かんかんかんかん。

警報機の音で、目が醒める。

夢を見ていた。

息苦しい夢だった。

肌が寝汗で濡れている。


かんかんかんかん。

警報機が鳴り続けている。

建物の外からだ。


意識が段々とはっきりしてくる。

俺はベッドから起き上がり、上着を羽織って駆け出す。


中庭に出ると、つんざくように警報の音が響いていた。

ドラム型の建物の内側に、けたたましいその音が、反響している。

俺は耳を両手で塞ぎながら、空を見上げる。


灰色の雲が、第七支局の建物が形作った縦穴に蓋をするように空を覆っていた。

そのモノクロめいた色彩の中に、柊中佐が浮かんでいた。

縦穴の外の空を、じっと見ている。


俺は地面を蹴って、柊中佐に向けて飛ぶ。

向かってくる俺を見下ろす形で一瞥してから、中佐はまた、縦穴の外に目を向けた。


中佐と並んで、その景色が視界に飛び込んできた。

見渡す限りに、空が、亀裂に覆われている。

目に映る東京の景色全てが、ひび割れに包囲されていた。


街中の飛獣警報機の赤いランプが、朝靄の中に浮かび上がるように光っている。

住民が避難し、地上は無人になっていた。

ただ警報の音だけが狂騒のように、鳴り響いている。


柊中佐が、こちらに振り向いた。


「行こうマグ。ボクらの出番だ」


皇紀2677年。

東京の12月7日は、こうして始まった。


熊扇に現れたひび割れは、第七支局の管轄区内で最も発達が早かった。

街一つを跨ぐように、ひび割れは灰色の空に浮かんでいる。

地平線と平行に走る空間の傷は、それ自体が誰も見たことがない程、巨大だった。


このひび割れをまともに包囲しようとすれば、隊員同士の間隔が空きすぎる。

1人1人の連携が難しくなり、陣形が突破されやすい。

柊隊は横並びに100m程度の距離を取って、ひび割れと対峙した。


真下には閑散とした倉庫街が広がっている。

その地下には、あの煌めく繁華街がある。

最下層には、住民避難用のシェルターも存在する。


俺は柊中佐と、この街で高千穂曹長へのプレゼントを選んだ日を、思い出していた。

金木犀の匂いのする不思議な店。

青いトルコ石のブレスレット。

噴水広場の琥珀色のタイル。

あの暖かい空気。

人々が、廃れ行く地上を、ひと時だけ忘れる事が出来る場所。


大事な思い出がある。

大事な街だ。

なくならせたり、したくない。


警報の音が止んだ。


ばきり。

ばき。

ばき。

一際に大きな音を町の空に鳴らして、亀裂が牙を剥くように裂けていく。


無数の白い影が、開いた亀裂の中に犇めきあっている。

その数は、10や20では利かない。

あるいは、100に届いているかもしれない。

フォーメーションを取って、包囲で片付けられる数ではない。


『散開、各個撃破。散開、各個撃破』


無線通信機の合成音声が鳴り出す。

雪崩のように、飛獣の群れが押し寄せてくる。

白い怒涛が、俺の視界を埋め尽くした。


夢を見た。

息苦しい夢だった。


俺はコンクリートの堤の上に立っていた。

堤は空に向かって突き出していて、その先には何も無かった。

先端に立つと、視界の限りに、青い空が広がっている。

右を向いても、左を向いても青。

見上げても青。

見下ろしても青。

空の中心に、俺がいた。


もう一つの堤が、遠く向こうに霞んで見えた。

その上に立つ人影が、ふらり、と堤の上から足を踏み外した。

人影は落下していく。

俺は空中に飛び出す。

空気を切って、加速する。

加速し続ける。

人影に向けて、手を伸ばす。


しかしどこまでも、その距離が縮まらない。

もうすぐなのに。

あと少しなのに。


俺は真下に潜るように加速を続ける。

距離は縮まらない。

霞を切って、真っ直ぐに人影は落下していく。


その顔はぼんやりとして、よく見えない。

男のようでもあった。

女のようでもあった。


柊隊の仲間のようにも見えた。

俺の家族のようにも見えた。

誰か他の、全く知らない人のようにも見えた。

もういない誰かのようにも見えた。


遠くに別の人影が落下していく。

振り向くと、また別の人影が落ちていく。

無数の人々が、落下していく。


俺はその一つ一つに手を伸ばそうとして、届かず、また別の一つに手を伸ばそうとする。

影に手が届くことは無い。

俺はただ、青い世界に吸い込まれていく一人一人を、見ていただけだった。


がちん。

空撃ちの音で、我に返った。

引き金を引いた手元に、掠れた嫌な感触が伝わってくる。

八式の針弾を、打ちつくした。

しまった。

目の前の飛獣に、隙を晒す。


ハチ型の飛獣が、垂れ下がった長い尻尾の先に赤い光を灯して、こちらに向けて飛ばす。

遮熱襲しゃねつかさねの隙間を通そうとする攻性火光こうせいかこうの針。

横向きに回転しつついなし、かわす。

そのまま、飛獣に向けて距離を詰める。

回転の勢いをのせて、八式の銃身を、横薙ぎに飛獣に叩きつける。


ばぎっ。

装弾が無い状態でも、八式の銃身にはそれ自体に60kgの重量がある。

飛獣は吹き飛ばされるが、時間稼ぎにしかならない


地上に降りて、補給を行わなければ。

背中に八式を固定して、俺は建物の隙間に降下する。


じっ。

真後ろから、顔の傍を熱が掠めた。

振り向くと、別のハチ型飛獣が黒い眼点をこちらに向けている。

もう一発来る。


ぴしゃ。

水が零れるような軽い音と共に、放たれた赤い光を襲で受ける。

接近し、質量鉈を腰のホルダーから抜き、飛獣の羽根の付け根に向けて、一息に振り下ろす。


がっ。

ぎしっ。

甲殻が硬い。

積層した構造に引っかかって、刃が止まる。

至近距離から、再び火光が放たれた。

横腹を抉り、焼かれる感覚。


「ああああああああああああああああああッ!!!」


俺は叫んでいた。

暗闇が、俺の背中を追ってくる。

死の暗闇が、迫ってくる。

来るな。

どこかに行け。

どこかに消えてくれ。


質量鉈の柄を手放す。

両手で飛獣を押さえつけるように、真下に向けて、飛ぶ。

高度が下がった。

質量鉈の重量と、生体揚力。

ベクトルが一致した力の総計が、飛獣の飛行能力を上回っている。

そのまま、地面に向けて加速していく。


倉庫の屋根の上にぶつかって、飛獣は粉々に砕け散った。

俺は灰を吸い込んで、咳き込む。

口の中に、ざらついた不快感が広がる

唾を吐き捨てて、立ち上がる。


右耳の感覚が無い。

顔の半分に根を張るように、鋭い痛みが走った。


傷口が焼けて塞がっているのか、出血は無い。

横腹の傷も同じだった。

俺は大きく息を吐き、吸い込んだ。


もうどのくらいの間、戦い続けているのか、分からない。

三十分前だったかもしれない。

一時間前だったかもしれない。

十時間前だったかもしれない。


灰色の雲は厚い。

太陽がどこにあるかも、分からない。


中佐や他の隊員たちからの通信はない。

あとどのくらいの飛獣を倒せばいいのかも、分からない。


風は肌を裂くように冷たい。


喉が渇いていた。

呼吸が苦しかった。

体中が痛かった。

色彩が霞んでいた。

意識を手放したかった。


まだだ。

もう少しだけ、続けるんだ。


ここに残るって決めた。

それを自分で選んだ。

しゃんとしてろ。

痛みに耐えろ。

もう少しだけ。

終わるまで。


屋根から下りて、地上のすれすれまで降下する。

建物を縫って、補給地点に向かう。


道路沿いの、金網に囲まれた狭い一区画。

コンクリートの地面に埋め込まれた取っ手のロックを外し、押し込む。

がしゃん。

ばしゅ。

黒い鋼のコンテナが、地上に露出して開く。

埃っぽい空気があふれ出した。


いくつかの重針弓のスペア、そのマガジン、質量鉈のスペア。

汎用性の高い武装がコンテナの中に固定されている。

この設備は消耗戦を想定して飛獣警報機や観測台のように各都市に設置されているが、使われることは少ない。


俺は手持ちの八式を捨て、スペアを装填する。

さっきの打撃で、フレームが歪んでいるかもしれない。

質量鉈も新しいものに取り替えたい。


ベルトに柄を固定した時、ぞわっとした感覚が首筋に走った。

地面を蹴って、直上に離脱する。

足元で、赤い光が炸裂した。


爆風を振り切り、高度を並べた飛獣に照準を合わせ、撃つ。

がん。

黒い銛は正面からハチ型を貫いた。


地面に転がる吹き飛んだコンテナの残骸を見下ろす。

ちくしょう。

貴重な補給が一つ死んだ。

何やってる、間抜け。


白い影が二つ、視界の端から、こちらに向かってくる。

悔やんでいる時間さえ、ない。


上昇し、位置的な有利を取る。

追随して二体の飛獣が上昇する。

殆ど同時に、火光が放たれる。

トリガーを引き、襲で防ぎ、もう一度トリガーを引く。

二体同時に、沈んでいった。


疲労と引き換えに、感覚が研ぎ澄まされていく。

襲が風にはためく音が聞こえる。

遠くで瓦礫の崩れる音が聞こえる。

心臓の音さえ、耳鳴りのようでうるさい。


俺は気が付くと、町全体を見下ろす高度まで上っていた。

赤い光が、薄暗い曇り空の下で、いくつも閃いている。

どこからも黒い煙と火の手が上がり、建物が瓦礫になって崩れていく。

無数の白い影が、瓦礫の上を滑っていく。

その景色が、平野の町のどこまでも広がっている。

東京が、壊れていく。


俺は目を閉じて、耳を塞いだ。

耐えられなかった。


やめてくれ。

もうやめてくれ。

なんでこんな事するんだよ。

俺たちが生きてきた場所なのに。

大切な場所なのに。

守ろうとしてきた場所なのに。


なんの理由があって、こんな風にされなくちゃいけないんだ。


飛獣が出現する理由は不明。

飛獣が何を求めているかは不明。

飛獣という存在にどういう意味があるのかは不明。

飛獣の出現を止める方法は、不明。


最初から、ダメだったんじゃないのか。

みんな気付かないフリをしていただけで。

俺たちがやってきたことは、意味なんてなかった。

浜辺の砂で海を埋めようとするように。


ばきっ。


亀裂の走る音が聞こえた。

ひび割れの音だ。

耳を塞いでいても聞こえる、大きな音だった。


俺は空を見上げた。


ばぎばぎばぎばぎばぎばぎっ。


大きな音だった。

乾いた老木が、大きな機械に巻き込まれて、ひしゃげて、潰れていくような音だった。


巨大な亀裂から、もう一体飛獣が現れた。

どこまでも、巨大な飛獣だった。


灰色の雲の下に、真っ白なもう一つの雲が現れた。

町の一区画が、飛獣の影に飲み込まれた。


飛獣の大きな黒い眼が、その体を刳り貫く孔のように現れる。

直径30m以上はある眼が、無数に増えていく。

黒と白の斑になった雲が、東京を見下ろしている。


俺はその光景で、理解した。

心の何かが壊れて、もう戻らないのを感じた。

最初から、ダメだったんだ。


高度を落として、道路の上に立つ。


もうやめよう。

もういいんだ。


ただぼんやりと、こちらを見下ろす黒い水晶のような球体が、赤い色に変わっていくのを、俺は眺めていた。


きゅううううう。

悲鳴のような音が、斑の雲から町中に響き渡っている。

赤色が、涙のように満ちていく。


どうして、俺はここに残ったんだろう。

俺は何がしたかったんだろう。

何か出来ると、思ってたのか。

何にも、出来るはずなんてないのに。

俺にはずっと、分かってたのに。


がくん。

誰かが、俺の腕を掴んだ。

俺を後ろに引っ張っていく。

痛いほどに、俺の腕を握り締めている。


引かれるまま、呆然と空中を走った。

誰かは、俺の体を投げ出すように、手を離した。


光の柱が、景色の全てを飲み込んでいく。

その鮮やかな赤の中に、柊アリアの銀色が、霞んで、黒い塵になって、消えた。


焼けるような熱い風が、俺を吹き飛ばした。

瓦礫の一つが、こっちに向かってくる。

衝撃が、俺の額を貫いた。


そこで、意識は途切れる。

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