさんが、僕を見上げて口を開く。


「いくらか出来るようになった。当初と比べればオゾン層とスッポンじゃ」

「オゾン層?」

「ところによっては穴がある、ってね」


 言葉の紫外線がちりりっと痛い。


「ど、どうも……」


 不安もあったけど、これだってかなりがんばったんだけどな……。


「ふふふ~、前よりずいぶん上達してるから拗ねない拗ねないっ。よし! がんばったご褒美じゃ。いずみちゃんがよしよししてあげよう、さあおいでー♪」


 言って、いずみさんは両手を広げる。


「やめてください。結構ですっ」

「あっ、ぱふぱふのほうがいいとか? もう、えっちぃ」

「いやそれは物理的に無理でsh――ごふっ!」


 机越しの左ストレートが僕のみぞおちを的確に捉える。


よく聞こえなかったわぁパー・ドゥン?」

「い、いえ。良い評価を頂いたので……浮かれてしまった次第です。げほっ」

「よろしい。以後言葉には気をつけい」

「うぅ、人体急所をピンポイントに突くか普通……」


 僕は腹をさする。


「ところで、いずみさんの原稿は進み具合どうですか?」

「……外で吐く息よりも白くて、降り積もる雪より清らかだわ」

「ちょっと!」

「へーきへーき、まだ一週間以上あるから。まなぶもいるし。ねっ?」


 ……その悠長さは絶対に見習うまい。


「まーたうんざりした顔してー。いつも通り何とかなるって。それはさて置き」


 置くな。


「課題はこの辺で切り上げ。そろそろちゃんとした持ち込み用のを描いてみな」

「え?」


 腕組みをして、いずみさんはうんうんとうなずく。


「もうマンガの基礎やストーリー構成の基本はできてる。世に出しても恥ずかしくないレベルにあると思うよ。いずみちゃんが保障しよう」

「……」


 聞いた言葉はいちど耳を通り抜け、余韻の如く、遅れてゆっくり頭に届く。


「どしたの? 黙っちゃって」

「いえ……。はい、なんでもないです」


 さっきまで冷たかった指先に一気に血が巡る。


「あっそ。じゃあ今日はやってもらう作業もないから上がっていいよ。どう? うずうずしてきたんじゃない? 顔に出てるよ」

「……嘘、ですよね」

「ホントホント。いずみちゃんは真実と下ネタしか言いません☆」

「最後は余計です」

「はいはい。今日はさっさと帰って描き始めなさい。あっ、かくと言ってもマスは――」

「かきませんよ!」

「ええっ! それこそ嘘でしょ!?」

「うっさい! それじゃあ、今日はこれで」

「はいはーい。がんばってね~」


 僕はカバンを背負って作業場をあとにした。


 ――僕の描く(えがく)のマンガ。

 ――僕の創るストーリー。


 黒くて寒い空の下、自転車にまたがる僕は、胸から生まれる熱と頭から湧き出たアイデアをひとつたりともこぼさぬよう、急ぎつつもゆっくりペダルを漕いだ。


 途中、コンビニの前でいつもの週刊誌を目にして、お店に立ち寄った。

 しかし広小路先生のマンガは載っていない。

 連載開始から三年目にして、初の休載だった。

 どんどん枚数は少なくなっているのは分かっていたけど、


「ついに載らない日が来ちゃったか……」


 残念な気持ちと週間連載の怖さが胸にちいさな渦を作る。

 巻末の目次には小さな文字で、「作者急病のため休載」とだけ記されていた。


(……違う違う! 僕はまずは読み切りに載せること! 次に月刊誌の連載!)


 僕は雑誌を元の位置に戻して、何も買わずに家へと急いだ。

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