量子ネコのムームー

カツラギ

本編

人の死に絶えた世界で、コンクリートジャングルをネコが歩く。ネコは人類が滅びても生きていた。また、ネコの他はすべて死んでいた。ネコも実は死んでいた。この歩くネコは量子情報化に成功した唯一のネコで、名前をムームーと言った。ムームーは滅びた世界で、誰とも出会わずにひとり彷徨っている。


ムームーは空中に霧散した量子情報を食べて生きている。そんなムームーは、いま幕張の海沿いを歩いている。かつて知るひとは国際展示場と呼んでいた祭祀場には、人の情念が込められた量子情報が満ちている。コミックマーケットは百年後まで続き、紙ではなく情報を量子化させてさえ繰り返された。


ムームーはそんなことは露知らず。だがムームーがある情報を食べたとき、身体に異変が起こった。かつてない感覚にムームーは困惑し、荒ぶった。荒ぶりは激しさを増し、情報処理能力の限界に達したムームーの意識が絶頂を迎える。意識を失ったムームーが目を覚ましたとき、世界は少し小さくなっていた。


ムームーは前より視点が高いことに気づいた。毛がなくなり、前足が肌色になっていることに気づいた。コンクリートに乗る前足の爪先に痛みを感じることに気づいた。そして誰に教えられることなく、後ろ足のみで立つことができた。ムームーは、かつての世界で「人間」と呼ばれた生き物の姿になっていた。


ムームーは人間の姿になって、誰にも見えない幽霊のようになって、コミックマーケットを巡った。これまで理解できなかった絵が、なんとなく意味が理解できた。ネコの脳サイズでは理解できないものが、人の脳サイズになって処理可能になっていた。ムームーは理解した。自分の変貌した理由を。


高度に情報化した社会では、紙文明は終わり、空間上に情報を留めておくことが可能になった。同人誌は電子書籍化し、電子書籍ですらなくなり宙を漂う情報となり、それでも人は集まって祭りを行った。その一つ、アバターコスチュームへの身体変換情報…A.C.T.と呼ばれる情報がムームーを人にした。


ムームーはコミックマーケットにある情報から人間社会を学んだ。ありとあらゆるシチュエーションの学習ができた。学習サンプルには事欠かなかった。ほぼすべての情報を読み終わった後、ムームーは旅をした。かつての世界の科学文明を理解できるようになったムームーは、1組のつがいにたどり着く。


ムームーはそのつがいが入れられている箱がコールド・スリープに利用されていることを理解できたし、オスが生きていることも、メスが残念ながら機械の故障で朽ち果てていることも理解できた。ムームーはオスを起こすことに決めた。ムームーの持つ膨大な情報に照らし合わせるとかなり原人なオスだった。


そのオスは1999年から眠り続けている14歳の少年だった。当時の科学では治癒不可とされた難病を患った少年は冷凍睡眠処置をなされた。そして時代が経ち、人間が文明を発達させて身体を忘れていくにつれ、高度化した技術で保存され直し「生きた古代人の生体サンプル」となったのだ。


ムームーは冷凍睡眠装置の保存機能を停止させた。少年を起こすためだ。コールド・スリープから目覚めるには適切な解凍処置を行う必要がある。時間にして72時間、ムームーは待った。その間、カプセルの防護窓越しに見える寝顔を眺め、最初になんて話しかけようか考えた。


日が昇り、沈み。三度の日没を繰り返した後、カプセルの隔壁から圧縮された空気の抜ける音が聞こえた。油圧式のシリンダーが軋み、カプセルの蓋が開く。少年の姿が露わになる。目は閉じたままだが、呼吸を確かにしていた。ムームーは待った。まだ待った。少年の目が開くのを。


目覚めた少年が上体を起こした。手向けのために備えられた花が、冷凍睡眠の間に水分を失ってカラカラに乾いた花が砕け散り、宙に舞う。花の破片の感触にくすぐったそうに笑う少年。その少年がはにかむ笑顔をムームーに向けた。


笑顔を向けられたムームーは、頭のなかが真っ白になった。これまで得た情報では実際に笑顔を向けられた感覚を知り得なかった。本の世界と現実では、こんなに温かさが違うんだとムームーは体感した。ムームーは忘れた。ずっと考えていた言葉を、話しかける言葉をすべて忘れた。そして、声に出したのは。


「にゃー」


ムームーは忘れていたのだ。自分が人間ではなくネコであることを。ムームーは絶望した。言葉が伝えられないことに。話したいことは山ほどあるのに言葉にできない。懸命にムームーは鳴く。すべて「にゃーにゃー」になる。ムームーは泣いた。それでも鳴き続けた。言葉が伝わらないと知っても、それでも。


やがてムームーは鳴き疲れ、その場にへたり込んでしまった。すると少年が手を伸ばす。その手はムームーの下あごを撫でた。その感覚がムームーにはとてもうれしく感じた。ムームーは下あごを、身体を預けるように少年に擦り寄る。そして少年のそばで丸まった。


はたして少年にはムームーがどう見えているのか。ネコなのか、ヒトなのか。わからないけど、わからないなりにムームーは満足した。そしてムームーははじめて眠った。ムームーは眠ることを知らなかった。ずっと情報を貪っていたから。けれども、ようやくムームーは眠った。眠れる場所を見つけたのだ。


そしてムームーと少年は世界を作り直した。残念ながら少年の寿命の長さでは、人が再び生まれ直すのを見ることはできなかったが、ムームーはいまも生きている。コミックマーケットの会場で、人知れずネコの鳴き真似をするメイドがいたなら、それはムームーかもしれない。


(了)

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