翌日、AM6:30。

俺は若干の寝不足を感じつつも、遥か高くにあるコンクリート作りの天蓋を見上げる。

今朝からはじめて着込んだ軍服の襟元が少しきつい。


反重力種アンチグラビティ』用の演習施設は、支局の最下層、地下22階に存在する。

飛獣の作り出す多様で予測困難な三次元的戦闘状況を可能な限り再現するために建設された、広大な人工芝のドーム空間。


「それでは真鍋伍長、これより標準支給装備についての基礎レクチャーを行います。技術戦略室長の美並ハル空士です」


三十半ばの眼鏡の女性士官は抑揚の無い声色で一息に言い切った。

俺と美並室長の間には、金属製の台の上に対空警邏の携行武装がずらりと横並びに寝かされている。


斧、槌、大太刀、槍、盾、差又……。

重針弓は片手で持てるサイズのものから、どうやって個人が取り回すのかも分からない大砲のようなものまである。


反重力種アンチグラビティの戦術的意義の中で最大といえるものは、民間居住区の頭上で火器を使用する事無く、それ以上に有効な攻撃手段を飛獣に対して持ち得るという点です」


黒く無骨なフォルムの手持ち装備を見下ろしながら、美並室長は続ける。


「それを最大限活用する手段が即ち、質量兵装なのです」


美並空士はしゃがみこんで、台の上の重針弓の一つを指し示す。


八式はちしき……正式名称は八式携行重針弓改改はちしきけいこうじゅうしんきゅうふたつあらため。八式はあらゆる対飛獣戦術の要となる、全ての装備の中でも二番目に重要な兵装です。持ち上げてみてください」


促されるままに、八式のベルトに腕をかけ、思いっきり背筋を伸ばして引き上げる。


全く持ち上がらない。

奥歯を折れんばかりに噛み締めてみても、八式は1mmさえ地面から浮き上がる気配を見せない。


「装弾状態で650kgの重量があります」


そんなに。

つまりそこら辺の軽自動車並みの重さだ。

これを抱えて動き回るなんて、自前の陳腐な想像力ではちょっとイメージが掴めない。


「うぎ……ぎぎぎぎぎぎ……」


「あの」


顔を真っ赤にしながら一心不乱にベルトを引き上げようとしていると、美並室長がこちらの顔を気の毒そうに見た。


生体揚力バイタルリフトを使ってください」


生体揚力バイタルリフト』……『半重力種アンチグラビティ』だけが持つ、肉体とそれに接触するものを浮き上がらせる力。

それが自分にも備わっている事が、完全に頭から消えていた。


「本来政府の事前許可の無い反重力種アンチグラビティの飛行は犯罪行為ですが、言うまでも無くこの訓練場内では常に許可が降りていますので気兼ねなくどうぞ」


「そこを気兼ねしてたわけではないんですが」


ともかく、俺はベルトに手をかけたまま目を瞑り、『あの時』の風景を瞼の裏に呼び起こす。


霞雲の漂う青い空。

七ヶ丘の廃ビル、五階の壁の穴。

風船のような飛獣。


足元の地面に接する感覚が無くなり、腕にかかった重量も消えていく。


反重力種アンチグラビティとなった、あるいは生まれついた人間がその生体揚力を発揮するには、それぞれに異なる心理的なスイッチが必要であるそうだ。

それは右手首を二回振る、頭の後ろを掻く、手のひらで自分のひざを打つといった、直感的、本能的なちょっとした仕草であったり、特定の言葉をつぶやく、指で文字を空中に画くといった、本人の理性との対話であったりもする。


俺のスイッチは、これだった。

初めて飛んだときの記憶の景色、それを出来るだけ正確に準え思い描くこと。

これは後天的に目覚めた反重力種としてはオーソドックスな方法だと聞いた。


目を開くと、足元から地面は1m近く離れていた。

それでも昨日よりはずっとマシなコントロールになっている。

手元に吊り下げた重針弓の重さは感じない。


「個々人の体調や精神状態にも左右されますが、反重力種アンチグラビティ一人で約1t程度の質量を空中で支えることが出来ます。この質量が、我々の飛獣に対する優位に直結します」


こちらと手元のカルテを見比べながら淡々と美並室長が言う。


その後、俺は様々な武器をとっかえひっかえ持たされた。

飛獣の翼を切り落とすための質量鉈や、質量斧の類。

直接殴りつけてその運動エネルギーで飛獣の高度を無理矢理下げる質量槌。

金属杭を打ち込み、大質量の付与と構成体の破壊を一手で行う貫徹機構。


「最後に……これが最も重要な装備です」


室長が差し出してきたのは、黒い外套だった。

カラスの羽のように、光の角度で微かに緑がかる鈍い黒。

遮熱襲しゃねつかさねの黒は、東京の誰もが知っている、対空警邏の黒だ。


「真鍋伍長の体格に合わせて採寸された一点ものです。遮熱襲しゃねつかさねに、共通の規格品はありません」


受け取り、身に纏うと、羽のように軽い外套に、肩にずしりとくるような重さがあるように思えた。


「飛獣の主攻撃能力である攻性火光こうせいかこう。その直撃を耐えうる、この世で唯一の防備です。命を護る鎧であり、盾。この装備の使い方に、何よりも習熟してください」


そこで美並室長の視線が、微かに俯いた。

彼女はこれまでに何度、何人の隊員に、この説明をしてきたのだろう。

その中の何人が東京の空から堕ちたのだろう。

そんな想像が、ふと浮かんで、言葉が詰まった。


「いたーーーーー!」


静寂を破ったのは、聞き覚えのある叫び声だった。

見ると、訓練場の出入り口の方向から、手を振り駆け寄ってくる人影が見えた。

柊アリア、もとい、柊中佐だった。

息を切らし、銀色の髪をたなびかせて芝の上を走る姿は、やはり犬っぽい。


「おはよう!ハルさん!マグ!」


ずさーっと、砂煙を巻き上げ急停止し、中佐はにこやかに俺たちに敬礼した。

俺も緊張に背筋を伸ばし、ぎこちない敬礼を返す。


「中佐、いかな用件ですか」


美並空士はいたって冷静に、人差し指で銀ふちの眼鏡を持ち上げた。


「まさかとは思いますが、真鍋伍長へのレクチャーを監修するなどという名目で、職務をサボりにきた、という事ではないでしょうね」


中佐は舌を出して、うえー、という顔をした。


「違うよー!マグにも勘違いされるからやめてよハルさん!ハルさんっていっつもこうなんだよ」


「ハルさんではなく室長です。それに勘違いと言われるような的外れの行動予測ではありません。経験則です」


唇を尖らせる中佐に美並室長はぴしゃり、と言った。


「違う!今回はほんとに違うってば!」


中佐は懐から手のひらに収まる紺色の巾着を取り出し、室長に両手で差し出した。


「はい!ハルさんに!」


そしてまた、人懐っこく笑った。

室長は最初のうち、巾着を訝しげに見ていたが、やがて何かに気付いたように、どこか照れくさそうにそれを受け取った。


「誕生日おめでとう!ボクはちゃーんと、覚えてるよ」


中に入っていたのは、小さな砂時計だった。

透き通ったガラスの中で、宝石のようなココア色の砂がきらめいている。


「仕事サボって来たのは……本当だったりして。じゃあね!」


そのまま、中佐はこちらに手を振りながら走り去ってしまった。


「……奔放な英雄ですね」


「全く、みんな困ってます」


その背中を見送る美並空士の唇の端が、僅かに綻んでいた。

この場所で、柊アリアはどんな存在なのか、少し分かった気がした。


武装と戦術の基本レクチャーを終える頃には、時刻は正午を回っていた。

今後も訓練期間である半年の間は、ほぼ毎日みっしりと講習の時間が用意されているらしい。


分厚い何冊ものマニュアルで重たい書類鞄を片手に、俺は建物内をあっちこっちに迷いながら、なんとか食堂までたどり着いた。


券売機に400円を投入してチキンカツとサラダのA定食を買い求め、座れる場所を探していると、テーブル席に付いている浦賀准尉と高千穂曹長の姿が目に付いた。


声をかけると、浦賀准尉はこちらに気付き、快く席を空けてくれた。

高千穂曹長は歯を剥き出しにして向かいの席からぐるると唸りを上げている。


「講習の初回は恙無く終了したようでありますね真鍋伍長。何よりです」


准尉の慈愛に満ちた笑顔に癒される。

これまで18年間、欠かすことなく可愛い妹を可愛がり続けて来たが、ここに来てお姉さん的女性もいいなという気持ちがこの浦賀准尉のお陰で芽生えつつある。


「なんかキモい顔してる!その顔やめなさいよ!」


横からキーキー言ってくるこの高千穂曹長は、准尉とも、言うまでも無く俺の妹とも比較するのもおこがましいほどに可愛げがない。


「人がどんな顔してようが勝手じゃないのか曹長どの。カレーにハンバーグを乗せてオレンジジュースまで頼んでおいて、どの口で子ども扱いするなとか言ってるんだ、お子様ランチ女のくせに」


「はぁーっ!?人が何頼んで食べようが勝手でしょ!」


「いえいえ、素敵な昼食セットだと思いますよ曹長どの……旗も立てますか」


「今馬鹿にしてるでしょ!あんた絶対馬鹿にしてるでしょ!」


「こら!やめなさい二人とも!ケンカは軍規違反です!」


立ち上がり飛び掛らんとする勢いをつける曹長に、こちらも身を乗り出したところで准尉の仲裁が入る。

しかしこのガキはいつか泣かせたい……。


己の中の怒りと憎しみを制するために、柊中佐について、気になっていることを准尉に聞いてみる。

技術戦略室長と柊中佐の2人は、どういった関係の人物なのか。

質問自体が不可解そうだった浦賀准尉に今日あった事のいきさつを話すと、准尉は得心したように頷いた。


「柊中佐は、誰に対してもそうする方ですよ。この施設の局員全員の記念日を覚えているとも聞いたことがあります」


「……それって、何人くらいなんですか?」


「500人弱、といったところですね。あの砂時計、全て中佐の手作りであるとか」


気が遠くなる答えだ。


「あたしも貰ったことあるわ!砂時計!緑色のとっても綺麗な砂時計よ!」


にやーッと満悦とした笑みを浮かべながら、テーブルの下で足をぱたつかせながら曹長が言う。


「あんたは多分貰えないわ!貰えても使い捨ておしぼりとかよ!」


「なんだその悲しいプレゼントは……そんなんだったらいっそ何も渡さずにいてほしいわ……」


例の輝く様な笑顔で使い捨ておしぼりを差し出してくる柊中佐を思い浮かべ、脱力する。


「お前、新入りか」


気が付くと、テーブルの傍に枯れ木のような男士官がこちらを見下ろしていた。

目の下に黒い隈を浮かべた青年士官は、片手に持った紙カップのコーヒーを、俺から視線を離さずにずずと啜った。

その視線はどこか、穿ち抉るような湿り気と鋭さがある。


「犬飼少尉」


隣に座っていた浦賀准尉が呟いた。

高千穂曹長は無言のまま憮然と青年士官を睨む。

和やかな空気とは、ちょっと言いがたい。


「こいつ、借りていいか」


「……問題ありません」


准尉は一度口の中にこみ上げた言葉を飲み込んだように見えた。

犬飼少尉は顎をしゃくって席を移動するように促す。


俺は促されるまま席を離れ、少尉と共に食堂隅のテーブルに移る。


「犬飼チヒロだ。お前、今日から配属だってな。聞いてるよ」


席に座りながら、犬飼少尉はまた俺の顔を見ながらコーヒーを一口啜った。


「あ、はい。真鍋マグです……階級は三曹、伍長であります」


「そうか、真鍋伍長。お前、あいつらとつるむのはやめとけ」


あいつら、というのは。

ぼやけた質問を鸚鵡返ししそうになって、思いとどまる。


「浦賀准尉と高千穂曹長ですか?」


分かってるじゃねえか、と、カップを片手で突き出して、少尉はニヤッと牙剥くように笑った。


「ぼやぼやしてると、取り込まれるぜ」


言葉の意味が、よく飲み込めない。

やれやれという風に頭を振って、犬飼少尉は続けた。


「あいつらは、飛獣に親兄弟を殺されてる」


少尉は子供に言い含めるような口調で告げた。


「柊中佐も捨て子の身の上で、元々政府の施設暮らしなのは知ってるか?人と少し違って生まれたってだけで、こんなとこに好き好んで誰が来たがる?」


「それを俺に聞かせて、何か意味があるんですか」


口を付いて、話を遮る様に言葉が出た。

これから少尉が語る本題が、いかに重要な話でも、浦賀准尉や柊中佐の大切な部分であろう場所に、土足で上げられるのは、嫌だった。


「大有りだろ。命に関わる話だぜ」


悪びれるような素振りも無く、犬飼少尉は俺をにらみ付けた。


「つまり、あいつらは飛獣を殺して、飛獣に殺される。そういう腹を決めて、最初からここにいる」


少尉はテーブル越しに俺の肩に手を伸ばして、掴んだ。


「俺たちは、違うよな」


そしてまた、牙を剥き出す様に笑った。


「一目で分かったぜ。お前は俺と同じタイプだ。生きることには何不自由無かったのに、ろくな覚悟もないまま流されてここに来た。そうだろ?」


「……」


否定できない。

少尉の言う通りだった。


その無言の肯定に、少尉は満足したように手を引っ込めた。

そして身を乗り出し、俺の耳元に顔を近づけた。


「せいぜい俺たちは助け合って生き延びようぜ。死ぬのはあいつらに任せてな」


そう、囁いた。

席から立ち上がり、少尉は卑屈そうに笑った。


「実のところ、心細かったんだよ。この局で実働に出るのは浦賀に、高千穂、柊中佐、あと山上のやつ、それと俺。俺以外はまともじゃない奴ばっかりだ。仲良くやろうぜ、真鍋伍長」


それだけ言い残して、犬飼少尉は立ち去っていった。

足元が、ぐらぐら揺れているような気がした。

掴まれた右肩の傷跡が、ずきずきする。


死ぬのはあいつらに任せてな。

少尉の言葉のその部分だけが、何度も何度も、頭の中で繰り返されていた。


じゃあ俺は、いったい何を受け持つんだろう。

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