乙
息を殺して階段を降り、部屋の入り口から覗き込むと、大柄の男は相変わらず、マスクを着けたまま吹き抜けを背にして部屋の壁際に座り込んでいた。
今俺が立っている入り口の物陰からの距離は20mも無い。
いよいよ自分が滅茶苦茶な事をしようとしている実感が湧いてくる。
でももう後悔している時間はない。
俺は階段を降りてしまった。
さっき俺がいたのがビルの8階だから、ここは7階。
大きく息を吐きながら、俺は足元の瓦礫の1つを拾い上げる。
手につかんだ瓦礫に目を落として、ぐっと力を込める。
入り口から、部屋の対角線上、男の視線とは逆方向に瓦礫を投げ込むと同時に、走り出す。
背後でかつん、と壁に当たった瓦礫の音に、男が振り向いた。
この一瞬しかチャンスは無い。
俺は駆け寄って、振りかぶって、男の頭部めがけて、錆びた鉄筋を振り下ろす。
大丈夫なのかこれ。
俺はこれまで鉄筋の切れ端を人間の頭部に振り下ろした経験なんかない。
それなりの重量はあると思うが、これで本当にアクション映画のように上手い事気を失ってくれるのだろうか。
逆にクリティカルヒットし過ぎて殺してしまったらどうしよう。
0.1秒間隔で、腕の力が抜けたり篭ったりしてわけがわからない。
やめろもう滅茶苦茶をやると決めたならごちゃごちゃ考えるのはやめておけ。
思いっきり、やれ!
がつん!
骨に鉄筋がぶつかる嫌な感覚が、手元を上ってくる。
見張り男はマスクの下で微かに呻き声をあげながら、こちらに向かって、一歩踏み出した。
「ぃっ……!?」
予想外の反応。
喉から声にならない悲鳴をあげながら、もう一度鉄筋を振り下ろす。
がつん!
再び、嫌な感覚。
そのまま男はフラフラと床に倒れ込んだ。
……。
やってしまった。
いや、違う!
やってしまった『かもしれない』だ。
まだやってしまったとは限らない。
もう余計な事は全部終わってから考えよう。
今、1番大事なことは……。
俺は壁際の女の子の方を見た。
女の子は目を白黒させながら、俺と床で気を失った(だけという事にしたい)大柄の男を見比べている。
彼女に近付いてしゃがみ込み、口を塞ぐテープを外そうと手を伸ばす。
びくり、と女の子の肩が震えた。
完全に怯えられている。
俺は彼女になんとか安心してもらおうと、精一杯笑顔を作ってみたが、そのひきつった笑いが余程不気味だったのか、表情からますます恐怖の色が濃くなった。
クールでスマートなヒーローを志すのも、今はやめておいた方が無難そうだ。
俺がマスク男たちの仲間ではない事と、大声を出さないようにして欲しい事を出来るだけ簡潔に言い含め、テープを外すと、女の子は口を一文字に縛って、頷いた。
本当は泣き出したいだろう。
俺だって泣きたいくらいなのに。
強い子だな、と思った。
この子を助けなければならない。
それは絶対にやるべきことだし、やらなければならないことだ。
手足を縛ってあるビニール紐はきつく結んであり、この場で外すには難しそうだ。
俺は女の子に一応断りを入れて、彼女の体を右腕で抱き上げた。
このまま地上まで階段を降り、ビルを出る。
俺の役目はそこまでだ。
それまでの間で、一生分の運を使い切ってもいい。
見つかりませんように。
見つかりませんように。
見つかりませんように。
俺が今まで祈ったこともない神様に祈りながら6階に降りると、廊下の先から笑い声が聞こえた。
覗き込むと、バンダナ男と長髪男が、マスクを外して何やら話し込んでいるのが見えた。
見張り役の大柄男を除いて、一箇所に固まっている。
つまりこのまま階段を降りていけば、見つかる心配はもうない。
俺は神に感謝した。
上手くいっている。
全て上手くいっている。
そこで俺はもう一つの重要な事実に気が付いた。
さっきまでビルの外でけたたましく鳴り響いていた警報が止んでいる。
警報が鳴り止む時、それは対空警邏の戦闘が始まる時。
飛獣はもう、現れている。
ずずん!
瞬間、建物が轟音と共に激しく揺れた。
戦闘の流れ弾が、このビルに当たったのか。
肩に担いだ一人分の体重を支えることが出来ず、俺は膝をついた。
廊下で床に伏せていたバンダナ男と、目線が合う。
男が怒号をあげる。
ちくしょう!何も上手くいってない!
2人の男は怒りに叫びながらこちらに向かってくる。
階段を駆け下り、5階の床を踏んだ時、ばす!という、何かの破裂するような音が老朽化したビルのカビ臭い空間を走り抜けた。
一瞬遅れて、女の子を担いでいるのとは逆側の左の肩に、急激に脱力するような違和感が産まれる。
違和感は熱さに変わる。
熱さは激痛に変わる。
俺は呻きながら、膝をつく。
赤い雫がぽたぽた床に落ちる。
撃たれたんだ、俺。
階段を降りる足音が、背後からゆっくり近づいてくる。
痛い痛い痛い。
痛みと恐怖が脳を支配していく。
どうやったらこの痛みから逃れられるのか。
どうやったらこの人たちに許してもらえるのか。
俺の頭の中はそれでいっぱいになった。
やがて痛みと恐怖の後に、後悔がやってくる。
取り返しのつかない馬鹿をした。
なんでこんな事をしてしまったのか。
何か1つでも上手くいった事もないお前が。
何のためにこんな事をしたのか。
俺は自分自身を呪い、問い詰める。
それは、だって。
右腕に抱えた女の子の方を見る。
目を潤ませながら涙を堪え、口を抑えて恐怖を殺そうとしている。
俺は彼女の名前も知らない。
でもこの子を助けることは、絶対に正しいはずだと思う。
大丈夫だ、とだけ、俺は彼女に言った。
何が大丈夫なのかは分からない。
でも脚を撃たれなくてよかった。
まだ動く事が出来る。
階段は無理だ。
急げば痛みで転がり落ちるぞ。
俺は立ち上がり、よろめきながら建物の奥に向かって走り出す。
男たちはそれが意外だったようで、再び怒号をあげた。
お前らの思う通りになんて、俺は死んだってなりたくない。
ビルの廊下にはいくつもドアが並んでいたが、左腕は持ち上がりそうもない。
ドアの嵌っていない入り口を探さなければならない。
銃声が立て続けに2発、背後で響いたが、向こうも走りながら狙いを付けているからか、弾は逸れたようだ。
足元が痛みでふらついているのも、もしかしたら功を奏したのかもしれない。
5階の廊下突き当たりの部屋には、ドアが無かった。
俺はつんのめりながら、そこに駆け込む。
顔を上げた俺の目の前に、青空が広がった。
その空間は、老朽化でボロボロに崩れきった、部屋の痕跡とでも言うべき場所だった。
建物外側の壁は2面とも崩落して、床も半分以上が抉れている。
下に降りられそうな梯子も階段も、身を隠せそうな場所も無い。
刺すような冷たい風が、頬に吹き付ける。
俺は歯を食いしばった。
男たちの足音が近づいてくる。
俺は部屋の奥、開けた壁の方へと後ずさる。
部屋に入ってきた男たちは、怒りに満ちた視線をぶつけてくる。
「それ、そこに置け」
吐き捨てるように、バンダナ男が言った。
長髪男が部屋の入り口を塞ぐように立ち、バンダナ男が一歩ずつ距離を詰めてくる。
一気に走り寄って来ないのは、俺が部屋の淵から落下するのを警戒しているのだろう。
俺は肩越しに、崩れた壁の先を覗き込む。
地上まで20mはある。
足を踏み外して落ちればどうなるか、想像もしたくない。
「さっさと、しろや!」
バンダナ男が、2mほどの距離まで近づいて、銃口を俺に向けた。
俺は男に、待ってくれ、と言った。
呼吸が乱れて、上手く言葉が出ない。
「両親が……対空局の官僚なんだ。あんたらの目的が金なら……身代金だって取れる」
自分でも、何が言いたいのかよく分からなかった。
ただ、口をついてそんな言葉が出てきた。
バンダナ男は怪訝な目付きで俺を睨んでいる。
喉が焼け付くように熱い。
嗄れた声を振り絞る。
「だから……俺が代わりになれば……いいだろ?この子はもういいだろ?」
筋なんて全然通っていない。
どこにもこの子が解放される理由はない。
それでも、俺は頷きたくなかった。
諦められなかった。
自分のことが1番どうでもいい。
両親のことだって、試験のことだって、俺はずっと最初から、どうでもよかった。
どうでもいいからどんなことでもされてもいい。
きっと両親は俺のためにこいつらに金を払ったりはしない。
それでいい。
誰も俺の顔を覚えてない。
誰も俺に期待しない。
誰にも選ばれない、どこにも居場所はない。
すり潰された透明な人間として、死ぬまでずっとこのままで、それでいい。
俺はずっと、それでよかった。
俺はずっと、受け入れてきた。
でもこの子は違うはずだ。
ただ連れて来られただけで、こんな目に遭わなければいけない理由なんて、どこにもない。
なんで俺じゃなくてこの子なんだ。
「俺は」
俯きながら、最早誰に向けているのかも分からない言葉を続ける。
「納得出来ないんだよ」
絞り出した言葉は、それだった。
「知るか、バーカ」
バンダナ男は、無感情に一言だけ呟き、撃鉄を起こした。
ここまでだ。
俺に出来る事はもう、本当に何もない。
ちくしょう。
体の中を虫がのたうつような感覚。
左肩の痛みも忘れるような、言い難い強烈な感覚がマグマのように腹の中に込み上げてくる。
悔しい。
悔しくて悔しくて、たまらなかった。
「風船」
女の子が開けた壁の外を指差して、言った。
顔をあげ、彼女の指差す方向を振り向く。
3mほどの巨大で滑らかな白い球体が、丸く光る黒い目玉で部屋を覗き込むようにふよふよと浮かんでいた。
飛獣だ。
「あ」
部屋の出口を固めていた長髪男が声をあげた。
続いて、ぴしゅ、と、水が溢れて地面に落ちるような音が鳴った。
飛獣の目玉から放たれた赤い光の束に、長髪男の頭が貫かれた。
一瞬遅れて、どさ、と、床に首から上の無い死体が転がった。
バンダナ男が叫びをあげ、飛獣に向かって次々に発砲した。
張った布地に太い針で穴を開けるような音と共に、飛獣の体に小さな穴が空く。
俺は茫然とその様子を見ていた。
無理だ。
飛獣は地面から離れて対空している限り、どんな損傷を受けても攻撃機能を失わない。
飛獣の目玉が、それ自体一個の生き物のように体表を滑って移動し、バンダナ男の方へ向いた。
バンダナ男は抵抗の無意味さを悟り、部屋の出口へと走り出す。
その背中を、赤い光が貫いた。
微かな呻き声と共に、長髪男に折り重なるようにバンダナ男も倒れた。
飛獣の目が、俺の方を見た。
暗闇を丸くくり抜いたような瞳。
その表面に、波紋のように赤色が走る。
赤い光が放たれる。
俺はそれを躱そうと、女の子を抱えたまま上体を仰け反らせた。
ぐらり、と、俺を支えていたバランスが崩れる。
しまった。
今度は自分の間抜けさを後悔する猶予さえなく、俺は空を脚で掻いて、壁の向こう側に転がり落ちた。
自分の体が、風を切る音が聞こえる。
遠ざかっていく5階の外壁に開いた穴と、飛獣の姿を目に映しながら、俺はさっき自分で口にした言葉を反芻していた。
『納得出来ない』。
そうだったんだな。
俺はずっと、納得してたんだ。
選ばない事を、選ばれない事を。
何者にもなれないで生きていくことを。
それには何にも、不満は無かったのに。
馬鹿をやらなきゃよかった。
この子を助けられなかった。
やっぱり結局、何にも上手くいかないじゃないか。
いつものように何にも選ばず、息を潜めていればよかったのに。
そうすればもう少しマシな結果だって、あったかもしれないのに。
「ごめん」
地面に激突する瞬間、そう呟いた。
風を切る音が止む。
世界の全てが静止している。
これが死ぬって事なのか。
俺は目の前の景色を網膜に焼き付ける。
青空に浮かぶ、飛獣の姿。
東京の人間が今際の際に見る景色としては、珍しくもないだろう。
世界の全てが静止している。
そういえば、走馬灯って見なかったな。
俺の人生、そこにピックアップするような思い出さえ無かったという事なのか。
だとすればいくらなんでも、少し寂しい。
世界の全てが静止している。
……。
あれ?
世界の全てが静止している。
えっと。
それで、これからどうすればいいんだ?
『フランダースの犬』の最終回みたいに、裸の天使が降りてきたりするのだろうか。
空から降りてきたのは、天使ではなく一羽のスズメだった。
スズメは視界を横切り、俺のすぐ側でタイル敷きの地面に止まった。
スズメはチュンチュンと鳴きながら、タイルの隙間をくちばしでつついている。
顎を引いて、足のつま先の方に視線を向ける。
俺の体は、地面から数センチ浮いていた。
「は?」
理解不能の事態に声を漏らすと、ほとんど同時に全体重が背中から地面にぶつかる衝撃が走った。
肩の傷に鋭い痛みが走り、俺は潰されたヒキガエルのような呻き声をあげる。
その激痛が、生存の実感を強烈に訴えかけてきた。
生きてる。
ほんとに生きてるのか。
ともかく俺はなんらかの奇跡で生き延びたというのは確からしい。
それ以上の原因を考える気力は今はない。
抱えた女の子の様子を確認すると、目を瞑ったまま、全身の力がぐったりと抜けている。
一瞬、背筋が凍ったが、静かに息をしているのが分かった。
気を失っているだけらしい。
安堵の溜息を吐いて、風船飛獣の方を見上げる。
距離が急速に離れたからか、或いは俺が死んだと判断したのか、ふよふよとビルの近くを漂っている。
こちらに向かってくる気配はない。
今のうちに離れなければ。
最寄りの
とにかく地下への入り口を見つけないとどうにもならない。
俺は七ヶ丘の表通りに向かって歩き出そうと立ち上がった。
その目の前に、真っ白で丸い、風船のようなシルエットの物体が音もなく降りてきた。
俺は言葉を無くした。
さっきの飛獣よりも一回り小さい。
別の個体だ。
飛獣の体の真ん中に黒い割れ目が現れ、それが瞼のようにぬるりと開いた。
膝が折れる、地面に崩れ落ちる。
俺の中で張り詰めていた何かが、決定的に切れた。
それはないだろ。
あんまりだろ。
なんで一回期待を持たせるような事するんだよ。
結局最後に全部もっていくなら、なんで。
体中から力が抜けていく。
全て受け入れて、瞼を閉じたい。
けれど、それはなんだか余りにも負け犬のようで、嫌だった。
飛獣の瞳に、赤い光の波紋が走る。
がん。
その眼球に、黒い何かが撃ち込まれた。
それは、2m近くある鋼の銛だった。
風船飛獣は貫通した銛の重量を支えきれず、バランスを崩して地面にゆっくりと落下した。
そして地面に触れると同時に、粉々の灰になって砕け散った。
がん。
背後からもう一度、鈍い金属音が響いた。
振り向くと、地面に積み重なった灰の真ん中に、黒い銛が突き立てられている。
それは上空を漂っていたもう一体の飛獣の残骸だと理解できた。
黒い外套の人影が、俺の目の前にゆっくりと空中から舞い降りる。
音も無く着地し、抱えた重針弓を地面に降ろす。
なびく銀色の髪と、きらめく青い瞳。
「がんばったね。もう大丈夫だよ」
柊アリアは穏やかに微笑み、鈴の音のような声でそう言った。
その言葉の、包まれるような暖かい安心感と、心強さ。
そうか、これが本物なんだ。
本物の英雄は、こうなんだ。
「それで……」
立ち尽くす俺に柊アリアは一歩距離を詰める。
……!
顔が近い!
男だというのは頭で理解していても、整った女性的な顔立ちと、キラキラした大きな瞳にどぎまぎしてくる。
「怪我をしてるの?すぐに救護を呼ぶから、もう少しだけ我慢してね。その子は君の兄妹?怪我はないみたいだけど……あれ?」
間髪入れず矢継ぎ早に詰め寄られてしどろもどろしていると、柊アリアは目を丸くして俺の顔を覗き込んできた。
「キミ……電車の中に居た人!」
数秒、何を言われているのか分からなかった。
数秒後、昨日電車の中から俺が手を振り返した事を言っているらしいと気が付いた。
どんな視力と記憶力だよ。
「うわぁ!すごい偶然!」
手をパチパチ打ち鳴らしてはしゃいでいる。
女子かよ。
「それで、えーっと、キミの名前を教えてよ!」
「真鍋です……真鍋マグ……」
子犬のように溌剌と笑う街の英雄に気圧されながらも、俺は明後日の方向に目を逸らしつつ辛うじてそれだけ答えられた。
それを皮切りに、どうにかこれまでの事情を説明することも出来た。
柊アリアはしばらくは満足気にやたらと頷いていたが、やがて真剣な眼差しに変わり、射抜くように俺を見据えた。
「つまりキミは、『
対空局のパンフにあったデータが頭に浮かんだ。
『
後天的に能力に目覚める者その内10%。
途方も無い推察に、俺は面食らう。
それが事実だとしても、とてもじゃないが上手く飲み込めない。
一体どういう理由があって……。
ぱちん。
俺の頭の中が困惑一色に埋め尽くされかかったその時、柊アリアはもう一度手を鳴らした。
「大事なのは、そこじゃないよね」
柊アリアはおもむろに俺の左手を握った。
「マグ!キミが生きててくれてボクは嬉しいってこと!そして、その子を守ってくれてありがとう!キミはヒーローだ!」
俺はその言葉と手のひらの暖かさに涙が出てきた。
単純に肩に穴が空いてる方の手を掴まれてめちゃくちゃ痛かったのもあったけれど。
何よりも、本物の英雄にヒーローと呼ばれたんだから。
いくら俺だって、舞い上がってしまう。
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