丙
「ハァーッ……」
「フゥッ……」
「ハァーッ……」
「フゥッ……」
「ハァーッ……」
「フゥッ……」
「ハァーッ……」
「フゥッ……」
「ハァーッ……」
「……やめだ」
支局に戻って真っ先に施設内のトレーニングジムに俺と山上中尉が駆け込んで、2時間近くの時間が経っていた。
加速する乳酸のボルテージが最高潮に達さんとしたその時、突然山上中尉、もとい師匠は俺のベントアームプルオーバーに突然ストップをかける。
「俺は……まだやれます」
確かに俺の上腕筋は限界を迎えつつあったが、その臨界点を超えてこそ真の新たなる筋肉を得ることが出来る。
無論、駆け出しの俺よりも遥か高みに立つ
「そうじゃない、これ以上はベストではないと判断した。一度頭と筋肉を冷やせ」
俺は差し出された常温の水で喉を潤しつつ、その言葉の意味を考える。
筋肉は嘘を吐かない。
鍛えれば鍛えるだけ応えてくれるのが筋肉の素晴らしさだ。
今日持ち上げられなかった重さが、来週には、来月には持ち上げられるかもしれない。
俺はその実感的成功体験に取りつかれるように、この半年間中尉の下でトレーニングに打ち込み続けた。
「真鍋伍長、上腕筋も、僧帽筋も、後背筋も、三角筋も、入隊直後とは見違えるほどに成長したな。私は素直にそれを喜びたい」
だが、と、そこで師匠は残念そうに言葉を切る。
眼鏡の下の眼差しが鋭く光った。
「お前は何かから目を背けるためにトレーニングに打ち込んでいる気がする」
ぎくり、と、図星に背筋が固まった。
やはり師匠ほどの
「迷いのある鍛え方では本当のリアルな筋肉は得られない。話してみろ、伍長。無理強いするつもりも無いが」
ずっと、目を背けていた、向き合わなければならない問題。
俺は半年前、犬飼少尉と交わした言葉について、山上中尉に話した。
柊中佐と浦賀准尉、高千穂曹長。
飛獣と戦うべく、確かな動機や理由と共にこの場所にいる、『あちら側』。
そして流されるままにここにやってきてしまった『こちら側』にいる俺。
死ぬのは奴らに任せろ、と、犬飼少尉は言った。
今も棘のように刺さったその言葉が、俺の中から消えていない。
「俺は、ここにいていいんでしょうか」
ずっと、それが気になっていた。
納得できていなかった。
俺は准尉たちの仲間になれない。
ただ死ぬことは出来たとしても、命を擲てる覚悟なんて、きっと持てない。
そんな人間が、彼らの仲間面をしているなんて、何かが間違っている。
俺たちは、違うんだから。
「お前は阿呆だな、伍長」
呆れ返ったように、中尉が呟く。
そのままため息混じりに、空のペットボトルを手元でぺきぺきと絞って潰した。
「犬飼の奴が阿呆なのは前々からだが、お前も同じタイプだとは……」
中尉は俺に向けて腕を突き出し、人差し指を立てた。
「中佐も浦賀も高千穂も、自殺志願者ではない。あいつらを履き違えるな、軽んじるな。いつか命を擲つなんて、前提にするな」
眼鏡の奥の瞳は、戒めるような、静かな怒りを湛えていた。
「もう一つ」
中尉は二本目の指を立てた。
「飛獣がわざわざ覚悟のある人間とそうでない人間を分けて攻撃してくれるとでも思っているのか?」
言葉に詰まる。
中尉の言葉は、全うだ。
「飛獣の行動原理について我々が理解できているのは、あれが地上の存在を攻撃すること、次いで、それを邪魔する存在を攻撃すること」
中尉は手を引っ込め、泰然と腕組みする。
「つまるところ、たったのそこまでだ。覚悟があろうが無かろうが、我々に出来るのは正体不明の存在への後手対応。誰から死ぬかなんて、その瞬間まで誰にも分からん。
まぁ、と言葉を切って、彼女は天井の明かりを見上げた。
「私は誰よりも体を鍛えているので最後まで生き延びるだろうな。言っておくが本気だぞ」
念押しされるまでもなく、俺は分かっていた。
きっと、この人に冗談のつもりはない。
心の底からそう信じている。
「今は迷わず鍛えておけ。お前自身のためにも、隊の仲間のためにも、邪魔にはならん。多分な」
立ち上がり、丸めたペットボトルの残骸を綺麗なバスケットボールのシュートのフォームでジムの隅のゴミ箱に放り込み、10分休む、と言い残してベンチの上に中尉は寝転がって目を閉じた。
柊隊の中で、山上中尉は誰よりも戦士だった。
この人は、戦いの中でも、日常の中でも揺るがない。
俺もこうなれるのだろうか。
なるべきなのだろうか。
それはとりあえずもう少し体を鍛えてみなければ分からないのかもしれない。
それから更に1時間ほど、じっくりとウェイトを終えてふらつく足取りでジムを出ると、時刻は19時を過ぎていた。
食堂は既に閉まっている。
何か食べて兵舎に戻ろう。
出来る限り良質のタンパク質を含む感じのものを。
そんな事を考えながら廊下を歩いていると、ジムの入り口の前の長椅子に座っている人影が目に付いた。
浦賀准尉だった。
准尉は背もたれに体重を預けて、すーすーと寝息を立てていた。
よく見ると唇の端によだれまで垂らしている。
熟睡だ。
俺は一瞬躊躇したが、指先で准尉の肩をとんと叩いた。
「ぁぃはっ!?」
長椅子の上で、准尉はコメツキムシの如くに飛び跳ねた。
年上の上官の女性に対してこんな感想を抱くのは本当に忍びないし本当に申し訳なく感じているけど、やっぱりこの人は面白いと思う。
「真鍋伍長……ええと、おはようございます?」
寝ぼけまなこをしぱしぱさせながら、唇の端を拭って素っ頓狂な事を言う浦賀准尉。
うーん、面白い。
こういう浦賀准尉を、俺は何時間でも眺めていられる気がする。
「山上中尉ならまだ中にいますよ」
考えてみれば中尉だって、昼間の戦闘の疲労は相当に溜まっているはず。
准尉がこんなところで眠っていたのも、そこが理由だろう。
山上中尉の体力が余りにも異常なのだ。
「いえ、山上中尉に御用があったわけではなく」
続きを言いづらそうに、浦賀准尉は目を逸らした。
そして一拍置いて、決心したようにこちらを見た。
「真鍋伍長に、お話があるのです」
トレーニング終わりで気が抜けていた事もあり、俺は力なく、はぁ、と返事をした。
急に話といわれても、心当たりがさっぱり無い。
「先ほどのお話、聞かせていただきました。盗み聞きをするつもりは無かったのですが……」
ぎくっと、緊張が背筋に走った。
恐らく、准尉はジムの中での山上中尉との会話を指して言っている。
俺の浦賀准尉や高千穂曹長への感情は、隠し立てしていたつもりもなかったが、本人を前にして言えるような事でもない。
簡単に言えば、気まずかった。
准尉の方も気まずそうに目を泳がせている。
重たい空気が流れる。
「犬飼少尉の言われた事は、確かに、事実です」
やがて、ぽつりぽつりと准尉は語りだした。
「私やカナンは、飛獣災害で家族を亡くしてここに来ました」
けれど、と、准尉はこちらを見据えた。
「私たちは、命を捨てにこの対空警邏にやってきた訳ではありません。ただ、飛獣の出現によって私たちと同じ気持ちを味わう人がこの町に増え続けていくのを想像したら、それが……」
浦賀准尉は俯き、膝の上の手を固く握った。
はっとした。
その先の答えを、俺はもう知っている。
「嫌だったんです。ただ、それだけです。カナンも同じなんです」
嫌だった。
成り行きの先を、想像して、想像の行き着いた果てにある景色が嫌だった。
だから、やらなければいけなかった。
くっと、息が詰まるような、心臓を握られるような気分がした。
「ですから、その、何を言えばいいのか」
しどろもどろになりながら、准尉は続けた。
「カナンと仲良くしていただきたいのです。あの子は、周りの人と仲良くなるのが下手で。でも本当は優しい子で、それと……」
浦賀准尉は段々と早口になりながら、顔を赤らめていた。
「出来ることなら、私とも」
その言葉を最後に、失礼します!と大声を挙げて准尉は速歩きで廊下を去っていった。
俺はその背中を見送ってから、准尉の座っていた長椅子に腰を下ろす。
両頬に手をやり、そのままぐにーっと、顔の皮膚を下に伸ばした。
そのまま消えてしまいたいくらい、自分が恥ずかしかった。
他人から勝手に聞いた話で、勝手にその人を想像して、勝手に線を引いて、自分とは違うと、勝手に決め付けて。
それはとんでもなく、どうしようもないくらいに、失礼だ。
当たり前のことなのに、気付くのが遅かった。
半年もかかって、遅すぎる。
でも、どうにか手遅れにはならなかった。
俺にはまだ時間がある。
浦賀准尉にも、高千穂曹長にも、犬飼少尉にも、山上中尉にも、柊中佐にも、まだ時間がある。
きっとこれから取り返せる。
俺はこれから、彼らと向き合おう。
あの時と同じだ。
半年と、ひと月前、あの廃ビルの中で走り回った日。
俺には自分の馬鹿なミスを取り戻すために、しなければいけないことが沢山ある。
そのための時間は残されているはずだ。
残されていて欲しい。
次の飛獣が現れたのは、その五日後だった。
燃えるような夕日が、絡み合うパイプたちが織り成す複雑怪奇なシルエットを、地面に落とす。
ひび割れはそんな景色の中に、忽然と浮かんでいた。
『どうなってんだよ、全く』
廃煙突の頂上に座って、犬飼少尉が呟いた。
『どう考えても多すぎる。一週間も経ってねえんだぞ』
「そんなこと、俺にぼやかれても困ります」
『お前の意見なんて求めちゃいねーよ。独り言だ』
「じゃあわざわざ回線繋がないでください」
『暇なんだから、しょうがねーだろ』
いよいよ、東京も終わるんじゃねーの。
そう続けて、からからと犬飼少尉は笑った。
少尉以外の四人も、それぞれに等間隔な距離を保ちつつ空中や、建物のてっぺんに立って、ひび割れの監視を続けている。
今回のひび割れが現れてから、既に40時間ほどが経過していた。
統計上、出現から飛獣を吐き出すまでに時間のかかるひび割れほど、巨大な飛獣の前触れであるというのが通説だった。
隊の誰もが、犬飼少尉も、柊中佐でさえ、緊張していた。
バキッ。
ひび割れが急速に拡大する。
赤い空の裂け目が、恐るべき速さで枝分かれし、広がっていく。
「ひび割れ、急速に発達。各員戦闘配置をお願いします」
俺は出来る限り平易な声に聞こえるように、通信を送る。
五人の影が建物から離れ、空中に飛び立った。
裂け目が現れ、灰色の砂嵐の世界――飛獣の世界が垣間見える。
その中から現れたのは、曲線で象られた3mほどの白い無機的な飛獣だった。
その姿は、赤と黒のコントラストで塗りつぶされた景色の中に現れた、白いハートマークだった。
『思ったより、小さいじゃない』
どこか安心したように、高千穂曹長が呟いた。
柊中佐は無言で隊員たちにハンドサインを送り、攻撃を仕掛けられる姿勢を取りつつ、包囲の輪を狭めていく。
あと三秒ほどで、飛獣が重針弓の射程に入る。
その時、ハート型の飛獣の体表に亀裂が走った。
飛獣の体が裏返るように、変形した。
それは頭を潰された、腕の長い猿のような姿だった。
醜い天使に見えなくもない。
何かがおかしい。
こんな行動を起こす飛獣は、どこにも聞いたことが無い。
しかし出現ごとに全く姿形がランダムな飛獣の行動においては、前例の無い動きも珍しくはない。
消滅するまで人間には意味不明の行動を取り続ける飛獣もいる。
意味が分かったときには遅い。
だから先手を取って落とす。
それが常に対空警邏のセオリーだった。
サル型の飛獣の胴体と一体化したなだらかな頭部に、黒い目玉がぬるりと浮かび上がる。
八式重針弓の、射程に入った。
柊中佐と浦賀准尉。
二つの銃声が同時に響いた。
黒い金属銛が、交差するようにサル型飛獣へ向けて飛来する。
それと同時に近接兵装を得意とする高千穂曹長と犬飼少尉、そして山上中尉が三方向から敵の回避ルートを防ぐように飛び、後を詰める。
単体の飛獣に対する、柊隊の基本戦術だった。
五方向からの攻撃に、対して、サル型飛獣は地面に向かって急降下した。
隊員全員の対応が、困惑にワンテンポ遅れる。
下方向への回避行動を取る飛獣は、かなり少ない。
それもある程度重量を付与された大型の飛獣が高度を自ら下げることはあっても、無傷の飛獣が自分から地表近くまで高度を落とす姿はまず見られない。
サル型飛獣は、そのまま角度をつけて、跳ね上がるように真っ直ぐ、左斜め上方に飛んだ。
最初からそう動くのが決まっていたかのように、全ての動きが滑らかな接続で繋がっている。
浦賀准尉が、一瞬驚きに固まりつつも、急速に後退しつつ直進で向かってくる飛獣に狙いを定めた。
飛獣も凄まじい速さでそれに追いすがる。
がん。
銛が放たれた。
交錯するように、飛獣の腕が伸びた。
腕の先端に、赤い光がともった。
夕日の赤とは違う、鮮やかな血のような紅色。
攻性火光の赤だった。
飛獣のわき腹に黒い銛が突き刺さり、衝撃と重力が飛獣を地面に向けて加速させる。
その落下スピードを超えて白い腕は柔軟にしなり、折れ曲がった。
遮熱襲の隙間に、飛獣の赤い光の爪が捻じ込まれた。
俺は観測台の鉄柵を蹴って、空中に飛び出していた。
高千穂曹長が何かを叫ぶ声が聞こえた。
俺はその声を聞きながら、記憶を呼び起こす。
七ヶ丘の廃ビル。
壁の穴。
風船飛獣。
速く飛べ。
もっと速く。
もっと速く。
もっと加速してくれ。
飛獣が廃墟の一つの屋上に激突し、土煙をあげた。
その中を浦賀准尉が、落ちていく。
俺は空中で准尉を受け止め、そのままの勢いでコンクリート作りの建物の屋上を転がった。
衝撃に、意識が吹き飛びそうになる。
コントロールしろ、俺の体だけが地面にぶつかるように最後まで飛べ。
三度跳ねて、俺は屋上の縁の金網にぶつかった。
全身に痛みがある。
そんなの忘れろ。
俺は彼女の体をゆすった。
彼女の名前を呼んだ。
何かに祈ろうとした。
生温かい液体が、指先に染み込んでいく感触がした。
それと引き換えに、准尉の体から温かさが失われていった。
浦賀准尉が、死んだ。
何かの影が、准尉の横顔に当たる夕日を遮った。
夕焼けの逆光の中で、飛獣が浮かんでいた。
その胴体はさっきよりも短く縮んでいる。
突き刺さっていた銛は無い。
俺は言葉に出来ない何かを叫んだ。
許せなかった。
こいつをバラバラにしてやりたいと思った。
光の爪が、再び飛獣の腕の先に現れた。
俺は准尉の体に覆いかぶさる。
こいつに准尉をこれ以上傷つけさせたくなかった。
黒い弾丸のように、飛獣の真横から突進してくる影があった。
質量槌を振りかぶった山上中尉が、飛獣に迫った。
ばぎっ。
間合いに入る直前、飛獣が僅かに上昇した。
質量槌の一撃は打ち上げる角度になり、飛獣は吹き飛ばされた勢いのまま屋上から離脱する。
山上中尉が准尉の姿を見た。
静かに眠るような横顔を見た。
俺は縋るように山上中尉を見た。
「後は任せろ」
中尉は上空の飛獣を睨み、再び突進した。
空中の激突音が、一つごとに遠ざかっていった。
工業プラントの管理施設だった建物の影に、俺は准尉を寝かせた。
高千穂曹長は、准尉の傍で泣き続けている。
2人はいつも一緒だった。
彼女は俺よりもずっと、浦賀准尉のことを知っている。
俺は高千穂曹長にかける言葉が見つからず、それを見ているだけだった。
犬飼少尉は准尉を一瞥するなり舌打ちし、それっきり離れた場所で壁にもたれて座り込んでいる。
山上中尉は建物上空で飛獣の動きに睨みを利かせている。
「攻手を再編成しよう」
全員が一箇所に揃い、数十秒の沈黙が流れた後、柊中佐が口を開いた。
その声に、山上中尉が地面に降りる。
「もう一度、立体包囲で行く。相手はダメージコントロールを備えていると推測できるから、八式よりも質量刀と質量槌による対処を優先しよう」
地面の砂に、質量鉈の峰で図が描かれる。
「天が山上中尉、犬飼少尉は地、ボクは右翼」
そこで言葉を切り、柊中佐は俺と高千穂曹長の方を見た。
曹長はどう見ても、『スイッチ』を入れられる精神状態ではない。
「左翼は……」
「俺がやります」
中佐の言葉を、引き継いで言った。
犬飼少尉と山上中尉も、俺の顔を見た。
「左翼は俺にやらせてください」
柊中佐は、無言で頷いた。
俺は自分が何のためにここに来て、何のためにここにいるかなんて、全然分からない。
半年の間、結局全然分からなかった。
でも、それでも。
浦賀准尉はもういない。
高千穂曹長はずっと泣いている。
今この瞬間に何もしないのは、嫌だった。
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