庚
やがて日が暮れると、町は真っ暗になった。
電力の供給が止まっている。
支局から持ち出してきた懐中電灯と、予備電源で動く僅かな街灯を辿って、俺は瓦礫の散らばる道路を歩く。
人明かりの無い東京は、これまで知っている街と、全然違う場所のように思えた。
空を飛ぶことは出来ない。
この暗さでは、近付く飛獣の目視は不可能だ。
対空警邏は、街を守るために戦った。
同時に、街に守られてもいた。
息を殺して、進み続ける。
人の姿は、どこにも無かった。
みんな、今も地下で待っているのだろうか。
この破壊が通り過ぎていくのを、じっと待っているのかもしれない。
あるいは、対空警邏が飛獣を打ち倒すのを。
飛獣という存在は、出現した場所にある人工物や人間を、徹底的に破壊するまで、通り過ぎたりはしない。
待つことにもう、意味は無かった。
なら、抗うべきなのか。
俺が一人で戦って、この町中の飛獣を倒しきる。
その奇跡に賭けるのは、ただ待つよりも、少しは価値がある気がした。
それでも、あの巨大な雲のような飛獣を倒せなければ、結果は変わらない。
地下の隔壁を貫通し、暗く深い大穴を開ける火光の柱。
あれがこの空に居る限り、誰も生き延びることはない。
足掻けば数匹の飛獣を倒す事は出来るかもしれない。
そして俺は、力尽きて死ぬ。
何も守れない。
正解は、どこにあるんだ。
そもそも納得できる答えなんて、残されてるのか。
残されていなくても、作らなければいけない。
俺は歩きながら考えた。
考えながら歩いた。
立ち止まることはしない。
自分の足音。
蹴飛ばした瓦礫の転がる音。
時折、どこかから建物の崩れる音。
微かな地鳴り。
時間切れの近付く音。
暗闇の中に、聞こえるのはそれだけだった。
どれくらい歩いたのか、はっきりしない。
時計を持っていなかった。
気が付くと、どこか見覚えのある道に入り込んでいた。
道端に、青い看板が立っている。
看板に懐中電灯を向ける。
白い文字が浮かんでいた。
俺の、真鍋の家がある町だった。
無意識の内に知っている道を選んでいたのかもしれない。
この辺りはまだ、町並みや道路の損傷も少ない。
暗闇の中、方向感覚は無くなっていく。
うろついて、迷いながら、ようやく家の前までたどり着いた。
扉を引くと、鍵は開いている。
家族が、開けてくれていたのかもしれない。
居間のソファに、倒れるように座り込む。
ずきずきと、体中の鈍い痛みが蘇ってきている。
それでもここまで歩き続けられた。
体を鍛えておいてよかった。
山上中尉のおかげで、歩き続けられる。
浦賀准尉が、迎えてくれた。
柊中佐が、命を守ってくれた。
高千穂曹長が、命を運んでくれた。
犬飼少尉が、送り出してくれた。
みんな、俺の中にいる。
無駄なことなんて、何もない。
何もないはずだ。
それでも、誰もいない家の中の静寂と暗闇は、俺を泣きたい気持ちにさせた。
独りになった事を、思い知らされる。
誰でもいい。
誰かと会って、話がしたい。
意味の無い会話でいい。
お互いがいることを確かめ合うだけでいい。
俺はやり遂げようとしている。
投げ出さないために、痛みに耐えている。
耐えているだけで、痛いんだよ。
痛いし、苦しいし、辛い。
それは何も変わっていない。
眠ることは出来ない。
眠ろうとしても、地鳴りと破壊音が俺の意識を引き戻した。
まどろみの中で、俺は痛みを堪え続けた。
救護室から持ち出した痛み止めを打ち、抗生物質の錠剤を飲み込む。
毛布に包まり、体力の回復を待つ。
夜は長い。
この夜が、どこまでも続くような気がした。
俺は、家族のことを考える。
孤独さを少しでも紛らわせるために、考えた。
太平洋の海を、潜水艦が進んでいく。
その中に俺の家族が乗っている。
父さんと、母さんと、そして、妹のシラ。
俺の家族は、新しい世界で幸せに暮らしていく。
その暖かい景色を、想像した。
シラには結局、東京に残ることを自分で伝えられなかった。
父さんと母さんが伝えてくれるのに任せる。
俺からは、どんな言葉を言っても照れくさくなるような気がした。
きっと、シラには俺が残る理由が分かってる。
あいつは特別だ。
兄妹って、そういうものだ。
床に置いた懐中電灯が、ぽつぽつと、点滅し始めた。
電池が切れ掛かっている。
替えを探さなければ。
立ち上がって、不安定に点いたり消えたりする懐中電灯を片手に、家の中を歩く。
俺がここを出て10ヶ月の間に変わっていなければ、台所の棚に替えがあったはずだ。
果たして、電池は確かにそこにあった。
電池を取り替えると、懐中電灯はまた眩しく輝きだす。
ソファに戻ろうとして、テーブルの上に何かが置かれていることに気付く。
電池が切れかけの懐中電灯のぼやけた光だと、分からなかった。
白いビニールに詰められた、ペットボトルの飲料水に、缶詰とか、乾パンとか、非常食の山だ。
そこで初めて、俺は自分の強烈な喉の渇きと、空腹に気付く。
テーブルに懐中電灯を置いて、形振り構わずに食い散らかした。
食べれば食べるだけ、元気が湧いてくる。
俺の体は、生きようとしている。
テーブルの上の食料を一気に食べ尽くして、ビニールに白いメモ紙が貼ってあるのに気付く。
『がんばれ。』
とだけ、丸っこい字で書いてあった。
妹の字だ。
分かってる。
分かってるよ。
ソファに座り込んで、また毛布を被る。
苦しい、痛い、辛い。
でも、耐えられる。
耐え抜いてやる。
夜が明けたら、歩き出そう。
やがて、少しずつ、窓の外が白みだす。
長い夜が終わった。
扉を出て、振り返る。
俺と家族がこれまで暮らしてきた一軒家。
ここにあって、俺を待っててくれて、ありがとう。
俺は瓦礫の風景の中を、また進みだす。
風の寒さに身震いする。
空にはまだ、雲がかかっている。
目指す場所は、もう決めていた。
その先に、
この東京で、俺の一番好きだった場所へと、進んでいく。
坂の向こうに、高層ビルの群れは、変わらずに真っ直ぐ立っていた。
抜け道から廃ビルの一つに潜り込み、非常階段を登っていく。
階段を上り、5階の廊下を歩く。
その突き当たり、一番奥の部屋。
扉が壊れて外れた、外枠だけの入り口。
その空間は、老朽化でボロボロに崩れきった、部屋の痕跡とでも言うべき場所だった。
建物外側の壁は2面とも崩落して、床も半分以上が抉れている。
部屋の端に立って、崩れた壁から、真下を覗き込む。
地上までは遠く、20mはある。
十ヶ月前に、俺はここから転がり落ちた。
それで、全部が始まった。
顔を上げて、壁の外の景色を見た。
見渡す限りの瓦礫の大地。
その上を、無数の飛獣が飛び回っている。
あの女の子は、今どうしているだろう。
どこかの地下で、震えているかもしれない。
あの時のように、唇を噛んで、涙を堪えながら。
今の俺は、どうすればいい。
それで俺は、何をすればいい。
あの日、どうしてあんな事をしたんだっけ。
俺はなんで、あの子を助けなければいけなかったんだ。
お前は、本当は何がしたかったんだ。
あの子は、怖がっていた。
震えていた。
それが嫌だった。
見なかったことに、したくなかった。
恐怖を和らげたかった。
まだ全部は台無しになっていない。
もしかしたら、全て上手くいって、いつも通りの幸せに、戻れるかもしれない。
大丈夫だ。
そう言いたかった。
何の根拠が無くても、俺はそれが言いたかった。
それを伝えなければ、いけなかった。
だって。
俺はその前に。
そのずっと前に。
そのずっとずっと前に。
厚い雲が途切れる。
金色の朝日が、壁の穴から射し込んだ。
俺は眩しさに目を細める。
瓦礫の地平が、金色に輝いていく。
心臓がどきどきする。
俺は思い出す。
初めて、七ヶ丘の坂道を登った日。
夏の日の青空。
高く聳える、ビルの廃墟。
その時の気持ちと、同じだった。
綺麗だと思った。
素敵だと思った。
かっこいいと思った。
最初からダメだったなんて、あるはずがない。
あの時の、心の中に湧き上がるような気持ち。
どんな理不尽にだって、消すことの出来ない高鳴り。
俺は最初から、救われていた。
ああ、そうか。
そうだったんだ。
何者にもなれなくていいなんて、嘘吐くなよ。
ずっと前に。
ずっとずっと前に。
俺にだって、なりたい物があった。
こうありたいと願う姿があった。
そこにあるだけで、人の心を救えるような。
この世界はまだ終わりじゃないと、伝えられるような。
そういう何かに、俺はなりたかった。
この気持ちを、誰かに届けたかった。
金色の景色の果てで、赤い光が地面を貫く。
街が揺れて、震えている。
東京が終わっていく。
けれど、終わり切ってはいない。
全てが終わる前に、やっと見つけられた。
それでも、遅くない。
憧れは死んでいない。
心は折れない。
俺は自分で捨てた物を、拾い上げる。
もう一度だけ、やり遂げるために。
俺は遮熱襲を取り出して、身体に纏う。
対空警邏は、終わっていない。
後ずさって、助走を付ける。
扉の壊れた部屋の入り口の前に、立ち止まる。
小さく深呼吸。
肺を空気が満たしていく。
俺の心臓が、全身に血を運ぶ。
目を閉じる。
俺は、ここにいる。
抗うことが、正解だった。
無駄な足掻きかもしれない。
何も守れないかもしれない。
結果は変わらないかもしれない。
けれど、ただ消えていくだけとは違う。
俺はずっと前から、それを知ってる。
瞼を開く。
両足に力を込める。
壁の穴の向こうへと、一直線に走り出す。
光の中へと、進んでいく。
ほんの一瞬だけでいい。
この東京で、誰かが空を見上げるかもしれないなら。
空へ聳え立つ、坂道の上のビルのように。
太陽のように。
柊アリアのように。
俺が、本当になりたかった物のように。
立派に。
誇らしく。
真っ直ぐに。
そうあるために。
俺は空へと、飛び出した。
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