第2話 調律


「いたっ」


 鍛錬のため、局の東館にある更衣室で着替えていた都季は、生地と擦れた左腕に痛みが走って顔を歪めた。紙で手を切ったときの痛みによく似ているが、今触れたのは切りようのないただの布だ。

 痛みの正体は何かと腕を見れば、細い一本の線がうっすらと走っていた。


(えっ。布って切れるの?)


 唖然と見つめていると、線はすうっと消えていった。触ってみても痛みはなく、切れていた様子すらない。

 何かを押し当てて出来た跡にしては消え方が早すぎる。そもそも、跡がつくほど何かを押しつけたりはしていない。

 何だったんだ、と怪訝な顔で固まる都季の前に、動かないことを不審に思った月神が浮いて出る。


「何をしておる? そんな細腕、見つめていてもすぐには鍛えられんぞ」

「は!? い、いや、そんなんじゃなくて……」

「うん?」

「あー……肩凝りが酷いのかも。腕上げたら痛かったんだ」


 ただの気のせいかもしれない。消えたなら問題ないはず。ただでさえ色々と負担を掛けているのだ。これ以上、心配の種を増やすのも……と、都季は服を着ながら適当に返した。

 まさかそんな答えを返されるとは思わなかった月神は、呆れと同情の混じる声音で言う。


「若者が何を言うておるか。情けない……」

「誰かさんが肩に乗ってるからかなぁ」

「むっ。我は負担を掛けるほどではないぞ」


 月神だとは明言していないものの、他に都季の肩に乗っているものはほぼいない。

 むすっとした月神に、都季はすっかり痛みがあったことも忘れてにやりと笑った。


「ほら、幽霊とかに取り憑かれると重いって言うし」

「我をあのような者らと同列にするな!」

「いたっ! 神様がそんな簡単に手を挙げるなよ」

「こんなときに神扱いしおって!」

「…………」


 いつもの調子で騒ぐ二人だが、更衣室のドアが開いて新たな人が入ってきたと気づいていない。様子を見に来た蒼夜が来たことに。

 蒼夜は果たして止めに入るべきか否か迷い、ドアの所で立ち尽くしてしまっていた。

 今の様子では、どちらに非があるかと答えを求められかねない。

 蒼夜としてはどっちもどっちだが、それを言えば都季はともかく月神は拗ねるだろう。かといって、都季が悪いと言うのも少しばかり可哀想だ。


(……よし。見なかったことにしよう)


 結論を出した蒼夜は気配を消し、そっとドアを閉じた。



   * * *



 今日の鍛錬は、蒼姫と蒼夜が見てくれるとのことだった。

 土曜日なので魁や琴音、悠も参加はできたはずだが、午前中は警邏部とのミーティングがあるため、午後から参加すると言っていた。

 また、挨拶を兼ねて調律部に顔を出した際には、才知が「俺も蒼姫ちゃんにマンツーマンで鍛錬の相手して欲しいなぁ」とぼやき、蒼姫に完全にスルーされていたのは記憶に新しい。


(あの人、冗談で言ってるんだろうけど、いつか本当に訴えられそうだよなぁ……)


 道場に入ってから、先に待ってくれていた蒼姫を見てつい数十分前の出来事を思い返してしまった。

 蒼姫はタブレット端末を操作していたが、目的の物は確認できたのか都季へと視線を移してにっこりと笑みを浮かべる。

 普段は誰に対しても穏やかな彼女は、才知にだけはやけに手厳しい。才知の言動のせいでもあるが。


「では、更科さん。まずは霊力を整えますので、こちらに座っていただけますか?」

「はい」


 彼女に言われ、都季は道場の片隅に正座する。都季達以外に人はいないため、端から見渡した道場はいつもより広く感じた。

 蒼姫からは、都季の霊力が日に日に上がっていると聞いている。だからこそ、霊力を使おうとしても上手く調整ができずに扱いが難しいのだと。


「俺、霊力が上がっている実感が沸かないんですけど、そんなものなんですか?」

「んー……なるほど。上がっているという表現は語弊がありましたね」

「語弊?」

「お主の霊力は、元々高いものだと言うておっただろう。今は結菜の形見で抑えられておるが、それが徐々に出てきているのだと」


 潜在的にあったものが表面化しているので、上がってきているという表現は誤ってはいないものの、元々あるものなので霊力が増えているわけではない。

 蒼姫は「日本語は難しいですねぇ」と苦笑している。


「行く行くは扱えるようになってもらわないと困るが、初心者がいきなりそんな大きな霊力を扱えるとは思わない。だから、蒼姫達が整えるんだ」

「な、なるほど……」


 毎回、調律するわけではなく一時的な対処だ。都季が霊力の扱いに慣れれば、調律の手間はなくなる。

 これは早く慣れないと、と心に刻んでいると、膝に何かが触れた。

 見れば、蒼姫の肩にいたシエラが都季の膝に前足を置いて見上げてきていた。


『扱えないままでもいいんだよ! ボク達のおやつになるんだから!』

「おやつ?」

「こら。その言い方は失礼ですよ」

『だぁってー……』


 調律がどのようなものかは、実のところまだ見ていない。

 拗ねたシエラに蒼姫は「また五十嵐師長から刈り取ってきますから」と何やら不穏なことを言っているが。


『案ずるな。なに、我らが溢れている分の霊力を食するだけのこと。師長から霊力を貰うのは、あやつがいらぬことをしたときだ』

(才知さんの立場って)


 どうにも蒼姫の尻に敷かれている気がする。それだけ本人が余計なことをしているのだが、あれで部署の長が務まるのだから実力は相当なものに違いない。多分、がつくが。

 ほんの少しだけ才知に同情していると、シエラを説得し終えた蒼姫が都季に向き直った。


「では、鍛錬の時間も限られていますし、調律を開始しますね。更科さんは軽く目を閉じて、楽にしていてください」

「はい」


 蒼姫は道場の壁に立て掛けていた銀色の杖を片手に持ち、都季の前で軽く床を突く。銀色の環が擦れて鈴のような音色を奏でる。

 全身から力が抜けていく。閉じた瞼の向こうが明るくなった気がした。

 五分と目を閉じていない内に、蒼姫から「終わりましたよ」と声が掛けられ、ゆっくりと目を開く。


「……あれ?」

「どうですか?」

「すごい……。なんか、さっきより体が楽になってる気がします」

「それは良かったです」

『ごちそうさまでした!』


 重く感じていたわけではないが、調律を終えた今は体がかなり楽になっていた。

 シエラは満面の笑みを浮かべており、発言からしても本当に都季の霊力を食べていたようだ。


「更科さんから頂いた霊力で、この子達はまた強くなれるんです。なので、手間を掛けさせているとは思わないでくださいね?」

「は、はい」


 調律はこちらの心を見透かすのだろうか。少し気後れしていた都季は、言い当てられてどきりとした。

 すると、漸く準備を終えたか、と蒼夜が都季に手を差し出す。反対の手には木刀が握られている。


「じゃあ、早速始めるか」

「はい。よろしくお願いします」


 どんな鍛錬をするのだろうかと少し不安になりつつ、都季はしっかりと頷いて返した。



   * * *



「あー! 亥野さん!」

「お疲れ。どうかしたか?」


 調律部に向かっていた茜は、エレベーターで地下に着くなり、調律部から出てきた女性調律師の三人に呼び止められた。

 彼女達は怒りを露わにする者、不安げな者、苦笑いしている者と三者三様で、何があったか予想がついてしまった。大方、才知絡みだ。


「聞いてくださいよ! 五十嵐師長、またセクハラしてくるんです!」

「……今度は何だ?」


 やっぱりか、と頭痛がした。

 以前、彼にはキツく言っておいてからは蒼姫以外には収まっていた気はするが、癖づいたものが出てしまったのか。

 何を言ったのかと過去の発言を思い返していると、茜としては判断が微妙な内容が返ってきた。


「『そろそろ、夏用の制服に変える頃か』って!」

「まぁ、確かに半袖とか少し薄手にはなるけど……」


 状況にもよるだろうが、単に衣替えの時期の確認ともとれる。これがセクハラと認識されるのは、才知の日頃の行いのせいだ。


「最近は蒼姫さんだけに言ってると思ったら、蒼姫さんが鍛錬に行っているからって!」

「あー……そうだな。これから本人に会うし、注意しとくわ」


 蒼姫に対して変わっていないことは特に。と心で付け足した。


「お願いします! あの人、セクハラ発言さえなかったら全然、良い人なのに……」

「まあまあ。あれは確認の意味もあるからね? ……すみません。ちょっと私達も落ち着かせてきますね」

「ああ。頼んだ」


 セクハラだと思ったのはどうやら一人だけのようだ。

 苦笑していた調律師がこっそりと茜に言うと、「彼女、ちょっと男性不信なところがあるので」とまた不安になるようなことを付け加えてからエレベーターに乗り込んだ。

 才知への注意も程々にしておくか、と茜は小さく息を吐いて調律部に入った。


「才知ー」

「あれ? 珍しい。直にここに来るなんて」


 才知は自席で仕事に取り組んでいる最中だった。

 普段、局自体にあまり来ない茜の来訪に驚いている。


「あと九年したら頻繁に見るぞ」

「俺、その頃まだ師長やれてるかな……」


 九年後は茜が月守を担当する年だ。また、今代の十二生肖の最後の年でもある。

 しみじみと言った才知に、茜は先程の調律師からの訴えを受けて注意する意味で言った。


「下手にセクハラ発言連発して、訴えられてなけりゃな。というか、自分でそうしてるくせに」

「あー……その話ならちょっと隣行くか。聞かれるのもあれだし」


 茜の言わんとしている事が何か分かった才知は、珍しく渋面を作った。

 彼の言うとおり、周りにはまだ調律師が数人デスクワークをしている。作業音が少し聞こえるくらいのこの空間では、二人の会話は否が応にも聞こえてしまうのだ。

 席を立った才知は、隣のミーティングルームに移動した。

 ミーティングルームはさほど広くなく、奥の壁にはホワイトボードと横の壁に大型モニターが一台掛けられているだけだ。部屋の中央には円形にテーブルが並び、十二の席がある。

 才知は手近な椅子に座ると、少し回転させて茜を見上げた。


「で? 俺、その話茜ちゃんにしたっけ?」

「したというか、雰囲気で察した」

「こわっ」

「元々、そんなセクハラまがいの発言をするような奴じゃなかったし、増えたのなんて蒼姫が力を付けてきてからだろ? 頭すげ替えたいのかって見てたら確信に変わっただけだ」


 多少の冗談を言う正確ではあったが、言動には気をつけていたはずだ。それが、いつからかセクハラまがいの発言が増え、師長としての立場を危うくした事は何度かある。

 それでも師長が変わらないのは、セクハラだと申し立ててきた調律師が何故か拒否をしたからだが。


「さっきもセクハラに近い発言があったって言われた。内容としてはまぁ、微妙なもんだから同僚が宥めてくれているが、蒼姫には変わらないようだな」

「可愛いから」

「茶化すな。なんでそんなに降りたいんだ?」

「んー、俺が師長である限り、自由に動けないのがなんとも息苦しくてな。今の状況で俺が動けていたら、って思うところも正直何度かあった」


 師長としてやらなければならない仕事は膨大だ。それこそ、デスクワークだけでも普通の調律師の倍はある。たまに逃げている分、さらに溜まっているがそれはそれだ。

 才知は最初こそ自身の仕事を全うしようとしていたが、そこに蒼姫という月神も一目置く調律師が出てきた。まだ年若いが、時期がくればすぐに辞令が下るだろう。

 部下が動いているのに、自分は動けない。それは身軽に動きたい才知からすれば、ただの苦痛でしかなかった。


「分かってるさ。師長が現場に行けば、些細な事件も重大な事件になるし、何より『ここ』が空く。つい最近の件があってから、余計に出づらくなったし」

「だからって、その役目を部下に押しつけたいって?」

「言い方」


 まるで、自分が嫌だから逃げているようにも聞こえる。確かに、逃げていると捉えられてもおかしくはないが、才知は今の立場が完全に嫌いではない。

 茜は大きな溜め息を吐くと、険しい顔のまま言う。


「あのな、言っておくが師長になるのは実力だけじゃない。経験も必要だ。実力だけでいいなら、お前だってもっと早くになってた」

「それはどうも」

「だから、今は下手に自分の首を絞めるな。後任だと見ているならちゃんと育てとけ」

「ええー。それって贔屓にならない?」

「後任だと見ているなら問題ない。それに、実力はお前を除いた調律師の中では一番あるんだ。文句は出ないだろ」


 月神でさえ一目置いている人物だ。さらに、他の調律師も認めている。これで文句が出るのなら、その者がどれほどの力を持っているか見せてもらいたい。

 才知は「なるほど。あとは後任の育成か」と自分の中で意味を噛みしめる。


「分かった。けど、俺が手を出すほどのもんでもない気はするけどな」

「馬鹿言え。お前の守獣、蒼姫でさえ一度に扱うのは難しいって言ってたぞ」

「えっ」

「言っただろ。『経験もいる』って」

「……なるほどね」


 才知が今までに培ってきた経験があるからこそ、自らの守獣はついてきてくれている。勿論、相応に見合った霊力もあるが。

 状況に気を取られて焦っていたのか、と才知は漸く肩の力を抜いた。緩くやってきたつもりだったが、実際はそうではなかったのだ。

 そんな彼の様子を見た茜は、一つだけ釘を刺しておくことにした。


「ただ、セクハラが治っていないようなら、その身を警邏に移すことは厭わんから気をつけとけ」

「げっ」


 調律師は警邏隊員と違い、武器を使っての戦闘はあまり得意としていない者が多い。だが、蒼姫もそうだが、才知も相応に動けるよう鍛えてはいる。それこそ、警邏でも問題なくやっていける程度には。

 ただ、才知は警邏の仕事を既に知っている身としては最も避けたい部署ではある。


「葵の部下にするか、それとも葵と交代にするかは追々考えるとして――」

「あー! 分かった! 調律部で頑張るから!」

「よし、なら早速仕事をしてもらおうか」

「……はい」


 そういえば、茜は自分より年下だったよな……? と見事に弄ばれた気がしてならない才知だった。




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