甲
父親の勤め先は対空局の外交事務。
東京を離れ、海を渡って世界中を行き来するのが仕事だ。
物心付いた頃から父は俺にとって、ごく稀に家にいるおじさんというような認識だった。
正直言って未だに世間一般的な父親という存在とのイメージの溝は、埋められていない。
父は俺と話がしたいと言って、場所を指定してきた。
そこは房町の喫茶店で、第七支局から歩いて15分ほどで辿り着ける距離だった。
店の前に立って、扉を引く。
こんな状況で、地上の喫茶店が営業しているはずもない。
しかし、扉の鍵は開いていた。
店員の姿は見えないが、店内に明かりが点き、BGMすらかかっている。
店の奥に、白い背広を着た男が背を向けて座っているのが見える。
男がこちらに振り返った。
「御機嫌よう、我が息子」
にこやかだが、この人の笑みは相変わらずなんだか胡散臭い。
俺は席に着いて、父と向かい合った。
「こうやってお前と膝を突き合わせて話すのはいつ以来だったかな」
「初めてだろ。多分」
少なくとも、俺の記憶を遡る限りでは、この人と2人きりで話したことなど無い。
そうだったかぁ?と、大げさな身振りで父は笑う。
「しかし見違えたよ。逞しくなったな。一年間も鍛えられるとやっぱり違うな」
「一年は経ってない。十ヶ月と少しだよ」
見違えたって言っても、父にとって俺が元々どんな奴だったかを覚えていたのかどうかそもそも怪しい。
とはいえ別段、俺もそれを気にしていない。
要するに俺と父はそういう関係だったのだ。
「どういう用件なんだよ。こんな時に」
「そうだな。さっさと本題に入った方がいいか」
父は俺から視線を切った。
視線の先、天井から突き出した梁に、時計が掛かっていた。
時計の針は午前10時過ぎを刺している。
こちこちと、金色の秒針が、黒い長針を追いかけていく。
「明日な」
父は動く時計の針を見つめたまま、呟いた。
「明日、東京は無くなるんだ」
東京が、無くなる。
言葉の意味が、よく分からない。
この人は何を言っているんだろう。
適当な父の、いつもの軽口かもしれない。
父が視線を戻して、こちらを見た。
その表情は今までに見た事がないほど、冷たく、暗く、真剣だと分かった。
父は足元から、黒い手提げのケースを持ち上げた。
その中から、机上に三枚の紙を引きずり出す。
「米国は世界で最も正確な飛獣出現の予測機構を保有している。"トランペッター・システム"だ」
それは全て東京の白地図で、隅に日付が振ってある。
「その予測範囲は国土の範囲内。時間的限界はひび割れの発生13時間前、というのが公への発表だが、実態は違う」
一枚目は12/5。
昨日の日付だ。
二枚目は12/6。
今日の日付だ。
そして、三枚目は12/7。
明日の日付だった。
「本来は44時間以内であれば、世界中の主要都市で発生する飛獣災害を事前に予測できる。かの国が世界の手綱を握り続けている理由の一つだよ」
地図には、赤い円の印が付いている。
「今見せているこれは、国家機密だ。あんまり他人には言うなよ。頭が吹き飛ぶ」
12/5の地図に付けられている印。
飛獣の出現と、一致している。
12/6の地図に付けられている印。
飛獣の出現と、一致している。
12/7の地図は、赤い印に埋め尽くされていた。
大小無数の赤い円が、東京を覆っている。
「都市というのは、人間が作り上げた物理的な繋がりでしかない。家屋、道路、水の供給、光熱の供給……」
父は、目を落として、テーブルの上に四つの角砂糖を積み重ねていた。
「物理的な繋がりは、大きな強い力で壊れることもある。みんな忘れがちだが」
角砂糖の塔を、父が指で弾いた。
四つの角砂糖は、ばらばらに机の上を転がった。
「12時間後に、米国の助け舟が来る。原子力潜水艦だ。送迎としては少々大げさな代物だが」
父は笑った。
渇いた笑みだった。
虚しそうな、笑顔だった。
「2000人がこの都市を捨てる。明日、東京が滅びても、『日本人』は米国の保護下で自治権を持った少数民族として継続するだろう」
淡々とした口調で、父は言葉を続けた。
俺はそれをただ、机上の地図を見据えながら聞いていた。
東京が、終わる。
これまでの暮らしの全てを捨てる。
俺がずっと暮らしてきたこの町が、無くなる。
無くなるって、どういう事なんだ。
「お前たちと母さんの切符は用意してある。マグ。本当に大切なものだけ、持っていくんだ。ここで待っておく」
頭の中で、その言葉が何度も何度も、響き続けていた。
俺は椅子から立ち上がった。
どこかに向かおうとした訳じゃなかった。
ただ、座り続けているのが耐えられなくて、立って歩いている感覚が欲しかっただけだった。
足元がふらつく。
吐き気が込み上げてくる。
残響が強まっていく。
本当に大切なものだけ、持っていくんだ。
本当に大切なもの。
大切なもの。
俺の大切なものって、なんだ。
俺は出入り口の扉の前に立った。
ガラスの表面に、ぼやけた自分の姿が映る。
ぼやけて宙に浮かんでいる俺の虚像。
今、床に足を付けて立っている現実の俺。
大切なもの。
手放せないもの。
失いたくないもの。
そんなの、決まってる。
俺は踵を返す。
行き戻る。
座る父の傍らに立ち止まる。
「父さん、俺、残るよ」
掛け替えの無いものを、この町の外に持っていけないから。
「俺の本当に大切なものは、今、この場所にいることだから。東京に残る」
やり遂げたい。
手放したくない。
手放したら、俺はまた、何者にもなれなくていい俺に戻ってしまうから。
ほんの少しだけ変わったつもりでいるんだ。
だから途中で、やめたくない。
「本気で言ってるんだな」
父はテーブルに視線を落としたまま言った。
俺は黙って頷いた。
「そうか」
父は立ち上がり、俺の肩に手を置いた。
「会いに来てよかったよ。立派になったな。マグ」
父の手は温かかった。
その時、この人は俺の父親なんだと思った。
店の扉の前まで歩いて、父はこちらに携帯を差し出してきた。
「母さんに電話しておけ」
「あの人は俺の事、気にしてないよ」
母とは対空警邏に入隊して以来、一言も話していなかった。
こちらから話しかけるつもりも無かったし、向こうからの連絡も無かった。
きっと、俺たちはそういう親子なんだろうと思っていた。
「本気でそう思うか?」
その目は、真剣だった。
父は真剣で、悲しそうだった。
「実の息子が死地にいること。それを拒むことが出来ない立場。その状況で母さんが何も感じて来なかったとお前が思うなら」
押し付けるように、父は携帯を俺に握らせた。
「それは、残酷だぞ」
俺は父から目を逸らした。
手元の携帯を見る。
ずっと、怖がっていただけなのかもしれない。
俺は母に電話を繋ぐ。
数秒の呼び出し音の後で、通話がはじまった。
「母さん、俺、残ることにした」
それと。
言っておかないといけない。
「今まで、連絡もしないでごめん。俺、なんとかやってるよ」
『……そう』
母は息を吐いた。
泣いているのが、電話越しに分かった。
『マグ。貴方ともっと話したかった』
俺はこの人の何を知ってるんだろう。
ずっと一緒にいたのに。
いつからか、分かろうとしなくなっていた。
それは俺の方から、拒んでいたんじゃないのか。
一方的に決め付けて、勝手に切り離して。
「また、話せるよ」
俺は泣かない。
これで最後じゃない。
最後にしたくない。
「この町と人を、母さんたちの帰ってくる場所を守るから」
胸を張りたい。
俺がこの世界で、自分で選んで手に入れたものを、誇りたい。
「俺の仕事なんだ」
通話が終わる。
俺は父に携帯を返して、ガラスの扉を開く。
「もう一度言っておくが」
父は言葉を切って、わざとらしく咳払いした。
「今話したことは、全て国家機密クラスの情報だ。あんまり他人にしゃべるなよ……あんまり、な」
俺はその言葉を背に、通りに出て、走り出す。
全速力で、第七支局に向かって。
冬の冷え切った空気が、頬を悴ませた。
「大丈夫?」
息を切らして支局に駆け込むと、ロビーに柊中佐が立っていた。
俺は駆け寄って、今聞いてきた全てを話す。
明日、未曾有の飛獣の大発生が東京で起こる。
アメリカに一部の住民だけが避難する。
町は破壊される。
全部が、なくなるかもしれない。
「落ち着いて、マグ」
中佐は困ったように微笑んだ。
「その話は、もうみんなにしたよ」
「へ……?」
俺はその場にへなへなと座り込んだ。
「ボクも聞かれてたから。潜水艦に乗らないかって」
なるほど。
俺たち一人一人は選ばれなくても、中佐の存在は、避難する人間を決める人々にも特別だったのだろう。
「それで……」
「みんな、ここに残るって」
もちろん、ボクも。
中佐は、自分の心臓の上に掌を置いた。
「英雄だなんだって言われて、負けそうだから自分たちだけ逃げますって、やっぱりちょっと、かっこ悪いよ」
俺はそんな中佐を、床にへたり込んだまま、見上げていた。
ぐっと、足に力を入れて、立ち上がる。
少し俺よりも背の小さい柊中佐と、並んで歩く。
後悔は無かった。
俺は納得していた。
英雄と仲間と、俺は一緒にいる。
怖くない。
きっと戦い抜ける。
率直な気持ちに従って、それが正しい選択だと思っていた。
けれど、正確ではなかった。
正しいとか正しくないとかじゃない。
俺は単純に、分かっていなかった。
明日、この町が無くなること、これまでの全てを失うという意味。
俺はそれを、分かっていなかった。
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