マンガ熱は不滅ですか?
家を出てから二十分。
いずみさんの自宅兼作業場に入った途端、インクの匂いが鼻について僕の顔が歪んでいくのが分かった。
「いずみさん、来ましたよ」
いずみさんはデスクで黙々と手を動かしていた。
床の上には、少し前に原稿と呼べたケント紙が黒く染まっており、黒い液だまりに向かって、封筒の口が開いている。
滑り出した原稿は全てその黒の上に乗っていた。
インク壺も倒れたまま、数枚のタオルで土手を作ってあるが拭った跡はない。 原稿を直そうとした形跡もない。
真っ黒に染まった原稿を拾い上げようとすると――
「いいからそっちに置いてある原稿やって。ベタとトーン」
いずみさんが、顔を机に向けたまま作業を指定する。
「前の原稿を直した方が早いんじゃないですか?」
「イメージが鮮明な方を作るほうが早い」
いずみさんはそれ以上言葉を発せずに作業机をぴっと指さす。
早くやれということだ。
もって来た食べ物を冷蔵庫に入れ、僕はすぐさま作業に取り掛かった。
それからはふたりとも言葉を交わすことなく、黙々と原稿を描き続けた。
紙に描かれた線を見ればそれ以上の言葉は必要なかった。
――ペン入れをしている間に、夜は淡く青く白んでいた――
――ベタ塗りをしているうちに、橙色をしていた朝焼けが青く冷えていた――
――スクリーントーンを貼り終えた頃、外は正午特有のだるさとのどかさを持つ静けさに満ちていた――
――
――――
――――――
「……39、40。よ、よし、ちゃんと枚数あるね。これを出版社に届ければ写植係がいるから。……まなぶ……あとは頼ん……だ。がくり」
原稿の枚数を数え終えて、いずみさんは効果音を声に出して机に突っ伏した。
「あ、ずるい……」
徹夜明けの頭と体は質量をどこかに置き忘れたように軽い。
だけど、思考回路や反応速度はめっぽう鈍い。
目の周りはちりちりした痒みがまとわりついている。
……だから徹夜は嫌なんだ。
そんな悪態をつきつつ、もうひと踏ん張りと脳に鞭打ち郵送準備を整える。
増えるあくびの頻度に意識の限界を感じながらも、完成稿を揃え直して封筒に入れて入念にガムテープで口を塞いだ。
「いずみさん、原稿を取りに来るのは何時なの?」
返事はなかった。
机に伏した彼女からは安らかな寝息が聞こえる。
「いずみさん、寝るときはベッド」
「ん、優しくしてね?」
「違うわバカ」
脊椎反射でツッコミが出た。
このダメマンガ家を布団まで運ぶか、それとも先に床掃除をするか。はたまたご飯を作るべきか。
考えるにつれて頭が回らなくなってきたところに、ポーンというインターホンの間の抜けな音が響く。
玄関を開けると、背の低い女性がこちらを見上げて立っていた。
いずみさんの同級生であり、連載雑誌の出版社で編集部に勤めている
「おはようございます。紅麗亜さん」
「昼過ぎのあいさつではないな。ほら、これは差し入れだ」
彼女は下だけ黒いフレームのついたメガネを光らせながら僕を見上げ、コンビニの袋を突き出した。
小柄でもぴしっと伸ばした姿勢と折り目正しい言葉遣いをする彼女に、顔なじみの間柄となった今でも、僕の背筋は自然とまっすぐに伸びる。
編集者は毅然としていたほうが描き手は安心できるだろう? と、以前教えてくれた言葉通りに、いつもまっすぐな背筋は頼りになりそうな雰囲気と一方で少し気圧される感もあったりする。
だけど、僕が初めて持ち込みをしたときに声をかけてもらったこと。「コイツの下で修行するといい」と、いずみさんに僕をアシスタントとして紹介してくれた、面倒見の良い温かさを僕は体験している。
「どうだ、間に合いそうか?」
「ええ、なんとかできましたよ」
手に持っていた封筒を掲げると、彼女は目を丸く見開いた。
「メールをもらった時点で原稿壊滅と聞いていたのだが。1日も無いだろうに」
「あはは。で、これは紅麗亜さんに渡せばいいの? それとも別の人……ふぁ」
気が緩んであくびが漏れる。
紅麗亜さんは表情を緩めてぷっと噴き出した。
「なかなかマンガ家の顔になってきたな。その顔は推奨できないが、それも道のりなのだろう。うむ、それは私が会社に届けよう。配送業者にも連絡しておく。写植はこちらに投げると聞いているから、それは私がやっておこう」
「すいません」
僕は深めに頭を下げた。
「気にするな。……いや、締め切りは気にしろ。親玉にそう伝えておくように」
「すいません」
また頭を下げた。
「まったく、アシスタントとして紹介したつもりなんだが」紅麗亜さんは僕を呆れるような目で眺め、「すっかりいずみの主夫だな」と、告げてきた。
「やめて下さいよ」
「頼られてると思えばいい。さて、私はもう行くよ。写植は向こうで待たされている間に終わるだろう」
「まだぎりぎりな人がいるんだ」
「うむ、
「え、そうなんですか!?」
紅麗亜さんは慌てて口をつぐむが、出た声は押し戻せない。
そむけた顔のまま、ちらりと横目で僕を見て、周りに言うなよと釘を指すようにひとさし指を口の前で伸ばす。
マンガ家『広小路フミオ』の作品は、マンガに疎い人でもその作品名を聞けば誰もがああと声を出す。辛口な先人たちも彼の才能を認めており、僕がこの道を目指すきっかけになった作品の作者でもある。
「その、誰しもスランプはある、ということかな」
「なんだか深刻そうですね」
僕は感じたものを口にした。
「そんなことはない、先生はすぐにでも描き上げてしまうさ」
それはなんだか希望を込めた否定だった。
それから紅麗亜さんは「なあ」と目を向ける。
「もし仮に、いずみがスランプに陥った時に学、君は何をする」
「むしろ好調を見たいですけど……」
「いや、それは同感だがそうではなく……そうだな、あいつがマンガに対して弱音を吐いたら、君はどうするかな?」
「そう、ですね」
マンガで弱音を吐くいずみさん。
……あるのか?
そういえば彼女がマンガで落ち込んだところを見たことがないや。と、気付く。
アシスタントとして入ってから一度たりとも。
「ん~……ん~~……」
「ふふっ、この想像はどうやら難しいようだな」
「すいません」
「それはそれでいいことかもな。そこは見習うといい」
「締め切り前に仕上げることと同じくらいイメージができなくて」
「そこは見習うなよ」
渋い顔を僕に見せてから、紅麗亜さんは言葉を続ける。
「あいつはプロになって高校をやめてから七年経つが、その間、あいつの火が弱くなるところを見たことがない。綱渡りであってもいまだ連載に穴を開けたこともなければ、意図して休載したこともない。あんな調子だからいつもハラハラさせられるし、他の担当には胃に何個も穴をあけさせているヤツだけどな」
「よくわかります」
「編集側からすれば、もう修整はいいから一日でも早くと言いたくもなるんだが、あいつには急な穴埋めを何度も頼んだ過去があるからな。持ちつ持たれつなところもある」
その言葉に二人の枠を越えた、マンガ家と出版社の信頼を見た気がした。
僕はそれにちょっと羨ましさを覚えた。
「よし、原稿も貰ったし、私はこれで」
「あ、いずみさん呼んできます。って中にも入れずに立ち話ですいません」
「気にするな。上がってのんびりしてたら、あいつはそのうち不機嫌になるよ」
「え? ケンカ中なんですか?」
「違う違う。原稿が上がったときは邪魔者がいない時間を過ごしたいだろう?」
「そっか、なら僕も早く帰らなきゃいけませんね」
「おいおい、その辺は、ほら、どうだろうな?」
「?」
「……天然なのか? まあ、私が言うことじゃない。気にするな」
紅麗亜さんは背中を向けたまま、手をひらひら振って去っていった。
「さて……」
僕はぐっと伸びをする。
今回の件、お気楽マンガ家はいくらか反省すべきだろうと考えていた。
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