目が覚めると、ベッドの上だった。

仄暗い、窓の無い空間。

薄青く光る白熱灯が、俺の真上にだけポツリと点いている。


消毒液の匂い。

微かな、鉄臭さ。

血の匂い。

支局の救護室だ。


全身にガーゼと包帯が巻きつけてある。

手足もどうにか動かせる。

吹き飛んだ右耳はズキズキ痛んだけど、耐えられないほどじゃない。

痛み止めが効いているらしい。


辺りを見回す。

ここに辿り着いたなら、曹長はすぐ近くに居るはずだ。


周囲に人の姿は見えない。

薄闇の中に、俺のベッドの周りだけが、僅かな光で丸く、くり貫かれている。

孤独だった。

寂しい風景だった。

恐ろしいと思った。

ここは、誰か居ないのか。


「元気か?死にぞこない」


身を捩り、体を持ち上げて、声のする方を見た。

壁際に、犬飼少尉が座り込んでいた。

俯いて、じっと動かない。

口元に咥えている煙草の火だけが、闇の中に揺れていた。


「高千穂曹長は、どこですか」


俺はほとんど、反射的に聞いていた。


「死んだ」


顔も上げずに、少尉は言った。


「虫の息で、お前をここまで担いで、引き摺って連れてきて、そのままくたばった」


少尉の煙草の先から、灰が零れ落ちた。

ちりちりと、煙草の葉が灰に変わる音だけが聞こえ続けている。


「半日以上経ってる。ここにはもう、誰も戻ってこねえ。山上のやつも」


柊中佐。

山上中尉。

高千穂曹長。

もうみんな、いなくなった。

人が、いなくなる。


俺だけを置いて、世界は閉じていく。

それは叫びだしたくなるほどに、恐ろしかった。

でも何を、誰に向けて叫べばいいかも分からなかった。


ただ、俺はベッドの上に座っていた。

白熱灯。

薄闇。

白いシーツ。


視点は定まっていた。

でも何を見ていたわけでもない。

ただ、目を動かす事さえも、億劫だった。

目を閉じるのも、面倒だった。


もう、どうでもいい。

じっとしていよう。

息を殺して、終わるのを待とう。

ずっとそうしてきたじゃないか。

それが俺らしい。


俺らしい、のか?


視界の端に、何かが、青く輝いた。


ベッドの側に、ブレスレットが置かれている。

高千穂曹長の物だった。

俺が渡した、柊中佐と選んだ、贈り物だった。


手を伸ばす。

空色のブレスレットを、俺は掴んだ。

握り締めた。


虫の息で、俺を担いで、引き摺って。

そのまま、高千穂カナンは死んだ。


俺は、ブレスレットを握り続ける。

ただ、握り締めている。


掌の中に、熱が宿る。

俺の体温。

命の熱。


もういない俺の友達が、遺していったものが、ここにある。


俺は。

俺は、負けない。


もう片方の手を、握った掌に重ねた。

蹲るように、額を当てる。

温かい。

泣き出したいくらい、温かかった。


意味なんてないかもしれない。

価値なんてないかもしれない。

もう全部、無駄なのかもしれない。

でも、俺はそれを認めたくない。


嫌だ。

諦めるのは嫌だ。

俺は嫌なんだよ。


逃げ出すのが嫌だった。

投げ出すのが嫌だった。

諦めるのが嫌だった。


ずっと前から、最初から、本当は嫌だった。

どうでもいいと思うたびに、苦しかった。

なんだっていいと思うたびに、痛かった。

何も選ばない事で、何にも選ばれない事で、俺は磨り減っていた。


それが俺だったんだ。


今、やっと分かった。

本当に遅過ぎる。


自分が死ねばよかったなんて、本当は思ってない。

ただ、そうなれば楽になれると、逃げようとした。

言わなければよかった。

俺は二度と、俺に戻れなくなる所だった。

俺を取り返せなくなる所だった。


ごめん。

本当にごめん。

もう、謝ることは出来ない。


それでも、俺はまだここにいる。

俺の命は、まだここにある。


あとどれくらいの間、街に時間が残されているかなんて、関係ない。

俺はまだ、納得していない。

この熱の意味を。

何を果たすために、生きてきたのかを。


俺の仲間のように、やり遂げる力が欲しい。


「俺は、逃げるぜ」


犬飼少尉が立ち上がり、こちらに一歩近づいた。

その姿が、白熱灯の光に当たって浮かび上がる。

首に包帯を巻いて、右目に付けたアイパッチに血が滲んでいる。

左目だけで、少尉はいつものように、じっとりと俺を睨んでいた。


「ムカついてたんだよ」


ぼそぼそと、少尉は呟く。


「いつか自分が死ぬかもしれねえ、って考えようとしてないような奴ら。そういう奴らが傷を舐めあって惨めにやってる、この街も。俺はムカついてた」


少尉はいつものように、早口で、人を呪うように喋る。


「化物どもに、黙って殺されるわけにはいかねぇよな。だから戦った。あの薄ボケどもと同じにならないために。誰が殺されてやるか」


少尉は淡々と、俺に向かって喋り続けた。

片手に、拳を作っていた。

硬く、握り締められている。


「だから、俺は逃げる。あのデカい奴とは戦わない。死ぬためにやってきたんじゃねえ」


それは少尉の、悔しさだった。

この人は、誰よりも感情的に生きていた。

1番、人間らしく生きようと足掻いていた。


意地を、生き方を奪われて、失う。

悔しくない筈がない。


ばさ。

と、少尉は俺の脚の上に、無造作に黒い何かを放る。

俺は薄く滑らかなそれを、手にとって、広げる。

遮熱襲のスペアだった。


「お前、どうするんだ」


犬飼少尉はじっと、俺を見ていた。

逃げるか。

残るか。

どちらにしたって、マシな選択なんてない。

二通りの苦しみを、選ぶだけだ。


「どうしたいんだよ」


「俺は」


答えは、決まっていた。


「残ります」


まだ、探さなければいけない物がある。

この東京に、置いていけない物がある。

俺はそれを、拾い上げなければいけない。

だから、この町に、残ることにした。


「バカが」


「付いてきて欲しかったんですか?」


悪態つく犬飼少尉をからかって、にやっと、笑ってみせる。


「調子乗んなボケカス」


いつものように、仏頂面で、不機嫌そうに、少尉は言った。

短くなった煙草を、靴の底に押し当てて消す。

そのまま吸い殻を、指で弾いて俺のベッドの上に飛ばした。


「マナー最悪ってレベルじゃないでしょ。怪我人ですよ」


俺はそれを指で摘んで、ベッドの横にあるゴミ箱に捨てた。


「何がマナーだよ。もう守衛のおっさんもいねえよ。そもそも俺も怪我人だろうが」


この人は、待ってくれていた。

俺が答えを出すのを、見届けるために。

嫌いになる理由がいくつあったとしても、俺はやっぱり、この人が嫌いじゃない。


バツの悪そうに、けっ、と喉を鳴らしてから、少尉は歩き出した。

明かりの届かない暗闇へと、足を進めていく。


「ありがとうございます。お世話になりました」


暗がりに消えていく少尉の背中に、俺は頭を下げた。


扉が開く音に紛れて、明かりの届かない場所から、小さく少尉の声が聞こえた。

死ぬなよ。

と、そう言った気がした。

気のせいだったかもしれない。

いや、やっぱり、そう思うことにする。


俺はそれからしばらく、ベッドの上に仰向きになって、じっとしていた。

一から、整理しなければいけない。

この終わっていく東京で、何を探せばいいのか。

俺が何を求めているのか。

どうやって、辿り着けばいいのか。

前向きに、目を背けず、くじけずに。

考えて、考える。


ずずん。

その内に、地鳴りが部屋を揺るがした。

唸りのような音が、部屋中に反響している。


そろそろ、ここを出よう。

ベッドを降りて、立ち上がる。

少しふらつくが、歩くこと自体は問題なさそうだ。


救護室の扉を出る。

緊急用の予備電源に切り替わって、廊下は足元に薄い明かりが点っているだけだった。

その導線を辿って、建物の出口へと進んでいく。


どこへ行けばいい。

分からなくてもいい。


ただ、止まるな。

もう2度と立ち止まるな。

立って、歩いて、進み続けろ。


俺の大切な人たちが運んで、送り出してくれた命を、自分の脚で、どこかに届けなければいけない。


行かなければならない場所に。

行くべき場所に。


建物の外に出ると、雪は止んでいた。

雲は僅かに薄くなったように思える。

太陽は、まだ見えない。


俺は独りで、歩き出した。

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