第8話 不適合者
どうやら、今日は記憶を遡りたい気分のようだ。と、悠は自分の深層心理を鼻で笑う。
昼間にじりじりと肌を照りつけていた太陽は西の山に沈み、辺りが薄暗くなってきた。
街灯に明かりが点り、恵月町内で最も広い公園からは人の気配がなくなる。
静寂に満ちたその公園を、悠はミオの手を引きながら走っていた。
「はぁっ、はぁっ……っ、ゆ、君っ! あれ、なに……!?」
「今は黙って逃げることに集中しなよ」
ミオは悠に必死について行きながらも、数分前に見た『もの』がなにか訊ねた。
この世界では見たことのない生物。誰かに説明するなら、『幽霊』や『空想上の動物』といったところが妥当か。ただし、信じてもらえる可能性はかなり低い。
悠は僅かに顔を後ろに向けてミオを見た。
彼女の腕や足には切り傷があり、それを作った元凶は今、後ろからしつこく追って来ている。
(さっさと諦めろよ……!)
炎の鬣を持つライオンは狩りをしているつもりなのか、全力で走っているというよりも手加減をしているようだった。
時折、仕掛けてくる爪や炎の塊も致命傷を与えるほどのものでもない。確実にしとめるため、じわじわと弱らせ、疲れて動けなくなるのを待っているようにも見える。
水属性の悠ならば、見た目からして明らかに火属性であるライオンを追い払うのは造作もない。
だが、それもミオがいなければの話だ。
(ああもう、めんどくさいなぁ)
自分の心境の変化を煩わしく思った。だからといって、ミオを突き放せないのも事実。
悠が能力を使えば、追ってくる幻妖のことはもちろん、悠がただの人ではないという記憶を消すこともできる。だが、ミオの中から自分に関する記憶が一部とはいえ消えることに抵抗を感じたのだ。
迷いがあれば能力の使用にも支障が出る。下手に神使を出せない今、悠は局に向かって走っていた。
幻妖の気配は近づけば近づくほど、依人ならば力の弱い者でも察知できる。気づいた警邏か調律師、もしくは十二生肖に会えれば万事解決。ミオの記憶から消すのも、幻妖の存在だけで済む。
(早く、誰か気づけ!)
「ゆ、くん……はっ、はぁっ、わ、たし……」
「あと少しだから――」
一般人の体力では尽きるのも早い。まして、悠の速さは鍛えているものだ。スポーツ選手ならまだしも、帰宅部で、まともな運動は体育だけのミオがついて行けるはずもない。
頑張って、と励まそうとした言葉は、振り返った瞬間に視界に入ったもので止まった。
「ミオ!」
「え……?」
ミオを抱えて横に飛んだのとほぼ同時に、ゴウ、と今までいた場所を炎の塊が舐める。
地面に体を打ち付ける際、なるべく彼女に負担を掛けまいと抱え込む。半袖から出ていた腕が地面と擦れて痛いが構っている場合ではない。
「っ、大丈夫……?」
「げほっ、げほっ……。……う、ん……はぁっ、だい、じょぶ……」
何が起こったか分からないといったミオは息さえ整わない。
申し訳ないと思いながらも彼女を起こし、自分の背後に庇う。
目の前には、炎の鬣を持つライオンがいた。獲物を捕らえたと舌舐めずりをしながら、それでも様子を窺っているのかまだ距離は詰めてこない。
「ごめん。僕が甘かったんだ」
「な、なに? どういうこと?」
「本当にごめん。絶対、僕が守るから。だから、今は……オレから離れるな」
「……うん」
悠は狼から視線を逸らさない。一人称と共に雰囲気の変わった悠に、ミオは頷くしかなかった。
困惑するミオに説明をする暇はなく、ただ信じてほしいと言葉に思いを込めた。
自分に関する記憶を消したくない。ならば、すべてを覚悟するしかない。
拒絶だけはしないで、と最後に願いつつも悠は唱えた。
「宝月、制限解除。――形態、神使」
『あれっ? 予想以上にピンチなの?』
『だぁれ?』
「ネズミが……喋ってる」
「あとでね」
黒い光を発して現れたのは、黒と茶の二匹のネズミ。
黒ネズミの御黒は対峙するライオンと一般人であるミオを見て目を丸くし、茶ネズミの茶胡は悠の肩に登ってミオを見ると小首を傾げる。
女性はネズミ嫌いが多いというイメージを持っていた悠は、悲鳴を上げることなく唖然とするミオに少なからず安堵した。ただ、今の状況が怖がっている場合ではないからかもしれないが。
『うわ、ライオンだ! 食べられちゃう!』
『ちゃう!』
「大丈夫だ。御黒、茶胡。――
炎のライオンにたじろいだ御黒と茶胡を落ちつかせつつ、唱えるように指示を出す。
御黒が地を蹴って高く跳び上がり、あっという間にライオンの背後を取る。それとほぼ同時に茶胡も悠の肩から跳んだ。
二匹が「キィッ」と甲高い鳴き声を上げた瞬間、それぞれの前に地面と垂直に水の円盤が現れた。
「ガルル……」
「君さ、よくオレを狙ったね」
ライオンは自身を前後から挟む水の円盤に唸りを上げた。
円盤はまるで鏡のようにライオンを映しており、その中では本物と同様にライオンが唸っている。
ライオンを見据えた悠の声音は普段よりもずっと低い。
「ミオ。あまり見ないほうがいい」
「え?」
「ちょっと、刺激が強いかも。――
悠が妖しく笑って唱える。
それは一瞬の出来事だった。
御黒達の前の水鏡が割れ、無数の破片がライオンに突き刺さる。
ライオンは悲鳴を上げながらその場に倒れ、体は端から光の粒子となって消えていった。
「…………」
「……ごめん、ミオ。怖かっただろ?」
愕然としたままのミオを振り返って見た悠は、僅かに顔を顰めたものの、すぐに平静を取り戻して言った。
御黒と茶胡は悠の足元で顔を見合わせ、主人の異変に首を傾げた。
いつもなら、一般人に見られればすぐに記憶を消しにかかる悠が、容赦などない彼が、記憶の消去に取りかからない。
しばらくの間を空けてから、ミオはやっと悠をその視界にしっかりと収める。
「悠君は、『なに』……?」
「……十二生肖の、“子”。この世界とは別の世界に生きる者の、末裔だ」
「別の、世界……」
呟いて視線を落としたミオに、悠は心臓を握り潰されたような錯覚に陥った。「彼女なら」と抱いていた密かな期待が、「彼女もか」という落胆に変わる。
だが、それは自分勝手な感情だと押し込めて、ミオの両手首を掴んだ。
「ミオ。少しだけ我慢して。すぐに消してあげるから」
「何を?」
「さっきのこと。ついでに、僕にもう近づかないように書き換える。そのほうが、君にとってはいいだろ」
「…………」
悠を真っ直ぐに見たミオに気持ちが揺らぐ。嫌だ、と心は拒絶をしているが、やらなければ辛いのは彼女だ。また、周囲にも多大な迷惑を掛けてしまう。
ミオの額に手を翳す。
「もう、怖い思いはさせない」
それはどちらに掛けた言葉か。
結局は自分も傷つくのが怖いのだ、と自身の感情に内心で嘲笑が零れた。
悠が能力を発動しようとしたとき、ミオは額に翳された手を掴んだ。
「待って」
「っ!」
「忘れたくない」
「でも……」
すがるようなミオの瞳に決意が揺らぐ。
一時の想いだけで記憶を持ち続ければ、いずれ後悔するときがくるかもしれない。ならば、後悔する前に消してしまいたい。
気持ちが大きくなる前ならば、まだ辛さは少なくて済むのだから。
ミオは悠の手を掴んだまま、自身の想いを伝えた。
「私、怖いよ? でも、忘れるのはもっと怖い。悠君のそばにいたい。それはできないの?」
「…………」
初めて言われた言葉に心臓が跳ねた。拒絶ではなく、受け入れる言葉に期待が再び芽生える。
しかし、ここで消さなければ、と思う気持ちもあった。
「でき、ない……。君は、こっちに来るべき人じゃない」
『一般人が知っちゃいけない決まりなんだ。分かってよ』
『分かって』
悠の肩に登った二匹も真剣な口調でミオを止める。
普段ではあまりない口調と雰囲気に、やはり、歴代の十二生肖に付き従ってきた神使に違いないのだと実感した。
だが、ミオはそれでも折れなかった。
「誰にも言わない! 悠君のことも、さっきのライオンのことも。だから……」
「……っ、後悔しても知らないよ?」
「しない。忘れる方が、絶対に後悔する」
ミオの目に偽りはなかった。
本当なら、情に絆されるべきではないと分かっているのだが、それができるほど、彼女との繋がりや彼女への想いは軽くはない。
「分かった」
「悠君?」
「あとは、オレがなんとかする」
『『え』』
悠の決断に神使は揃って固まった。
そして、悠は携帯電話を取り出すと、アドレス帳を開き、年齢的な観点から形式的なリーダーである茜へと電話を掛けた。
「ああ、イノ姐? 僕だけど……ちょっとお願いがあるんだ。――うん。かなり重大かなぁ」
しばらく話した後、電話を切った悠はミオに向き直る。
不安な表情の彼女を見て笑うと、その頭を軽く叩くように撫でた。
「大丈夫。今、話してた人は怖い人だけど、優しい人でもあるから。君は何も心配しなくていい。オレがそばにいるから」
「うん……」
「これから、たくさん怖い思いをするだろうけど、オレといたら大丈夫だから」
「……うん!」
優しい笑みを浮かべる悠に安心したのか、ミオは何度も頷きながら涙を溢れさせた。
この時は、必ず守り抜くと決心した。泣きじゃくるミオを宥めるために抱きしめながら。
そして、景色が早送りされる。
ミオの記憶を残すために十二生肖や先代達に何度も頭を下げた。十二生肖は渋々ながらも承諾してくれたが、先代はそうはいかなかった。
結果的には十二生肖の助言もあって承諾してくれたが、必ず悠が監視をしておくという条件がついた。おかげで表の俳優業は断らざるを得なかったが、元々数を減らしてきてはいたため、名残惜しさはあまりなかった。
(彼女を守るためなら容易い条件なのに、僕はそれができなかった)
ミオが幻妖世界の存在を知ってから、僅か一週間足らずのこと。
その日、悠は別の任務でミオのそばを離れていた。
すぐに終わらせればいいと踏んで茶胡を彼女につけていたときだ。
悠が戻るまでミオから離れるなと言われていた茶胡が、突然、悠のもとに帰ってきた。かと思えば、妖狐……刻裏がミオに接触したと知らされた。
茶胡は刻裏の術によって弾かれたのだと。
現場に急行するも、時既に遅し。
ミオは地面にへたり込み、体には時折、静電気を具現化したような電流が走っていた。
そのそばで、冷たい目で彼女を見下ろしていたのは――
「狐!!」
「おや、早いな。いや、もう『遅い』か」
「お前、何を……!」
刻裏は悠を視界に収めると、どこか愉しげな笑みを浮かべた。
だが、すぐにミオへと視線を落とすと表情を消し去る。
「なぁに、彼女の願いを叶えてやった。その結果だ」
「彼女から離れろ」
刻裏に関わった人間はあまり良い末路を辿らない。
嫌な予感を拭いきれないまま、しかし、下手に動けば彼が何かを仕掛けるかもしれない状況下でできるのは、言葉と霊力による圧で牽制することだけだ。
だが、幻妖の中でもかなりの力を持っているという刻裏に、牽制程度の力が通用するはずもなかった。
「『悠の力になりたい』と思い込み、『普通から逃れたい』という本音を隠していた……哀れなものだな。自身の思いすら素直に出せぬとは。実に哀れで、愚かなことだ」
「お前がやったことだろう!?」
「否。導いたのはお前だ」
「お、れ……?」
まさかの言葉に思考が止まる。もしくは、薄々は気づいていたからか。
愕然とする悠を見て、刻裏は心の底から可笑しそうに笑った。
「はははっ! お前は知識こそ豊富だが、まだ心は幼いようだ!」
「何が言いたい……」
「あの日、お前が記憶を消していれば、彼女に甘さを見せなければ、“こう”はならなかった」
「っ!」
全身が凍りついたように動かない。
刻裏が言ったことは事実であり、何も言い返せなかった。
あの日、悠がきちんと記憶を消して自分から遠ざけさせていれば、こんなことは起こらなかった。彼女が「非現実」を望むはずがなかったのだ。
「ゆ、う、く……っ、痛い……」
「ミオ……?」
か細い、今にも消えてしまいそうな悲鳴に体はすんなりと動いた。
刻裏はミオから数歩下がる。
ミオの隣に片膝をつき、背中に手を当てながら俯く彼女の顔を覗き込む。
血の気は引き、病人かと思うほどに真っ青だ。そして、肉体の痛みを訴える声で至った答えに力が抜けた。
「人は自分のいいように思いをすり替える。それは本当のものと言えようか? 否。甘いぞ、小娘」
「なんで、もう……」
袖から覗いた肌に、小さな亀裂が走った。
先を見通せる刻裏ならば分かっていたはずだ。
しかし、彼は人の望みのままに力を与える。人の愚かさを……一般人と依人との違いを知らしめるように。
「私は欲する者には等しく与える。受け入れる器が小さければ小さいほど、破綻は早い」
「この……っ!」
「私を討ったところでもう変わらんさ」
刻裏へと体を捻りながらクナイを投げ放つも、宙へと容易く避けられる。
頭上から降ってきた刻裏の声は冷たいが、着地した彼は悠と目が合うと挑発的な笑みを浮かべた。
「さて、どうする? ネズミよ。小さな頭一つで考えは出ないか?」
「初期ならまだ手はある!」
「愚かな。言っただろう?」
「うっ……」
「……?」
ミオが小さく唸って上体を丸める。
嫌な予感がした悠の耳に届いたのは、刻裏の諭すような声とミオの悲鳴だった。
「『器が小さければ小さいほど、破綻は早い』と」
「あああぁぁぁぁ!!」
「ミオ――!!」
眩い光が彼女を中心にして発せられ、悠の声さえも飲み込んだ。
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