第4話 亀裂
放課後になってすぐ、タイミングを見計らっていたかのように帰ってきた月神は、悠と会うと言う都季に意外なことに素直に頷いた。
てっきりまた怒るかと思っていたが、今回に関しては避けては通れないと覚悟していたのだろう。
悠が入院している病院は、魁の言っていたとおり局のすぐ隣にあった。
見た目こそ四階建てのマンションを思わせるが、中に入れば病院特有の薬品の匂いが鼻をつく。フロアには診察の順番待ちをする人が何人か座っていた。
都季は見事なカモフラージュに感心しつつ、既に定位置となりつつある肩にいる月神を見て訊ねる。
「ここに来て言うのもなんだけど、局での話はもう終わったの?」
「粗方の」
ぼかした返答の仕方からして、まだ片付いていないようだ。
話が終わってもいないのに戻ってきてもいいのかと思ったが、終わりが見えず切り上げてきた可能性もある。
都季は自身が聞くべきことではないと判断し、それ以上は追究しないことにした。
「そっか。大変だな」
「変わるか?」
「は?」
思考と共に足が止まった。
あまりとやかく言わずに労いの言葉だけをかけたのだが、にやりとした笑みを浮かべた月神に労いは不要だったようだ。
「局を変えると豪語するのだ。まずは共に行くか? お前にはその資格がある」
「いや、今は遠慮しておく」
月神が一緒にいるとしても、局の頂点たる彼の立場など御免被る。
即答すれば、月神は「つまらんのぅ」とふて腐れた。
他愛ない話をしながらエレベーターで四階まで上がる。
エレベーターの扉が開いた先には、紫苑と龍司の姿があった。
「おう、来たか」
「虎皇さんに……辰宮さん?」
「二人も来てたんだな」
「ええ。念のために」
軽い口調の魁に龍司は笑顔で頷いて返す。だが、その言葉には重みが感じられた。
まるで、悠が危害を加えることを想定しているかのような。
彼らを先頭にして、都季達は悠の病室に向かう。病室はエレベーターから最も遠い、西側の端にある個室だ。
団体での訪問に、すれ違った看護師らしき人は目を瞬かせていたが、行く先を見ると納得したように業務に戻っていった。
紫苑が扉をノックし、中にいる悠に声をかける。
「悠ー。都季達が来たぜ」
「……?」
「おかしいのぅ……」
「二人とも、どうかしたか?」
「いえ、悠の気配が……」
怪訝な顔をする龍司と月神を不思議そうに見た後、紫苑も室内の気配に集中する。悠の力の残滓は残っているが、それは先ほど会って話をしていたときよりも薄い。
先に異常に気づいたのは、耳の良い琴音だった。
「悠、屋上にいる……!」
琴音が声を上げたのとほぼ同時に、紫苑が勢いよく扉を開ける。
室内に悠の姿はなく、空気の入れ換えのために開けた窓から入る風でカーテンがそよいでいるだけだ。
「屋上だな!? 行くぞ!」
「げ。階段?」
「龍司」
「――宝月、制限解除。形態、神使」
部屋を出てすぐ側にある非常階段へと駆け出した紫苑と琴音だが、魁はまだ完治していない足を思い出して走り出せなかった。
それに気づいた月神が龍司を見れば、彼は既に承知していたようだ。素早く唱えると窓の外で光が発した。
都季は光につられて外に視線を向ける。そして、捉えた姿に息を飲んだ。
窓の向こうから、爬虫類特有の細く黄色い目がこちらを見ていた。頭には二本の角、口元には左右一本ずつの長い髭、首周りにはたてがみが生え、緑色の鱗が体を覆っている。
全体は見えないが、それらの特徴と一致する空想上の動物が何かは、まだ幻妖に詳しくない都季でも分かった。
「龍!?」
本などでしか見たことのない、『龍』そのものだ。
驚く都季をよそに、喚び出した龍司は真剣な表情で窓辺に歩み寄ると、その窓から龍の頭に飛び乗った。
龍司の体躯とほぼ変わりない大きさの頭だが、本来の姿のときと同じ力は持っているのか人を乗せる余裕はあるようだ。
「翡翠。上までお願いします」
『心得た』
「更科さんも行きますよ」
龍司の神使、翡翠も悠の神使と同じく人語を操る。知能の高さゆえではあるが、都季は唖然としたまま翡翠を見つめてしまった。
龍司に名前を呼ばれて我に返ると、魁も翡翠のたてがみの少し後ろ辺りに乗っていた。
迷惑を掛けまいと慌てて窓辺に駆け寄り、龍司の手を借りながら翡翠に乗る。
病室が最上階であったため、屋上へは一瞬だった。
『足元に気をつけよ』
「あ、ありがとうございます」
龍司の手を借りつつ翡翠から降りると、翡翠の体が光に包まれ、一メートルほどのサイズまで小さくなった。様々な部位を除けば、その辺りにいる蛇と変わりない。
都季が屋上を見渡そうとしたのとほぼ同時に、一足先に屋上に降りていた魁が声を上げた。
「悠!」
魁の視線の先を辿れば、病院の東の端になる柵の外側に悠の姿があった。右腕は三角巾を使って首から吊るし、顔にもガーゼが貼られている。
ニュースで取り上げられた爆発が悠と一夜の戦闘が原因であると聞いたが、ダメージを和らげていなかったらどうなっていたか。考えただけで恐ろしくなった。
「何やってんだよ! 危ないだろ!?」
「魁、落ちつけ。あんまり刺激すんな」
ケガを忘れて駆け出した魁を、やや遅れて到着した紫苑が慌てて止める。
いくら悠が身軽とはいえ、ここは四階の建物の屋上だ。ケガをして不自由な分、落ちれば一溜まりもない。
しかし、悠は場所など気にした様子もなく、昔話を始めるかのようなゆったりとした口調で言った。
「ねぇ、先輩」
「?」
いつもと違って名前がつけられていないため、誰を対象にしたものか分からなかった。
悠は全員に呼び掛けたのか、はたまた独り言なのか、応答はなくとも言葉を続けた。
「この世界は、すごく不条理だと思いませんか?」
「は……?」
「初めは、“その時”がきたら迷わずできるって信じてた。でも、実際、僕はできなかった」
悠はどこか遠くを見ていた。
彼の言葉の意味が分からず、また、下手に声を掛ければ危うい状況で、言葉などいくら思いついても誰もがそれを喉から出せなかった。
「こんな世界なら、生きていたって意味ないや」
「ゆ、う……?」
「ずっと我慢していましたけど、先輩達といると居心地が悪いんですよ」
上体を捻ってこちらを向いた悠が悲しげに笑う。
初めての表情と言葉に、まるで芝居でもしているのかと錯覚させられる。
現実離れした儚さに、都季は思考を奪われた。
「現実を知らないから……本当の事を知らないから言える綺麗事ばっかでさぁ。知ってしまったら、見てしまったら、同じことなんて絶対に言えないくせに」
悠の言葉を理解することもできない。彼がなぜ、周囲を否定しているのか、嘆いているのか分からなかった。
だが、正面を向いた悠が一歩踏み出したとき、現実か非現実かあやふやになりそうな感覚から引き戻された。
今、目の前で起ころうとしている事に、足元から沸き起こった震えが全身を駆け抜けた。
「やめろよ……。冗談なら、タチ悪いぞ?」
絞り出した声が震えのせいで掠れる。今すぐに駆け出して柵のこちら側に引き戻したいのに、足が言うことを聞かない。
悠が体ごと振り返った。
「都季先輩。僕は――あなたが大嫌いだ」
「待って、悠!!」
侮蔑の表情さえ、拒絶の言葉さえ、理解する以前に頭に入らなかった。
悠の足が屋上の縁を蹴る。
体が宙に舞う。
誰よりも早く動いたのは紫苑と龍司だ。
「このっ!」
「は!? っ、翡翠!」
紫苑はフェンスに手をつくと軽々と飛び越え、悠を掴もうと自身も屋上の縁を蹴った。
それに驚いたのはフェンスを飛び越えずに留まった龍司だ。
飛び出した紫苑の体が、何かに襟首を引っ張られて空中に浮く。襟は容赦なく紫苑の首を絞めた。
「ぐぇっ!?」
『寅の小僧、危なかろう』
「お主まで飛び降りてどうする」
襟首を掴んだ……正しくは「咥えた」のは、宙に浮いている翡翠だ。見かけによらず力は本来のものに近いおかげで、顎一つで人間の体を空中で保てている。
月神も翡翠の隣に浮いて軽く注意すれば、屋上に降ろされた紫苑は不満そうな顔をそのままに言い返した。
「でもよ、悠が……!」
「いません」
「え?」
龍司の言葉が理解できずに目を瞬かせる。
フェンスを越えて下を確認した龍司は、小さく息を吐くとメガネのブリッジを指で押し上げた。
「下に姿がありません。どうやって逃げたかは分かりかねますが」
「……ホントだ」
紫苑も下に目を向ければ、なんの変哲もない地面と木々があるだけだった。
悠のケガが見た目よりも治っていたなら、木をクッションにして下りることは可能だろう。もちろん、他の可能性……悠に協力者がいるならば話は別だが。
二人がフェンスを越えて屋上の内側に戻れば、呆然としたまま立ち尽くす都季に気づいた。近くにいる魁や琴音も表情が険しい。
「更科さん」
「は、はい」
「――……一度、依月に行きましょう。茜さんにも報告をしておかなければ」
びくりと肩を跳ねさせた都季は、困惑の色を隠しきれていない。
そんな彼に掛ける言葉が見つからず、開いた口からは別の言葉が出た。都季の肩を優しく一度だけ叩いてから、横を通り過ぎる。
非常階段ではなく昇降口から降りるために扉を開きながら、龍司は深く息を吐いた。
「こんなことになるのなら、さっさと話をして対策を練っておくべきでしたか」
『それはどうだろう』
ぽつりと呟いた主の言葉に、翡翠は目を細めて宙で止まった。
数段下りた龍司も足を止めて振り返れば、開いたままの昇降口から未だ動かない都季の姿が見えた。
確かに、悠から話を聞いた時点で動けば今の状況はなかっただろう。しかし、悠が反発ともとれる行動を取ることになった原因はずっと前にある。
例え茜達に話をして対策を取ったとしても、それが最善に繋がるとは言い切れない。
『どう足掻いたとしても、「避けられぬ運命」というものはあるからな』
「…………」
もし、龍司が悠のことを話して防いだとしても、また別の形で似た事象が起こる。
龍司や翡翠に刻裏が持つ先見の力はないが、それは過去の辰の記憶を見ればよく分かることだ。
『しかし、「避けられぬ運命」は、「越えなければならない運命」でもある。お主の継承の時のようにな』
「…………」
越えられなければ、そこですべてが終わる。
例に出された継承を思い返した龍司は、ぐっと手を握りしめた。
激しい頭痛と吐き気に見舞われ、生死の境さえさ迷った数日。なんとか意識を取り戻しても、混ざり合った記憶のせいでまともに動くことはできなかった。
今回、壁を乗り越えなければ、先にあるのは何だろうか。
思わず悪い方向へと考えてしまった龍司を見かねて、小さく息を吐いた翡翠は口調を少し軽くした。
『なに、猫の件も片づいたのだ。今回の件も、お主らならば乗り越えられよう。継承のときと違い、一人ではないのだからな』
「……そう、ですね。ありがとうございます。翡翠」
『礼には及ばん』
迷いが生じれば、すかさず道を正してくれる。もちろん、それはいつもではないが、必要なときに翡翠は助けてくれるのだ。
満足げに笑んでみせた翡翠は、『早く依月に行って茶でも飲むとしよう』と龍司の横をすり抜ける。
龍司は小さく笑みを零してからその後に続いた。
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