丙
霧と砂埃の中で、私は地上から空を仰いだ。
雲のように視界を遮る白い姿が、緩やかに大気を泳いでいく。
これまで観測されてきたあらゆる個体を超える、間違いなく史上最大の飛獣だ。
破壊の限りを尽くして、
底の見えない黒い大穴が、町のいたるところに空いている。
地下街は溶け消えた。
その下の避難施設にまで、穴は達しているだろう。
私の足元の下、地面の深く暗い底で、大勢の人間が死んでいる。
そこには、柊中佐もいる。
私は、英雄がこの空から消える瞬間を見ていた。
だが、最早凡夫も英雄も変わらない。
地鳴りが瓦礫の山を揺らす。
霞の向こうに、赤い光の柱が地上を撃つのが見える。
暖かい風が、建物の隙間を通ってこちらまで流れてくる。
人に対処出来る存在の域を、遥かに超えた、規格外の破壊。
抗うことの出来ない、終わり。
一切の区別なく、あの怪物は東京の全てを滅ぼすだろう。
飛獣は一体一体、様々な、ありとあらゆる特徴を持ってこの世界に現れてきた。
その内のひとつが、どこまでも巨大で、こちらのあらゆる防備を超えた力を持っていたら。
そういう特徴を、備えていたら。
それがこの世界にやって来た時に、全ては終わる。
子供でも考えれば分かる。
誰もが頭の片隅に抱いてきた想像。
この町は、そこから目を逸らし続けてきた。
だからこの景色は、正当な帰結なのかもしれない。
これは報いなのだろうか。
私の頭に、疑問が浮かんだ。
地上に産まれて、空の下にある事を望んだのは過ちだったのか。
当たり前の景色を、当たり前のままにしておきたかったのは、愚かだったのか。
この町の結末は、訪れるべくして訪れたのか。
だとしたら、それは余りにも。
いや、やめよう。
私はずっと悲しい気持ちになりたくなくて、自分なりに気楽にやってきたつもりだ。
今更その命題に逆らう事もない。
あるがままに。
なしくずしに。
いつも通りに。
やりたいようにやるだけだ。
それが私だから。
私が、山上タイガであるために。
どこまでも、瓦礫の景色が広がっている。
私は地上で、町の残骸を拾い、退かしていた。
一つ一つ、慎重に。
その下にあるものが、潰れて壊れないように。
確かに、ここに落下したはずだ。
やがて、探していたものが瓦礫の下から現れる。
ずたずたに引き裂かれた遮熱襲を纏って、真鍋が気を失っていた。
私はしゃがみ、真鍋の血まみれの腕を掴む。
腕を回し、肩を貸して担ぎ上げる。
微かな脈がある。
運のいい奴。
あるいは運のない奴か。
そんな言葉遊びに意味はない。
これから、こいつ自身が決める事だ。
「こんな所で寝るな」
返事は無い。
しかしまだ、その体には熱がある。
背後に、地上に降りる足音がした。
振り向くと、高千穂が瓦礫の上に立っていた。
「生きてたか」
「あんたもね、山上中尉」
目を溢れそうなほど潤ませて、唇を震わせている。
柄だけになった貫徹機構を握りしめていた。
それでも、強がっていた。
これしきのこと、という顔をしていた。
そうだな。
それが高千穂らしい。
よくがんばった。
よく生きてたな。
「そいつ、死んでるの?」
瓦礫の上に降りて、絞り出すような声で、高千穂は言った。
私は首を横に振った。
真鍋の呼吸はある。
すぐに手当すれば、失血も死には至らないだろう。
重要な臓器が無事ならば、まだ望みはある。
ほらな。
やっぱり鍛えておいてよかっただろう。
私は高千穂に近づき、真鍋の体を預けた。
身長が足りないので、真鍋の膝から下が引きずられる格好になる。
中々笑える姿だ。
真鍋も意識があれば笑っていただろう。
タイミングの悪いやつめ。
「弾はまだあるか?」
高千穂が首を振る。
「じゃあこれを使え」
私は背中の八式を外して、高千穂に手渡す。
残弾は十分あるはずだ。
元々射撃は得意じゃないし、性にも合わん。
肩越しに背後を顧みる。
100mほど先、こちらに向かって2匹の大型飛獣が近づいてきている。
さっきからこの辺りを旋回している奴らだ。
獲物を探しているのだろう。
猶予は少ない。
私は高千穂に向き直った。
少し屈んで、目線を合わせる。
「真鍋を連れて、真っ直ぐ支局に戻れ」
高千穂は、くっと、唇を結んだ。
「私も後からすぐ行く」
「嫌よ」
ぽろぽろと、高千穂は涙を零す。
「私また、何にも出来ないの」
「違う。お前に出来る事をするんだ」
翼の羽ばたく音が聞こえる。
猶予はない。
高千穂はじっとその場に立ったまま、数秒間動かなかったが、地面を蹴って飛び立った。
飛び立つ瞬間、高千穂はこちらを見た。
それでいい。
私は頷いた。
真鍋を生かしたのは、柊中佐の最後の仕事になった。
だから。
後は任せろ、だ。
振り返り、崩れた道路に突き立てた槌を引き抜く。
いつものように、手に馴染んだ。
お前も、よろしく頼む。
膝を曲げ、低く姿勢を取る。
陸上競技のスタートのように。
こちらに迫ってくる二つの巨影に向けて、一歩を、蹴りだす。
交差するような軌跡を描く二筋の火光を掻い潜って、直進する。
間合いに入った。
羽根と嘴を備えた白い巨鳥の頭部に、斜めに槌を振り下ろす。
力任せに、いつものように、私の好むように。
ごがっ。
手応えはあった。
しかし、殴りつけられた飛獣は、けたたましく羽ばたきながらも、高度を僅かに落としただけだった。
質量の大きい固体は、揚力の余剰が多い。
この飛獣は体勢の立て直しも早い。
きつい相手だ。
がぎ。
もう一匹の飛獣の大きな嘴が、私の肩を挟み込んだ。
悠長に観察している場合でもなかったな。
もう遅いが。
嘴の隙間から、赤い予兆が漏れ出す。
身構える隙もなく、0距離から火光が直撃する。
襲の表面が蒸発する。
あふれた熱が首筋と頬を焼いた。
私は折れたりしない。
これしきで音を挙げるような鍛え方はしていない。
それだけか。
まだやれるぞ。
不敵に、タフに、笑ってみせる。
誰に伝わらなくてもいい。
私が私であるために。
巨鳥が首を振るった。
天と地が逆転する。
世界が回転する。
地上に向けて、嘴を離す。
コントロールを失い、空を切る感覚。
制動をかけようとするが、間に合わない。
辛うじて僅かな減速を感じながら、私は背中から地上に激突する。
全身が割れるような衝撃と、痛み。
脳が揺れている。
喉からこみ上げた温い鉄の味が、口から飛び出す。
手足が痺れる。
握っていたはずの槌が無い。
はばたく姿の影が、空から射す。
休む暇は、与えてくれないらしい。
この2体には、フォーメーションがある。
赤い輝きが私の視界を照らす。
爆風と熱波に乗って、再び空に上がる。
右脚の感覚が、腿から途切れる。
溢れる血の雫が、私の眼下に舞った。
火光を放った飛獣の反対側に振り向きながら、質量鉈をベルトから抜く。
振りかぶるが、間に合わない。
再び、飛獣の嘴が私を締め付けた。
お手上げだな。
厄介な敵だ。
でも、それでいいじゃないか。
厄介だからこそ、私は楽しんできた。
最後まで、笑って楽しめ。
飛獣が首を振った。
景色が逆転する。
茫洋とした意識で、私は考える。
どうしたものかな。
武器は質量鉈ひとつ。
敵は二匹。
次地面に叩きつけられれば、私はもう立ち上がれないだろう。
槌をどこかに落としてしまった。
使い慣れていた武器を。
せめてアレがあれば。
ああ、そうか。
あるじゃないか。
私の目の前に。
私は、振りかぶった鉈を、飛獣の嘴の付け根に突き立てる。
そのまま刃を捻るように引き抜きながら、力任せに嘴を抉じ開ける。
地上へ振り下ろされる直前、締め付けられていた体が自由になる。
零れるように、真下に落ちる。
飛獣の影に潜り込むように、飛ぶ。
握り締めた質量鉈を、飛獣の片翼に突き刺し、逆手で切り裂く。
揚力を失った飛獣が、自重によろめき、体勢を崩す。
私は滑り込むように、飛獣の頭部側へと進行方向を変える。
飛獣の首を抱え、反対側のもう一体に向けて、加速する。
片翼の飛獣を、槌として両腕で振り上げる。
反対側の飛獣が火光を吐く。
溶け落ちた襲から露出した、私の右腕を吹き飛ばした。
くれてやる。
振り下ろすだけなら、片腕でいい。
ごしゃっ。
叩きつけ、手を離す。
二匹の飛獣は空中で衝突し、そのまま、絡み合うような姿で堕ちていった。
私も、そのまま堕ちていく。
地面に降りる。
灰の山の上に、仰向けに寝転がった。
灰の上に、赤い染みが広がっていく。
暗い空を、私は見上げる。
何かが欲しかったわけじゃない。
ただ、この息が詰るような町で、自分なりに気持ちよく生きてみたかった。
心地のいい事を探して、それをした。
空を飛ぶこと。
戦うこと。
体を鍛えること。
時々、それをサボること。
仲間をからかうこと。
時々、からかわないこと。
毎日、どこかが変わっていく東京の町。
それに、屋台のアイスクリーム。
嫌だな。
どうして今、そんな事を思うんだろう。
私は結構、この世界が好きだったんだ。
死にたくない。
死ぬのは、寂しい。
死なないさ。
体も鍛えてる。
私はまだまだ、元気に生きる。
このくらいの傷で、どうした。
頬に、冷たい感触が触れた。
鉛色の空に、白い細かな点描が揺らめいている。
雪だ。
雪が降っている。
灰と雪の寝床か。
洒落ているじゃないか。
面白い。
少し休んでいこう。
力を抜いて、目を閉じる。
今はただ、少しだけ眠ろう。
心地よい脱力感。
暗闇。
やがて、無音。
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