締め切りを破るマンガ家は好きですか?
明石多朗
**1章**
わたしのヘルプはできますか?
携帯電話の着信音を聞いて、食べていたピーマンよりもきつい苦味が口の中に広がった。
「
「あ、うん」
父さんと妹に促され、僕はあいまいな返事で携帯電話を手にして廊下に出る。『
「もしもし。
「お知り合いの美人マンガ家さんが困っています。助ける気はないですか?」
「そんな知り合いはいません。では」
「ちょっ――」
間違い電話ということで処理しようと通話を切ったが、間髪入れずに同じメロディが鳴る。
「間違い電話は間に合ってます」
「登録してる番号が間違いなわけないでしょっ! 手伝いに来てと言いたいのに言えない、そんな師匠のちょっぴり恥ずかしい気持ちを汲み取ろうよ!」
予想以上の大音声で迎え撃たれ、反射的に携帯電話を耳から遠ざける。
が、耳から離してもなお、スピーカーからの声は耳に届く。
「明日は土曜日だからちょうどいいでしょ! あ、なに、デート? デートなの!? そんな冷たいあしらい方するなんて絶対そうだ! あーそうですかこの美少女師匠のお願いを無視してまなぶはどっかの馬の骨といちゃいちゃするんだ。あーそうよく分かった。どうか末永くお幸せにね。バイバイっ!」
今度はこちらが一方的に通話を切られる形となった。
相変わらず一方的過ぎる……。
僕は仕方なく着信履歴からかけ直すと、ワンコール目が鳴る前に
「は~い、あなたのいずみちゃんですよ~」と、陽気な声がやってきた。
「いずみさん、待ち構えてましたね」
「いや、全然。ちっとも。偶然だって、ぐ・う・ぜ・ん」
「そこを言及するつもりはないですけど」僕は用件の詳細を聞きだす。「ご用件はなんですか。今月分の原稿はもう済んでるじゃないですか」
「む、なんか冷たい言い方。……あの、本当にデートの予定入ってた?」
口調は急にしおらしいものになる。
「別にないですけど」
「だよねっ、あるわけないよね」
「通話終了のボタンは……」
「ごめんごめん冗談です。怒らないの。ね? まなぶチョーかっこいー。まじイケメンー」
「心にもないことをどうもありがとうございます。で、用件は?」
あしらうように応じると、「むぅ~」と不満げな泣き声がした。
「キミはもっと自分に自信を持つべきだ。あ、それで用件だけどね、原稿は確かに出来てるよ。でも、もっといい展開が浮かんじゃってさー。だからぁ……差し替えたいなって。てへぺろっ☆」
「知ってたけどバカですか?」
間髪入れずに言ってやる。
「ひどい!」
こちらも間髪入れずに返ってきた。
「ひどいもなにも、当たり前の返事です。いまですら締め切り延ばしまくってるのに、そんなこと出版社に言ったら怒られますよ?」
「うん、怒られた」
言ったのかよ。
「でもでもっ、印刷所への最終締め切りは月曜の朝なんだよっ。だから、土曜日の朝に渡すものを夕方にしたって、そうたいして問題は無いはずでしょ? 写植は日曜日にできるし。でしょ? それなのに編集長のハゲ田さんは、『ぼけたこと抜かすな!』って怒鳴ってさぁ」
「そのあだ名を口にしたからでしょ」
「やだなあ、わたしだって一応は社会人だよ。それは我慢した」
「我慢って……」
「ただ、『その固い頭を一度バーコードリーダーで読み取ってもらえ!』とは」
「同じことだよ! いずみさん、連載やめたいの?」
「なわけないじゃん。よくある会話のキャッチボールだってば」
……それはもうドッジボールです。
「まあ要するに、やる前から決めつけんなって言いたかったの。そしたら、『そこまで言うなら全部描き直してみやがれ、このブス!』って許可くれたの」
「それ絶対許可してないですよっ!」
「やー、なんだかんだでいい人だよねー、あのツルピカ田編集長も。だから感謝を込めて、『やっぱり編集長はみんなをピカピカ照らす太陽ですねっ!』ってお礼を言ったくらいだもん」
……絶対ブスの言葉にキレてるよ、この人。
僕はため息を一つ。
「分かりましたっ手伝います。それで、四十枚のうち何枚差し替え予定なんですか?」
「四十」
「全部じゃないか!」
「いやいや、冷静に考えて」
「え? 今月の割り当てページは四十ページで」
「その中で四十枚の原稿を差し替えます」
「やっぱり全部じゃないか!」
「いやいや、序盤は話の流れでストーリーはそのまま使うし、1ページの大ゴマもある。それにネームはもう終わるから。あとはペン入れに、ベタとトーン。写植は後で考えるとして、残り時間も三十時間くらいあるから」
「ムリムリ、絶対ムリ! 手描き原稿の僕らじゃ絶対ムリ!」
「押しても駄目なら全力で押す。それがわたしのモットー!」
「だったら
そう言うと受話器の向こうは急に静かになる。
その後、「うぅにゃぁぁぁ~~」と、悔しそうな鳴き声がした。
「なら分かったよぅ……写植は向こうで何とかしてもらうようお願いする……。あと、前の原稿から使い回せるページもフルに使う……。間に合わないならこの原稿を出します。だからもうちょっとだけ、ちょっとだけ変えさせてください。ね?」
と、いじけ気味の越えでも最後の最後まで懇願してくる。
僕だっていずみさんが物語や登場人物を大切にしていることは分かっている。
それに共感できないマンガ家はいないと思う。
僕はまだアシスタントレベルだけど、それでもマンガ家の端くれだ。
「……分かりました。ご飯食べたらすぐ行きます」
仕方ない。
そういって結局いつも寄り切られる。
「さすがわたしの愛弟子っ。終わったらわたしの肩を揉んで良いよっ!」
「あんたが得するだけじゃないか!」
にゃはははは、と笑ういずみさん。
本当にこの人の機嫌はころころ変わる。
「まあ、こうやってできた原稿もあるわけだしね。気楽に行けるし、だいじょーぶ、だいじょーぶ。ぅおっとと、――あ」
……あ?
声と同時だった。
――ガチャンと、硬質なものが倒れる音がした。
――ぱさぁっと、束の重なりが滑る音を聞いた。
――みちゃっと、粘質なものを剥がす響きかした。
僕は耳を塞ぎたくなった。
「……いずみさん?」
返事はない。
しばらく静寂がよぎる。
しかし過去に経験した絶望感は、ほんのささいなきっかけでフラッシュバックを起こす。
浮かび上がる最悪なイメージ。
背中からは冷たい汗がびっしりと噴き出た。
「いずみさん、あんた、もしかして」
「まなぶ、レミングスって動物、知ってる?」
「いやだ、聞きたくない! 見たくない! 行きたくない!」
「だ、だって」
「あんたさっき、大丈夫って言いましたよね!?」
「それはその瞬間のことであって、未来に対しての保障では無かったのだー!」
「なに開き直ってんだ。ああもうっ! とにかく今すぐ行きます!」
「おうっ、頼むわっ」
「そこはごめんなさいか、ありがとうでしょ!」
「じゃ、
「ちゃんと声に出せ!」
どうして他人の原稿のことでこうも胃を痛めなきゃいけないんだ!
通話を切り、僕は階段を駆け上がって自室に飛び込む。
ケント紙にペンにスクリーントーン。
持てる範囲の画材という画材をかき集めてケースに突っ込んだ。
眠気覚ましのガムもポケットに入れてコートを羽織り、玄関に向かうと、
「お兄ちゃん」と母さんに呼び止められた。「はい」
差し出された紙袋には夕飯の残りがタッパに詰められていた。
大きさと重さから、それは二人分ありそうだった。
「先生によろしくね」と、僕に手渡すと母さんはのほほんと笑う。
電話がかかってきた時から用意していたのだろうか。
向こうに行くものだと見透かされていたような恥ずかしさがこみあげて、お礼を言えないまま僕は顔を背け、小声で「いってきます」とだけつぶやき、玄関を出た。
自転車にまたがると、背後からエンジン音と強いライトが光った。
「学!」「おにいちゃん!」
振り返ると、車に乗った父さんと妹が窓から顔を出して、白い歯を見せながら親指を立てていた。
さも「ふふっ、俺たちの出番だろ?」という自慢げな顔だ。
夕食を切り上げて準備してたのか?
彼らに対して僕は、
「……行ってきまーす」
「ちょっ!」「ちょっ!」
相手にせず、自転車のペダル漕ぎ出した。
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