第9話 運命の人とは


 ひんやりとした風が頬を撫でる。


「……さむっ」


 肌寒さから閉じていた目を開き、帰ってきた現実に大きく息を吐いた。何気ないその行為さえ、治りかけの傷が僅かな痛みを走らせる。

 辺りは夜の闇に包まれており、点在する僅かな街灯と月明かりのみが頼りだ。

 平年に近い気温にはなったものの、夜風はまだ冷たい。

 まして、悠が今いるのは天降神社の端にある展望台だ。遮る物が周囲にないここは、風通しがかなり良い。

 座っていたベンチから立ち上がり、数メートル先にある転落防止用の柵から周囲を眺める。

 目の前に広がる町は眩しいほど輝き、時折、クラクションの音や救急車のサイレンが響いている。

 ぼんやりとしていた悠だったが、後ろに現れた気配に向けて声を投げかけた。


「……何か用?」

「飛び降りるのなら、せめてその最期を見届けてやろうと思っただけのこと。一人では寂しいだろう?」

「あ、そう」


 悠が飛び降りるとしても、声の主に止める気はないらしい。

 確かに、両手を置いている木の柵を越えれば、数メートル下に生い茂る木々に真っ逆さまだ。普通の人ならば助からない高さだが、依人である悠にしてみればなんともないのだが。

 先の病院でのことを揶揄していると分かり、悠も皮肉で返す。


「てっきり、君が突き落としに来たんじゃないかと思った」


 体を後ろに向けて柵に寄り掛かると、背後に現れていた刻裏を見る。相変わらず、彼は神出鬼没だ。

 今は、互いに敵意はない。ただし、すぐにでもそれが崩れそうな微妙な境目にはある。


「お望みなら……と言いたいところだが、生憎、私は人の生死に関わるのが好きではなくてね」

「破綻組の元凶の一人が言うセリフじゃないな」

「否。あれの原因は本人にあっただけのこと。私は求めに応じたまで」


 あっさりと返した刻裏の言葉に、悠の肩がピクリと動いた。苛立ちが僅かに滲みはじめる。

 しかし、自ら地雷を踏みに行った刻裏に焦りの気配は欠片も見られない。


「『彼女』も、君が力を与えたんだろ」

「左様」

「破綻すると分かっていながら」

「それに関しては控えておこうか」


 話を切るように口を噤んだ刻裏は、悠から視線を逸らすように体の側面を向ける。

 無防備な絶好の状態だが、悠は命を狙う気にはなれなかった。

 苛立ちを一生懸命に抑えながら、気を紛らわせようと話を変える。


「狐さんは、よく堪えられるね」

「……そうだな。だが、昔ほどこの世界も嫌いではないよ。それに――」


 かつて、自身の世界観を変えさせた巫女の姿が浮かんだ。

 向き直って見た悠は苦しげで、最初は揶揄したものの、本当に柵を越えてしまいそうだ。

 刻裏は、「彼女なら、こんなときにどうするだろうか」と頭の片隅で思いつつ言葉を続ける。


「堪えねば、『アレ』に聞かせる話が無駄になってしまうからね」

「また数百年も待つ気?」

「ああ、待つさ。末裔を見ながらね」

「つまんなくない?」


 悠が何を言いたいのか、何を求めているのか。

 彼の言葉から感情の機微を読み取り、ぼんやりとではあるが掴めてきた。


「いいや、人は見ていて面白い。特に、人の出会いとは奇なるもの。そのすべてに大小の差はあれど意味はある」

「ふーん」

「その者が他人と関わり、変わっていくのもまた一興」


 悠は、大切な人を自身から奪った世界を嫌いながらも、彼女を守れなかった自身を憎みながらも、受け入れる方法を模索している。自身がこの世界にいる理由を、一度は諦めたこの世界で生きる意味を。

 今になってその行動に至ったのには、悠の心境に大きく影響を及ぼした人がいるのだろう。


「よく、人は『運命の人』という言葉を使うようだが、私が見てきた中で思うには、それは色恋に関してだけではない」


 唐突な単語に、悠は訝るように刻裏を見た。

 しかし、ただでさえ考えを読むのが難しい刻裏を相手に、その真意を掴むのは困難だった。


「お前の人生に大きく関わる者も、また『運命の人』と言えよう」

「僕の人生、ね」

「言うなれば、お前が立っているのは分岐点。どちらに、どこへ向かうかはお前次第だが、そこには導く人や惹かれる物があるはずだ」

「…………」


 ふと、過ぎった人の姿に、思わず苦虫を噛み潰したような顔をしてしまった。

 自分は彼に何をしたか。

 それを思うと、ついて行ってもいいのかと自問した。


「世界は不条理か? 否。世界ほど素直なものはないよ」

「そんなまさか」

「いいや。世界は人の成したことをそのまま受け入れている。その結果が今だ」


 誰かが起こしたことに対し、相応のものを起こす。不平等だと感じたとしても、当人達が成したものに対する結果であり、『世界』が起こしているわけではない。

 そうかもしれない、と納得すれば、刻裏は「世を生きるには、あまり悲観視しないことだ」とだけ言って背を向けた。

 その背に、ずっと気に掛かっていたことを訊ねる。


「ねぇ、狐さん。一つだけ訊いていいかい?」

「何かな?」

「なんで、助けたの」


 実のところ、病院の屋上から飛び降りたとき、悠には死ぬかどうかの迷いはまだあった。

 少し体を捻れば助かる。だが、何もしなければ体は地面に叩きつけられて終わりだ。

 駆け巡る走馬灯をぼんやりと眺めながら、さて、どうしようかと目を閉じたとき、ふわりとしたものに体を掬い上げられた。

 一瞬、龍司が顕現させていた翡翠かと思ったが、接する感触が知っているものとは異なる。

 目を開けてみれば、体は風に包まれていた。

 そして、そのまま神社まで連れて行かれたのだった。

 風の主が刻裏だと気づいたのは、神社に着いてからだ。風が消え去る際に感じた霊力に刻裏の気配が残っていた。

 刻裏だけでなく、都季の命をも狙った悠を彼が助ける理由はない。

 だからこそ、疑問に思い、神社に来るであろう刻裏を待っていた。


「……さぁな。私にも分からん。ただ――」


 ――大切だと思う者が悲しむ姿は、やはり、いつのときも寝覚めが良くない。


 顔だけを後ろに向けて言った刻裏は、小さく笑みを浮かべていた。ただ、それにはどこか哀しさが混じっている。

 刻裏は長い時を生きてきた。それこそ、悠の受け継いだ記憶の最古に既に存在していたほどに。

 その時の中で、彼は何度も人の悲しむ姿を見てきたのだろう。

 刻裏が一陣の風を起こして消えた後、悠は再び夜の町を眺めた。


「嫌なのは、君だけじゃないだろ……」


 脳裏に夢の続きがフラッシュバックする。

 暴走したミオを力で捻じ伏せ、局で保護したこと。すぐにでも処分するべきと断言した先代を十二生肖の面々が抑え、その間、悠は彼女を救えないかと月神や調律師に掛け合った。

 だが、そうこうしている内に意識を取り戻したミオは局を抜け出したのだ。

 その保護に向かった先で起こったことを、悠は苦しげな顔をしながら思い返すのを止めた。


「あーあ。あと少し、早かったらなぁ……」



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