丁
雪が降っている。
瓦礫の町に、白い粉雪の粒が落ちる。
刺すような風の冷たさ。
霞んでいた視界が、少しずつ、輪郭を取り戻していく。
見下ろす景色は流れていく。
俺は空を飛んでいる。
どうして?
どうやって?
疑問と共に、全身から鈍い痛みが立ち上ってくる。
耐え切れず、身を捩ろうとしても、指先さえ動かない。
ただ腕をだらりと下げて、痛みに耐えた。
「じっとしてなさいよ」
声のほうに視線を向けると、高千穂曹長の横顔があった。
小さな肩で、俺の体を支えて、飛んでいる。
礼を言おうとして、喉の奥に絡んだ血に咳き込んだ。
「じっとしてなさいってば。支局に着けば治療が受けられるわ」
そうか、支局に向かってるのか。
支局のみんなは、無事なんだろうか。
山上中尉は。
犬飼少尉は。
それに――。
鈍い痛み。
鈍い痛みが、俺の全身でこだましている。
そして、それが唐突に。
その景色は唐突に、俺の頭に蘇ってきた。
白黒斑の雲。
地上を貫いた、赤い光の柱。
その中に、銀色が。
柊中佐の銀の髪が、揺れた。
俺はその瞬間を見ていた。
柊アリアが、死んだ。
この町を守ってきた英雄が。
誰よりも強かった中佐が。
あの日、俺に手を差し伸べてくれた人が。
生きていて嬉しいと、言ってくれた人が。
俺のせいで、死んだ。
俺はあの時、何をしてたんだ。
自分で逃げることも出来たのに。
ただぼんやりと、立ち尽くして、それで、何をしてたんだ。
血を吐き捨てながら、俺は喉を振り絞った。
声は、呻きにしかならなかった。
肺も喉も、裂けるように痛んだ。
「俺が」
俺は咳き込み、掠れた呼吸を漏らしながら、言葉を作った。
言葉にして吐き出さないと、押し潰されそうで、耐えられなかった。
「俺が、死ねば、よかった」
流れる景色が、止まる。
高千穂曹長が、こちらを見た。
怒りの表情で、俺を睨んでいた。
間髪入れずに、握った拳が俺の頬を撃った。
新しい痛みが、俺の頬に滲んだ。
「あんたを殴ってる時間なんて、今全然無いって分かんないの?」
俺の胸倉を掴んで、高千穂曹長は言った。
「また同じように言ってみなさいよ。何回だってぶん殴ってやるから」
また、景色は流れ出す。
消えてしまいたいと思った。
産まれてこなければよかったと思った。
俺は屑だ。
俺は最低だ。
柊中佐がしたことまで、俺は侮辱しようとした。
高千穂曹長が今、命を賭けていることまで、俺は無視しようとした。
生きなければいけない。
それだけは絶対に、確かなことだ。
最後まで手放すわけにはいかなくなった。
でも、生きてどうしろっていうんだ。
瓦礫の町に黒い穴がいくつも開いている。
穴の底は見えない。
どこまでも、深く、暗く、広がっている。
こんなの、人間にどうこう出来る話じゃない。
俺にどうしろっていうんだ。
何も出来ない。
ただ生きてるだけで。
なんで俺なんだ。
俺は選ばれたのか。
選ばれなかったのか。
なんで、俺なんだよ。
あの日、柊アリアに手を差し伸べられた日。
俺は、何者にもなれなくていいと、思うのをやめた。
何かになれるかもしれないと思った。
何かが見つかるかもしれないと思った。
特別な人の側に居て、特別な人に手を差し伸べてもらえれば、自分にも特別な何かが宿るかもしれないと思った。
でも、違った。
遅かれ早かれだったんだよ。
俺もこの町も、いずれ追いつかれる事から、逃避していたかっただけで。
少しだけ時間の猶予を与えて、やがて、どうにもならない事だけを、思い知らされる。
お前に出来ることなんて何にもない。
お前にはお前自身だって、変えることは出来ない。
もう、何も見つからない。
何者にもなれなくてよかったのに。
俺は、何者でもないものの、それ以下になってしまった。
痛み。
鈍い痛みだけが、俺の感覚の全部を支配していた。
体中が痛い。
指先を伝って、赤い血が地上へと落ちていく。
やがて、雪に紛れて見えなくなる。
楽になりたい。
痛みからも、考えることからも、解放されたい。
俺が、柊アリアを死なせた。
生きている価値が無い。
誰だってそう思う。
この町に暮らしてきた誰もが、そう思う。
高千穂曹長。
お前もそう思うだろ。
だからもう降ろしてくれ。
置いていってくれ。
手を放してくれ。
声は掠れて、出てこなかった。
代わりに視線で懇願する。
要求する。
高千穂曹長は、俺の腕を掴んで、放さなかった。
真っ直ぐに、行く先を見て飛んでいた。
雪の中を、揺るがず、真っ直ぐに。
手首に、空色のブレスレットを着けていた。
そんなの。
それが、なんなんだ。
もうじきに全部が終わるのに。
ずっとなんて無い。
そんな言葉、なんの力も無い。
町は残骸と穴ぼこだけになって。
もう何も、見つけられないのに。
分かってるはずだ。
分かってるはずなのに。
なんで、置いていってくれないんだ。
ちくしょう。
がく。
真っ直ぐだった進行方向が、大きく逸れた。
赤い光が、正面から空を切って飛んできた。
向かう先に、無数の白いクラゲのような姿が浮かんでいる。
白い雪の中に溶け込むように、白い飛獣の群れが、揺らめいていた。
それは、真っ白な壁のように迫ってくる。
いくつもの赤い点が、壁の中に浮き上がった。
大荷物を背負いながら、対処できる数じゃない。
突っ切るつもりなのか。
無茶だろ。
俺を捨ててくれ。
頼むよ。
俺はもういいんだ。
高千穂曹長は、俺を放さなかった。
俺の体を小さな襲の下に隠すように、抱えた。
白い壁の中に、飛び込んでいく。
数回、大きく揺れる感覚があった。
激しい痛みに、意識が遠ざかっていった。
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