後方観測手は戦闘に参加した隊員が死傷した際にも作戦を続行するための予備人員でもある。

俺は浦賀准尉の武装を引き継いで、戦線に合流した。


准尉の八式と質量鉈は空中でも重く感じた。

生体揚力の影響下では感じないはずの重さ。

地上に引き寄せられる感覚。

その幻。

幻覚の重さを、俺は手放さない。

この重さを、飛獣あいつにぶつけて引き摺り下ろしてやる。

そう思った。


飛獣は夕方と夜の狭間の淡い藍色の中で、静止している。

その姿はサル型から出現直後に見せたハートの形状に戻っていた。

山上中尉との白兵戦で大きく損傷した飛獣は、突然攻撃を止めて変形し、ハートの形状に戻った。

その外殻は恐ろしく硬質で、至近距離で放たれた重針弓も突き刺さらない。

滞空能力も高く、質量槌の打撃を加えても、高度に殆ど変化はない。


つまり、この飛獣を落とすためには再び攻撃態勢を取らせる必要がある。

防御を解いた瞬間に一斉に攻撃を加え、押し切る。

飛獣が最初に変形を見せた状況を再現するための、包囲作戦だった。


中佐の合図で四方から飛獣を囲み、少しづつ、距離を詰める。

遮熱襲しゃねつかさねの下で、重針弓の握りを掴む手が、汗ばんだ。

間もなく、飛獣が八式の射程に入る。

その時、包囲の右翼――飛獣を挟んで俺の正面に位置していた柊中佐が、停止のサインを出した。


俺は空中に踏みとどまる。

上方を抑える山上中尉、下方の犬飼少尉も接近を止める。


中佐は青い瞳を細め、じっと飛獣を見つめている。

包囲の縮小をこの位置で止めた正確な理由は、恐らく中佐自身にも分かっていない。

ただ、隊の中で誰よりも多くの飛獣を沈めてきた、戦闘に対する直感がそうさせたのだろう。

そういう中佐の嗅覚は、隊の誰もが信用している。


空中で、十数秒ほどの静寂な時間が流れた。

パイプの隙間を夜風が流れ、ほう、と虚ろな音を鳴らした。


飛獣の中心に、黒い眼点がぬるりと浮かび、そのまま体表を滑るように右回りに一周し、溶けるように消えた。


俺たちを認識している。

意識している。

こいつは、俺たちが間合いに入るのを待ち構えている。

それが理解できた。

やはり、これまでとは何かが違う。


飛獣の行動原理はまず第一に地上の生物、建造物への攻撃であり、対空警邏への反撃はあくまでも障害排除の意味しかない。

それが研究家たちの見解であり、飛獣駆除の現場での前提でもあった。

実際に外部からの攻撃の無い状況では、飛獣は可能な限り移動し、ひたすらに機械的な地上への攻撃を繰り返し続ける。

この飛獣は出現以来、一度も地上への攻撃を行っていない。

動きを止め、間合いを見定めて敵を待ち構えている。

行動の根幹に、違和感がある。

こいつは一体、何なんだ。


一拍の間を置いて、柊中佐は『先行』のサインを出した。

空を蹴り、中佐が単独で飛獣との距離を詰める。

その飛行は遅くもなく、速くもない。

真昼に湖上を飛ぶ水鳥のような速さで、飛獣に向かっていく。


飛獣の体がめくれ上がり、再び長い節分かれした両腕が垂れ下がった。

損傷が消えている。

縮んだ胴体は元の長さに戻り、山上中尉との白兵戦で受けた破壊痕も無い。


その異常な変形は一瞬で完了する。

俺が八式の照準を合わせる間もなく、サル型に変じた飛獣は既に中佐の懐に飛び込んでいた。

挙動が更に素早くなっている。


赤い光を灯した左腕が、鞭のように振り下ろされる。

中佐は制動をかけると同時に、質量鉈の鎬で飛獣の一撃を弾き、いなした。

きん。

無機質な衝突音が空中に響く。


飛獣の右腕が、空気を切って水平に流れた。

遮熱襲に守られていない、頭部への追撃。


紙一重に仰け反り、中佐は光の爪をかわす。

光を掠めた銀色の髪の先端が微かに焼けて、黒い塵に変わって消えた。


黒いガラス球のような眼点が、サル型飛獣の胴体に現れる。

漆黒の円に攻性火光の赤い波紋が浮かぶ。


しかしその発射よりも僅かに速く、回避の勢いを乗せた柊中佐の蹴りが、飛獣の腹を捉えていた。

飛獣は衝撃に吹き飛ばされ、軌道の反れた赤い光が地上で炸裂した。


制御を失った飛獣の軌道は斜め下方。

既に犬飼少尉は真っ向にその軌道を捉え、突進している。

交錯の瞬間、犬飼少尉が抜刀した。

重金属の鈍い黒色の輝きが、閃いた。

サル型飛獣の左腕が切断され、空中でくるくると回転した。

犬飼少尉は憎憎しげに舌打ちする。


飛獣には二つの種類がある。

翼や羽を用いて空気力学的な方法で飛行するもの。

そして反重力種アンチグラビティと同じように、生体揚力バイタル・リフトによる飛行能力を持つもの。

この飛獣は、明らかに後者の存在だった。


飛獣の構成体をどれだけ切除しても、本体の駆除には至らない。

生体揚力を得ている揚力核を破壊するか、地表に接触させる必要がある。


飛獣の速度が低下し、制御が回復する。

残った右腕がそれ自体別個の生物のように蠢き、伸縮した。

赤い光の爪が、交錯の勢いで飛獣に背を向けたままの犬飼少尉へと迫った。


がぎっ。

真横からのインターセプト。

山上中尉の質量槌が飛獣の手の甲を弾いた。

そのまま回転の遠心力をつけて、飛獣の胴を横薙ぎに殴りつける。


飛獣の白い外殻がひび割れ、破片が舞った。

地面と平行に、飛獣が吹き飛ぶ。


それに追従するよう、斜め上方の位置関係を保ちつつ、俺は八式の狙いをつけた。

とどめには絶好の状況。


まだだ。

まだ撃つな。

高速で敵を追従しつつの射撃は、経験の浅い俺にはまず当てられない。

飛獣の速度が低下する、そして飛獣の制動が回復する。

切り替わるギリギリを見極め、僅かな静止の瞬間に重針弓を打ち込む。

それが最善の方法となるはずだ。


プロペラのような錐揉みの回転と共に、飛獣の速度は低下していく。

俺の指先が重針弓の引鉄にかかる。

落ちろ。


がん。

放たれた黒い銛が、飛獣の頭部を貫き、そのまま地上へと叩きつける。

はずだった。


銛は飛獣を捉えず、地上のコンクリートを砕いただけだった。

外した。


飛獣の黒い瞳が、真下から俺を見た。

白い腕が、俺と飛獣を結ぶように、真っ直ぐに伸びて、こちらに向かってくる。

かわす事も、弾き返す事も、防ぐ事も、もう間に合わない。


世界の全てが静止したような感覚。

果てのない闇の中に、この世界で自分だけが吸い寄せられていくような、孤独な感覚。

一度だけ味わった事のある感覚。


死の感覚。


静止した世界の中で、手元の重針弓の重さだけが浮かび上がってくる。

幻覚の重さ。

ここに無いはずの重さ。


それは反芻だった。

俺の手の中で体温を失っていく、浦賀准尉の重さ。

その反芻が、今も俺の腕の中にあった。


俺は准尉の重さを手放さない。

手放すわけにはいかない。


赤い爪が、俺の遮熱襲の間隙に滑り込んだ。

かさねの下で熱が服と肌を焼き切る感覚を味わいながら、俺は体を真横に滑らせる。


熱の塊が肉を抉りながら、左脇の下を通り抜けた。

そのまま片腕で飛獣の腕を抱え、しがみ付く。

激痛に奥歯が軋む。


手放さない。

手放すわけにはいかない。


飛獣の腕が縮む。

飛獣の本体が急速に迫ってくる。


飛獣と俺は直線で結ばれている。

この距離なら、片腕でも外さない。

俺は八式の引鉄を、もう一度引いた。


がん。

サル型飛獣の頭部を、放たれた銛が貫く。


飛獣の腰部分に、真横の亀裂が走った。

突き刺さった銛ごと、飛獣の上半身が切り離され、地上に落下していく。

抱えた飛獣の腕がすり抜け、地面に落ちていく。


ダメージコントロール。


空中に残った飛獣の下腹部が変形し、大顎のように伸びて開いた。

その奥に、赤く光る揚力核が見える。


大顎に沿うように、攻性火光の色が一斉に灯った。

まるで牙だ。

光の牙が、俺の体を両側から挟み込んだ。


収束された攻性火光と遮熱襲の表面がぶつかり、火花を上げた。

熱を防いでも、飛獣の大顎は万力のように俺を締め付けてくる。

抜け出すことが出来ない。


耳の奥で、自分の骨が軋む音を聞いた。

押し潰された肺の空気が喉から吹き出して、悲鳴となって口から漏れ出ていく。


まだくじけるな。

せめて最後まで、立派にやるんだ。

何か出来る事を考えろ。


俺は片足を曲げて、飛獣を蹴ろうともがいた。

飛獣は微動もしない。


ごきりと、左肩が外れる音がした。

せめて最後まで、やるんだ。


俺は叫びを上げた。

もう一度飛獣を蹴るために反動をつける。


がす。

と、黒い何かが、飛獣の体側に突き刺さった。

それは鈍い輝きを放つ金属の刃だった。


「お前は」


体勢を崩した飛獣を踏みつけにしながら、突き刺さった質量刀の柄を犬飼少尉が掴んでいた。

その表情は、今までで一番不機嫌に見えた。


「死ね」


少尉が質量刀を振りぬいた。

大顎は根元から抉り切り裂かれ、剥き出しの揚力核だけが晒される。


俺は右腕に残された力の全てを使って重針弓を持ち上げる。

照準を合わせた。

引鉄を引いた。

黒い銛が、揚力核を貫く。

飛獣は地上にぶつかり、灰に変わって砕けた。


「……真鍋、撃墜ヒト」


俺は右腕に、浦賀准尉の八式を抱えた。

俺はこの重さを、忘れない。

ずっと忘れたくなかった。


浦賀准尉が死んだ。

俺はその日、飛獣と初めて戦った。

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