丙
俺たちが現場に付いた頃には、既にひび割れは発達しきっていた。
警報機の音が、鳴り響く。
足元には住宅街が広がっている。
避難は既に完了しているはずだ。
それでも、こういう場所で戦うのは気が滅入る。
建物の一つ一つに、人の生活がある。
帰る家を無くす苦しみ。
これまでの人生が壊れる苦しみ。
それを防ぐために、戦わなくてはならない。
傷口から溢れ出していく血を止めるように。
ひび割れの発生はおよそ2時間前。
このスピードで飛獣が出現するとなれば、複数体の小型飛獣である目算が高い。
抜けられないために、包囲を狭く取る。
ひび割れが広がる。
警報の音が止む。
ひび割れは広がり続ける。
どこまでも発達していく。
その急激な速度に柊中佐が、何かを感じ取る。
中佐が後退のサインを出した。
包囲を広げるべく、全員が後退する。
傷口が裂けるように、ひび割れが開いた。
砂嵐の世界に、飛獣の姿が垣間見える。
二枚の巨大な蝶のような羽を忙しなく羽ばたかせながら、こちらに向かってくる。
胴体らしきものは無く、羽の下には無数の触手が蠢いている。
その全長は明らかに10mを超えている。
大型の飛獣だ。
俺たちがその想定外の姿を目に写した瞬間。
ひび割れの外に向かって、一斉に触手が向けられた。
その一つ一つの先端に、瞼を開くように黒い眼点が現れる。
赤い光が、束ねられていく。
ごお。
と、低く大型の獣が吼えるような音が響いた。
今までに見た事の無いほどの眩しさで、強烈な赤い光が空を切り裂いて飛んだ。
「……しまったな」
山上中尉が、何かを呟いたように見えた。
火光が、中尉の姿を飲み込んだ。
「中尉!」
俺は叫んだ。
凶々しい赤色は細く薄まっていき、やがてその中から山上中尉が解放された。
糸の切れた人形がよろめくように、中尉は建物の狭間に落下していく。
視界の端に、赤い光が閃く。
遮熱襲の防御は、直撃の寸前に間に合った。
赤い光が空中に弾ける。
周囲の空気の温度が瞬間的に高まり、生ぬるい風が襲の隙間から俺の首筋を撫でた。
ひび割れからこの世界の空に乗り出した飛獣は、触手を全方位に広げ、四方八方に火光を撒き散らした。
金属の笛を鳴らすような甲高い音。
放射状に、空を赤い光が走る。
ずどん。
地上にぶつかった光が、轟音と共に建物をなぎ倒していく。
次々に飛んでくる火光をかわし、防ぎながら、中尉が攻撃を受けた位置まで移動する。
俺は眼下に山上中尉の姿を探した。
建物の影。
瓦礫の隙間。
ここだったはずだ。
この位置だったはずだ。
心臓の鼓動が早まっていく。
血を運ぶ音が、耳鳴りのように、体の奥で響いている。
鎌辺岬の夕闇。
赤と黒のコントラスト。
あの景色が、脳裏に蘇ってくる。
俺はひび割れた道路の上に、黒い点を見つける。
遮熱襲の黒だ。
黒い点に向かって、降下する。
「なんて顔してる。本当に阿呆だなお前は」
瓦礫の上に片膝を立てて、山上中尉は腰掛けていた。
手と頬に僅かな火傷の痕があったが、平然としている。
「このくらいで私は死なん。鍛えてるからな」
「……そうでした」
肩から力が抜ける。
この人はいつだって、いつも通りだ。
「通信機が死んだだけだ。だが」
中尉は止め具を外し、襲を外して片手に吊り下げた。
表面がドロドロに爛れ、いくつも穴が開いている。
「一撃でお釈迦だ。厄介だぞ」
対空警邏の命を守っている唯一つの盾。
攻性火光を受けた遮熱襲がここまで損傷するのを、俺は初めて見た。
冷たい汗が、背中を伝う。
飛獣の方角を見上げる。
無数の触手で、飛獣は全方位への攻撃を絶え間なく続けている。
八式の射程まで近づくことも難しい。
耳元で通信機が鳴った。
中佐からの音声信号だった。
予め設定された簡略な合成音声が繰り返される。
『座標S7ノ5、合流、一時後退。座標S7ノ5合流、一時後退』
俺と山上中尉は指定された座標で柊中佐たちと合流した。
そのまま低い高度を保ちつつ、飛獣の攻撃圏内から離れる。
飛獣は大きく移動する事無く、空中の一点に留まり四方への攻撃を続けていた。
まるで要塞だ。
地下に潜り、臨時拠点である装甲車の車内で作戦を立て直す。
「さて、どうする中佐」
予備の遮熱襲を着込みながら、山上中尉が言った。
柊中佐は黙して、思案に移る。
こちらの防備を一撃で破壊する収束攻撃と、接近を拒否する高密度の全方位攻撃。
選べる戦術は、少ない。
「敵の収束攻撃を誘発して、その間に側面から回りこもう」
「……囮作戦かよ。で、その大役はどなたに任せるんですか中佐殿」
犬飼少尉は腕を拱いて言った。
「俺は御免だぜ。死にに行くようなもんだ」
車内が、沈黙に包まれる。
山上中尉があの攻撃から生還したのは、強運だった。
あと数秒、火光の照射が長ければ。
あのまま空中で追撃を受けていれば。
地上に落ちるまでに飛行状態を立て直せていなければ。
どの要素が欠けても、中尉は命を落としていたはずだ。
誰かの命を掛銭にして、成立する作戦。
俺は柊中佐を見た。
こんな時、中佐がどうやって答えを出すのか、知っていた。
「ボクがやる」
戦いに対する自負や自信だけとは、きっと違う。
捧げること。
差し出すこと。
それは柊アリアにとってはずっと、当たり前の事なのだろう。
それが中佐の生き方なのだろう。
例えそれが自分の命であっても、躊躇は無い。
「大丈夫、上手くかわしてみせるから。ひらりひらりってね」
おどけるように手の平をはためかせながら笑う中佐を見て、俺は息が詰るような気がした。
「俺じゃ、ダメですか」
中佐は首を横に振って、怜悧な猟犬の目で俺を見た。
「任せられないよ」
重い断言だった。
返す言葉が無い。
俺が中佐よりも上手く出来る理由はどこにもない。
飛獣の正面で少しでも粘り続ければ、それだけ作戦の成功率は上がる。
囮役に人数を裂くよりも、攻手に一人でも多くを回すほうが、決着も早まる。
それだけ、この町の人の暮らしを守ることが出来る。
たった今も、飛獣は町を攻撃し続けている。
傷は広がっていく。
血は流れ続けていた。
全員が生き延びる可能性が最も高くなる方法。
対空警邏の意義を果たすための正解の手段。
俺がこんな意地を張る時間が、何よりも無駄じゃないのか。
納得するしかない。
でも。
だけど。
だったらこの人の心は誰が守るんだ。
「待って」
その声が、喉元から出てくるどうにもならない反論を遮った。
車内にいる全員が、声の主の方に顔を向けた。
声の主――高千穂曹長は毅然と、柊中佐を見据えていた。
「私にやらせて」
犬飼少尉が低く唸る。
「バカが。お前らそんなに浦賀の所に行きてえのか」
少尉は苛立ちを隠さなかった。
言うまでもなく、高千穂曹長にも柊中佐に勝るような制動能力や、特異な直感は無い。
「じゃあここで勝手に死ねよ。俺たちを巻き込むな。おままごとでやってんじゃねえんだぞ」
「違う!」
曹長が少尉を睨んだ。
その気迫は、捨て鉢さとは違う気がした。
「私なら生き残れる。生き残る方法がある。誰も死なせない」
自棄とも違う。
確信とも違う。
曹長の表情には、覚悟があった。
少尉は舌打ちし、中佐の方に視線を向けた。
中佐は測るように、高千穂曹長をじっと見ていた。
「聞かせて、カナン。キミのやり方を」
頷いて、高千穂曹長は静かに作戦を語りだした。
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