甲
落ちてしまった。
いや、もう一度探してみよう。
17003
17021
17037
17041
俺の手元にあるのは17013の受験番号票。
何度探しても、この番号がスキップされている事実は変わらない。
「わーっしょい!わーっしょい!」
真横で別の受験生が胴上げを始めた。
嫉妬とか悔しさよりも、本当にやるんだなぁ……というよく分からない感心が先に出てくる。
世に名高い首都国営学府試験の狭き門。
その競争に、俺は残れなかった。
突っ立っててもしょうがないので家に帰らなければ。
母親に顔を合わせるのは憂鬱だが。
掲示板から離れつつ、そんな事を思い浮かべている自分に苦笑した。
逆に言えばこの2年近く、受験に捧げた日々は俺にとってそれくらいの意味しかなかったのかもしれない。
受験票を丸めて、道端のゴミ箱に放り込む。
駅に着くと、なんだか人がごった返している。
改札を通り構内の電光掲示板を見て納得した。
【
なるほど、飛獣が出たのか。
東京にはひと月くらい現れていなかったので、すっかり意識から遠ざかっていた。
人だかりのホームで待っているとやがて電車が来る。
家は都心の
これから俺はどうなるんだろう。
どうなるも何もない。
母は国営学府以外への進学を認めないだろうし、俺にやりたいことは何もない。
また1年机に向かって、駄目だったらもう1年。
それで学府の試験に通ったら……通って俺は、どうなるんだろう?
「見て!あれ!」
取り留めのないことを考えていると、隣に座っていた若い女が、車窓の外を指差した。
つられて外を見ると、親指ほどの大きさの黒い点が、電車と同じ方向に、滑るように空を飛んでいる。
黒い外套を纏い東京の空を飛翔する、銀髪の少年。
その名前を、この街に住む人間なら誰でも知っている。
俺も間近に見るのは初めてだったが、何者なのかはすぐに分かった。
電車内の液晶画面で見かけた飛獣速報によれば、青嘴に現れた飛獣もたった1人で倒したらしい。
この国で誰よりも多くの飛獣を倒し、数え切れない人の命と生活を救ってきた、空の守護神。
おまけに街を歩けば誰もが振り向くであろう美少年。
人当たりも爽やかでテレビで見かける事もしょっちゅうだ。
ざわめく車内の乗客は、1人残らず窓の外に釘付けになっていた。
両手を合わせて拝んでいる老婆もいる。
自分たちの頭上にいつ現れるのかも分からない飛獣に怯え暮らす俺たちにとって、柊アリアとはそういう存在なのだ。
対空警邏そのものの存在意義も、こういうところにあるのだろう。
頭の上を飛び回るのが飛行機や戦闘ヘリなら、こんな反応にはならない。
都市部での火器爆薬の使用を抑えつつ、正確かつ迅速に飛獣を駆逐するための特殊部隊。
しかし隊員の死傷率も低くはない。
命懸けの英雄たち。
あいつらはどんな気持ちで、この町を見下ろしているのだろう。
柊アリアの歳は確か17。
……俺のひとつ下だ。
受験なんて、考えた事も無いんだろうな。
そんな事を思っていると、窓の外の柊アリアと目があった。
この距離からでも分かる、磨き上げられた宝石のような瞳の光。
びくっ、と電流が走ったように全身が固まる。
『空の守護神』は親しい友達に出会ったかのようにふんわりと微笑み、こちらに向かって手を振った。
その余りにフレンドリーな距離感にどうしていいのかわからず、俺は卑屈な愛想笑いと共に手を振り返す。
同じ反応をしている奴が、車内に何人もいた。
……何やってんだ全く。
次の駅に着くまでに、柊アリアは進路を変えて電車から離れていった。
学生らしい2人組の女の子が、その姿が見えなくなっても、きゃあきゃあ騒いでいた。
東京に暮らす大勢の人間が羨むような経験をして、なんだか俺は寿命が縮んだような気がした。
対空警邏のイメージキャラクター、とびまるくんだ。
防衛省ののぼりを立てて、パンフレットらしきものを手渡しで配っている。
雲の漂う青空をイメージしたであろう、青白まだらの丸い頭に、にこやかな目玉と口を張り付けたようなデザインは、シュルレアリスム絵画の如き不気味さがあって、俺は中々馴染めない。
実際、あまり人気は無いらしい。
そそくさと脇を抜けて立ち去ろうとしたら、とびまるくんがヌッと進路上に立ちふさがった。
パンフレットを差し出し、プレッシャーをかけてくる。
表紙には、とびまるくんのイラストと「『浮いたかな?』と思ったら、まずは相談!電話しよう! 対空庁人事局 ◯◯◯-×××-△△△」の文字がある。
眉を顰める俺に、とびまるくんはにじり寄って更に無言の圧をかけてくる。
「……」
……なんか言えよ!
しぶしぶパンフレットを受け取って、駅を離れた。
家に帰ると、いるのは妹のシラだけだった。
そういえば今、冬休みだったな。
「あぁ、兄貴おかえりー」
シラは居間のソファでうつ伏せに寝転がってスマホゲームをしている。
俺が試験の結果について告げると、こちらも見ずに、ふーんと相槌を打ち、続けてお疲れ様、とだけ言った。
シラを冷たい奴だと俺は思わない。
これが妹なりの気遣いだと知っている。
世界で1人だけだったような気持ちが、少し薄れたような気がした。
母と父に連絡はしていない。
都内に飛獣が出たのだから、対空局に務めるあの人たちは息子の受験どころではないだろう。
メールなんて打っても打たなくても同じだ。
母が帰宅する頃には1時を回っていた。
試験の結果を報告すると、一言「がっかりさせるな」と言ったきり書斎に篭ったままだ。
父は台湾だかどこかだかに出張中だが、この場にいても何も言わなかっただろう。
俺はシャワーを浴びて部屋に戻り、ベッドに寝転ぶ。
そして無機質な白い天井を見つめて、これから1年の事を考える。
どの道、俺には両親の期待に応える以外の選択肢はない。
期待?
本当に父と母は俺に期待なんてかけているのだろうか。
俺がそう思いたいだけかもしれない。
考えだすと気分が暗くなる。
寝転んだままベッドの上のカバンから、無造作突っ込んでいた対空局のパンフを取り出す。
何でもいいから参考書以外の本でも読んで気を紛らわせたかった。
パラパラとページをめくっていると、『統計』のページに目が止まる。
現在確認されている国内で出生した『
自然発生確率は0.0002%。
後天的に能力に目覚めた者はその内10%。
そういう事が載っていた。
俺はほんの一瞬、空を飛ぶ自分の姿を夢想し、馬鹿馬鹿しくなって一人笑ってしまう。
地面を這うしかない人間として産まれたんだから、俺たちは文字通り、地に足付けて人生を考えなくてはならない。
けれど……。
目を瞑って、帰りの電車であった事を思い出す。
俺だって、柊アリアに手を振られることがあるんだぜ。
そんなささやかな自己肯定感と共に、布団に包まった。
ベッドは泥のように柔らかく、俺は沈んでいくように眠りに落ちる。
翌日、俺は朝から
15年前の飛獣の出現以来、都心は平地へと移り、主要な施設や集団住宅は地下に建設されるようになった。
かつて経済の中心だった高層ビル街は打ち捨てられ、廃墟も同然の姿で放置されている。
俺の家がある散花笠からほど近い、七ヶ丘もその一つだ。
七ヶ丘の町並みは昼間から人行きもまばらで、通りの店はほとんどシャッターを下ろしている。
そんな中を通って、抜け道から廃ビルの一つに潜り込み、非常階段を登っていく。
眺めのいい高さまで登ると、老朽化の結果崩れて吹き抜けのようになった床の縁に座り、破れた壁の先から七ヶ丘の寂れた景色を眺めることにする。
取り残された町。
忘れられた町。
あちこちの建物の隙間から顔を出す、青いランプの警報機だけが、飛獣のせいで何もかもが変わってしまった東京の有様を示している。
子供の頃から、この場所にやってきて空や町並みを眺めるのが好きだった。
クラスメイトにも、妹にも、誰にも教えていない、自分だけの場所。
何故今ここにやってきたのかは自分でもよく分からない。
ただなんとなく、気付いたらここに座っていた。
俺はこの町のビルになりたいのかもしれない。
そんな考えが、ふと頭をよぎった。
立ち並ぶビルの廃墟は、誰にも気に留められず、誰にも邪魔だと思われない。
でも、空に向かって静かにしゃんと伸びるその姿はいつ見ても立派で美しい。
他の奴らは分からないが、少なくとも俺はそう思う。
びーっ、びーっ。
そんな事を考えていると、ポケットの中のスマートフォンがバイブレーションと共に鳴り出す。
かんかんかんかん。
同時に、町中の警報機も鳴り出した。
通りを歩いていた人々が、早足に地下への階段に駆け込んでいく。
携帯の画面を見ると、【総河区内・七ヶ丘 飛獣警報発令】と文字が流れている。
この町のどこかで、ひび割れないし飛獣が見つかったらしい。
景色を見回すと、大通りを3つ挟んだ辺りの空間に、まさしく発生したばかりの小さな黒いひびが見えた。
昨日の今日だというのに、立て続けに都内に飛獣が現れるのか。
ここ数年は起きていない事態だ。
きっと対空局は大慌てだろうな。
鳴り響く警報を聞きながら、俺は床の縁に脚をかけたまま仰向けになる。
ここにいれば誰かに見つかる事も無いだろう。
それにひょっとしたら、この特等席から飛獣と対空警邏の戦いが見られるかもしれない。
そんな期待と共に、俺はのんびりと飛獣の登場を待つことにした。
1時間ほど経っても、警報は鳴り続けている。
俺は寒さにかじかんだ両手を擦り合わせた。
ひび割れと飛獣の出現にはタイムラグがあり、発生から30分程度で飛獣を吐き出すひび割れもあれば、丸2日以上かかって飛獣が出現する場合もある。
既に数人の黒い外套を纏って重針弓を担いだ対空警邏が到着し、一定の距離を保ってひび割れの周りを包囲している。
迎え撃つ準備は万端らしい。
そんな時、階下で物音が聞こえた。
どうやら、何人かの足音のように聞こえる。
……こんなところに?こんな時に?なんで?
腹這いになり、床の縁から頭を出して覗きこむ。
そこには確かに、3人の男が立っていた。
男たちは皆一様にサバイバルゲーム用のマスクで顔を隠し、1人は大きな黒い鞄を肩に担いでいる。
俺は思わず声をあげそうになって、それを飲み込む。
リーダー格らしいバンダナを腕に巻いた男に促されて、鞄を担いだ大柄の男が静かにそれを床に下ろした。
ジッパーを開くと、手足をビニール紐で縛られ、テープで口を塞がれた小学生くらいの女の子が恐怖に満ちた表情で男たちを見上げた。
そこで俺は、今目の前で何が起きているのかをはっきりと理解した。
誘拐だ。
住民の一斉避難に乗じた誘拐や強盗は飛獣の出現以来現在まで増加の一途を辿り、都内の社会問題としてこの町に暮らす人間の誰もが知っている。
バンダナ男は髪を掴んで女の子を引きずり出す。
女の子は痛みに呻き、もがいた。
間髪入れず、バンダナ男が女の子の頬を平手で叩く。
「騒ぐなよ。別に誰にも聞こえないけど、騒がれるとイライラする」
大柄の男と、もう1人の長髪の男が、肩を揺らして笑う。
バンダナ男が首を煽って促すと、長髪男が新聞紙で包まれた何かを手渡した。
バンダナ男が新聞紙を剥がす。
片手に収まる、無骨な金属のシルエット。
ハンドガンだ。
「逃げようとか思うなよ」
しゃがみ込んで、女の子の目の前に銃を見せつけながら、男は言った。
俺は床の縁から頭を引っ込め、両腕で自分の体を抱え込むように蹲った。
全身が震えている。
細かい針が全身を突き刺すような痛みと共に、身体中の汗腺から汗が吹き出している。
立ち上がり、ズボンのポケットをまさぐる。
警察に通報しなければ。
もうすぐ対空警邏と飛獣の戦いが始まって道路が封鎖される。
区外の警察がここまで辿り着くのがいつになるか分からない。
でもとにかく今は警察に頼るしかない。
ポケットから取り出した瞬間、電話が指先から滑り落ちた。
一瞬、何が起きたか分からなかった。
俺の携帯は床に向かって落下し、かちゃんと軽い音を立て、軽やかな回転と共に跳ねる。
その映像が、スローモーションのように見えた。
そのまま、床の縁を飛び出して、吹き抜けを真っ逆さまに落ちていく。
嘘だろ。
冗談だろ。
かじかんだ指のせいなのか、緊張による震えのせいなのか、今更理由なんて考える意味がない。
絶対にしてはならないミスを犯した実感だけが込み上げてくる。
口の中に酸を放り込まれたような感覚を堪えながら吹き抜けを覗き込むと、3階下の床の上でバラバラになっているスマートフォンの残骸が見えた。
更に致命的な可能性に思い当たる。
今の物音で気付かれたかもしれない。
恐る恐るもう一度、下の階を覗き込む。
不幸中の幸いというべきか、見張り役らしい大柄の男は、壁際に座り込む女の子の方へ体を向け、こちらを気にする様子もなくじっと座り込んでいる。
他の2人の姿は無い。
俺は床に突っ伏し、下唇を噛み締める。
お前は今、世界で一番最悪の間抜けだ。
どうする。
どうすればいい。
下の階の奴らに気付かれず、待機中の対空警邏に状況を知らせる手段は無いか。
大掛かりな事をしようとすればするほど、時間もかかるし、奴らに気付かれる可能性だって高くなる。
何より、対空警邏だってこんな場所に人が残っているとは想像もしていないだろう。
これから飛獣との戦闘が始まるかもしれない時に、どうやってまず注意を向けさせればいい。
何も思い浮かばない。
どうすればいい。
俺はどうすればいい。
震えが激しくなる、吐き気が喉元から込み上げてくる。
そもそもなんであいつらこんな所を隠れ家にしてるんだ。
飛獣が現れても自分たちだけは無根拠に助かると思いやがって、悪党のくせに。ちくしょう。
一旦、この建物を離れよう。
その後で警察でもなんでも呼べばいい。
俺はふらつきながらどうにか立ち上がり、物音を立てないように、一歩を踏み出す。
鞄の中から引きずり出された女の子の、恐怖に支配された瞳が、壊れた映写機みたいに断続的に俺の脳裏をちらつく。
駄目だ。
駄目だ駄目だ駄目だ。
今ここを離れるのは駄目だ。
下の階の奴らの目的が営利誘拐だとして、あの子にはこれから聞き出すことが沢山あるだろう。
そのためにどんな手段を使うのか、最悪な想像はいくらでも浮かんでくる。
今、あの子を見張っているのは1人だ。
1人……。
やめろ。
何考えてるんだ俺は。
全員お前より体格がいいし、1人は銃まで持ってるんだぞ。
下らない考えはやめろ間抜け。
気付かれたら、殺されるぞ。
…………。
あ、そうか。
そこまで考えて、吹き出す汗がぴたりと止まった。
今、馬鹿をやっても、最悪の場合俺が殺されるだけだ。
俺が殺されるだけで済む。
飛獣という災害の現場に、物見遊山で首を突っ込んだ馬鹿が、同じような馬鹿相手に馬鹿な事をして、死ぬだけ。
自分の最低な間抜けさを埋め合わせる対価としては、安過ぎるくらいじゃないのか。
震えが止まった。
俺は床の隅に転がった鉄筋の切れ端を拾い上げる。
今度は、取り落とさなかった。
警報は、まだ鳴り響いている。
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