第4話 “猫”
茜と紫苑による『特訓』という名のスパルタトレーニングは、陽が沈もうとする時間まで続けられた。
途中、都季だけ体力が尽きて倒れてしまい、余裕な顔で取り組んでいた悠に「うわ、弱すぎ。もやしですか都季先輩」と容赦なく痛い言葉を浴びせられたのは、彼の能力で今すぐに消してほしい記憶だ。
最も、本人に頼んだところで「嫌に決まってるじゃないですか。むしろ刻みつけたいくらいです」と素晴らしい笑顔で拒否されそうだが。
「絶対、明日は筋肉痛だ……」
「もっと鍛えんか。力を使うには体力も必要なのだぞ」
「分かってるけど、いきなりグラウンド百周とか無理だろ」
東館の北側にはグラウンドがあり、そこで警邏部の人達は走り込みをしたり、戦闘訓練を行っている。
今日はグラウンドで訓練をする姿はなかったが、東館からは掛け声が響いてきていたので訓練自体はあったようだ。
都季が訓練を終わらせた後、魁達は会議があるとのことで帰宅は二人だけとなった。
茜が車で送ろうかとも言ってくれたが、会議があるなら遅れさせるわけにはいかないと、今回は丁重に断ったのだ。本当は送ってほしかったが。
一般人に姿の見えない月神には器であるピアスに戻ってもらおうとしたが、月神は「問題ない」と言って都季の肩にいるままだ。
今は周囲に人がいないからいいが、端から見れば一人で喋っているようで最初は嫌だった。しばらく歩いた今となっては、もはやどうでも良くなり、忘れてしまっている。
都季は携帯電話を取り出し、琴音から送られてきたメールを読みながらあることを思い出した。
「そういえば、前に魁達も説明してくれてたけど、今日も茜さん達が『属性には得意不得意が、性質には他に及ぼす影響の違いがあるから、全部頭に叩き込んどけ』って言ってただろ? で、つっきーの属性と性質って何?」
琴音からのメールには、属性の得意不得意や性質による影響などが書かれていた。聞いてはいたが、文章で残っていれば忘れても確認できる。
しかし、肝心の月神については属性と性質が分からない。
今のうちに勉強しておこうとしたものの、月神から返ってきたのは耳を疑いたくなるような言葉だった。
「我は幻妖の長だぞ。全ての属性を持ち、両方の性質を持つ」
「なに、そのチート設定……」
「『ちーと』? それは分からぬが……全ての属性を持つとはいえ、今のお主ではただの宝の持ち腐れだ」
げんなりした都季だが、目を瞬かせた月神からはすぐに説教じみた言葉が返された。その言葉も最もなので、何も言い返せなかった。
月神の力を使おうにも、今の状況では都季の体力や精神力が足りず、以前のようにすぐに倒れてしまうのが落ちだからだ。
「全ての属性、両方の性質を持つということは、とてつもない力を持っているようにも思える。事実、滅多におらんからの。しかし、使うにはそれぞれの属性や性質を知っておかなければならない上、多大な霊力が必要なのだ」
「それで、鍛錬で体力と霊力をつけろってこと?」
「体力はともかく、霊力は生まれつきのものだ。霊力を増やそうとするのは、ちと難しいの。我のように絶大な霊力を持つものといれば多少は移ったりはするが、それも定着するかはその者次第だしのぅ」
できるのは、霊力を思いどおりに使えるようにするくらいだ。
茜が都季に言った「霊力を鍛えろ」というのは、『霊力を増やせ』というものではなく、『霊力を使いこなせるようにしろ』という意味だった。
どれほどの力なのか目にできない分、本当に月神の力を使えるようになるのかと半信半疑になる都季だが、月神がそれを否定した。
「前は言わなかったが、お主の場合は結奈が託したあの水晶玉で抑えておるだけで、実際は多大な霊力を保有しておるはずだ」
「そうなの?」
「ああ。霊力を抑えている今、その穴があるからこそ、器があったからとはいえ、我がお主に宿れたのだぞ」
「実感ないなぁ……」
服で隠れてはいるが、月神の存在を局以外の者に気づかれないよう、今も水晶のペンダントを着けている。
今まで都季に霊力がある自覚がなかったのは、身に着けていないときでも霊力を抑えていたからだった。
初めこそ、月神の存在を他の十二生肖から隠すためのペンダントだったが、実は様々なところで役に立っているようだ。
それでも、自身に力があるようには思えない都季に緊張感は欠片もない。
月神は溜め息混じりに言う。
「まったく。これでは我が再び連れ去られても文句は言えんの」
「それ、つっきーは手出ししないこと?」
「今回のように不意を突かれればあり得る。さらに、相手が一般人ならば手出しはできぬ。我は基本的に一般人と接触をしてはならんからの」
「……俺も一般人だったのに」
「だから、あれは緊急事態だったのだ。そもそも、お主は完璧な一般人ではなかろう」
「うっ」
特異体質者である巫女の母の血を引く、世間一般でいうところの末裔に当たる。
ただ、特体者の子供が必ずしも特体者というわけではない。霊力を持たなければ特体者の子供でも一般人と同じ扱いだ。
月神を保有する前の都季は、抑えられているとはいえ霊力を持つことに変わりはないため、『特体者』になる。
特体者と依人は違うが、どちらにしても一般人とは言えない。
都季がいくら一般人だったと主張しようとも、抑えられている霊力がそれを否定する。
「まぁ、早く“こちら”に慣れろとは言わんが……ん?」
「どうかしたか?」
手のひらを返したような物言いをした月神だったが、なにかに気づいて都季の肩から飛び立った。
都季より数十センチ高い宙に浮いてどこか遠くを見ていたかと思いきや、突然、ハッとした月神は声を上げた。
「いかん! 歪みだ!」
「歪みって……たしか、卯京さんが言ってた、こっちの世界と幻妖界を分ける『壁』にできる穴、だっけ?」
「そうだ。毎回、規模は異なるが、今回のはまた大きいな。場所はこの近くか……都季、すぐに魁達を呼べ!」
目線の高さに降りてきた月神に言われるがまま、都季は携帯電話を取り出してアドレス帳から魁の番号に掛ける。
会議はまだ始まっていないのか、魁はやや間を置いてから電話に出てくれた。
《――はい》
「魁? 俺だけど……急ぎで向かってほしい場所があるんだ」
《おお、都季か。いいけど、どうかしたか?》
魁は着信が誰からかを確認せずに取ったようだ。都季と知るなり口調が砕けた。
まだ歪みに気づいていないのか慌てた様子はなく、都季はどう伝えようか悩みながらも口を開く。
「それが――え、ちょ」
「局はまだ気づいておらんのか。歪みだ」
《うおっ、月神!? えっ。歪みって、どこにっすか?》
「場所は局の東にある雑木林だろう。近くに行けば、お主らも感知できよう」
突然、月神が携帯電話を持つ都季の手を掴んで耳から離させると、代わりに通話口で説明した。
通話の相手が月神に変わったことに驚く魁をよそに、月神はさっさと場所を告げて都季の手を離す。都季からも離れると、行動を急かすように見た。
「今からつっきーと一緒に向かうから、魁達も頼む」
《了解。こっちもすぐに行くけど、あんまり無茶すんなよ》
「ありがとう。じゃあ、また後で」
電話を切ってすぐ、月神は都季を導くように少し先の宙を飛ぶ。
都季は彼を見失わないよう、その後を追って走りだした。
「元々、この辺りは我ら側の人が住む区画だからまだ良かったの」
「なんで?」
「一般人と違って歪みに気づきやすく、また、それが危険だと知っているからの。発生すればまず近寄らぬ」
「なるほど」
「まったく、近場だから仕方がないとはいえ、局よりも住人が先に気づいてどうする。一度、体制を見直す必要があるのぅ」
月神側の人、というのは十二生肖や依人のことを指している。
月神の言葉を裏付けるように、視界に入った家の外にいた人達は異変を感じてすぐに室内に戻って行った。
それを横目に走っていると、前方から歩いてくる青年を見つけた。
青年は焦った様子もなく、まるで歪みに気づいていないようだ。また、先を飛ぶ月神にも視線を向けていない。
(一般人? 怖がらせるのも悪いし……下手に言わないほうがいいか)
歪みのできた方向に向かっているなら放ってはおけないが、今は逆方向に歩いている。変に注意をして訝しませるより、何も言わないほうがいい。
そう結論を出した都季は、そのまま青年の隣を走り去ろうとした。
しかし、青年の横を通った際、不思議な感覚がして足を止めてしまった。振り返って青年を見るも、彼は何でもないように歩いているだけだ。
「……?」
「都季。何をしておる? 行くぞ」
「う、うん」
少し先で止まった月神に催促され、首を傾げながらも再び彼の後を追った。
駆け出した都季の足音を聞いて、青年が歩いていた足を止めて振り向く。
まだ月神はこちらを見ており、その目は射抜くように鋭く細められていた。
「なんで、月神が?」
背を向けて去る月神と都季を見たまま、青年は二人の繋がりが分からずに立ち尽くす。
すれ違い様、都季から感じた霊力はなにかに抑えられているが、どこか懐かしい気がした。また、本来持っている霊力は強いと分かる。それが月神と質の違うもので、月神が側にいるために移ったものとも違うということも。
そのとき、頭上から軽やかな声が降ってきた。
「やぁ。調子はどうかな? “猫”よ」
「……狐か。役の名前で呼ぶなって何度言えば分かるんだよ」
「ははっ。それは悪かったな、
声がした方を素早く判断してそちらに顔を向ければ、右側にある民家の塀の上で楽しそうに笑う刻裏を見つけた。
音もなく地に降りた彼は、まるで都季達の姿を隠すように「猫」と呼んだ青年、一夜の前に立った。
「不思議だろう? 一般人と月神が一緒にいるのは。正確には『元、自称』一般人だが」
「アイツは何なんだ?」
機嫌良くすらすらと話す刻裏に問えば、彼は「巫女の末裔だよ」と短く返した。理由を知りたい一夜にはそれだけで十分だった。
納得したように「分かった」とだけ言って背を向けた彼に、刻裏は問いかける。
「一夜よ。まだ局が憎いか?」
「……アンタには関係ないだろ」
人工的に降らされた雨の中、自身を中心に広がる血と腕に抱いた体が冷えていく感覚。
刻裏の一言でフラッシュバックした記憶をすぐさま振り払い、短くそう返した。
嫌悪感を露にした一夜を前にしても、刻裏は引き下がらなかった。
まるで、何かに警戒し、釘を刺しておこうとするかのように。
「そうだな。しかし、末裔が絡むならば話は別だ」
「一般人を巻き込む気はない。例え、『自称』だろうとも、末裔だろうともそれは変わらないな」
まだ話を続ける刻裏に苛立ちが募る。
顔だけを向けてそう言えば、彼が望んでいた回答だったのか、安心したように小さく息が吐かれた。
「ならば良い。さすがに、『十二生肖の補佐』が敵では骨が折れるからな」
「複雑骨折でもしてろ」
「ははっ。……おや? お前にうってつけの者が来たようだ」
「はぁ?」
吐き捨てるような一夜の暴言を軽く流すと、刻裏は彼の進行方向に現れた新たな人物に目を向けた。
視線を落としていた一夜が前を向けば、そこには灰色のパーカーを着た少年がいた。フードを目深に被っており、黒い大きなマスクをつけているせいで素顔は分からない。
先ほどまで、少年の気配は微塵も感じられなかった。纏う空気にはほんの僅かな敵意が含まれているものの、それはどちらかといえば主に後ろの刻裏に向けられている。
警戒心を露にした一夜に対し、少年は敵意を消し去ると無邪気に危険な言葉を発した。
「お兄さん、局を壊したいの?」
「……だったらなんだ」
少し高めの少年の声は聞き覚えがあるが、思い出そうとすると記憶がテレビの砂嵐のように荒れる。混ざるノイズが気持ち悪く、思わず顔が歪んだ。
一歩近づいた少年に対し、一夜は一歩下がった。
「『更科都季』」
「は?」
「さっきすれ違ったでしょ? 月神の器を保有する彼を使えば、局は簡単に壊れる」
「使えばって……」
まるで、あの青年を道具として扱っているような言い方だ。
幼い雰囲気はあるものの、彼は意味を分かって言っているのだろうかと少し怖くなる。
すると、今度は後ろ……刻裏から僅かな殺気が滲んだ。
「少年。私がいるのを忘れられては困るな?」
「狐、お前……」
「局だけならばともかく、あれに手を出すならば私も考えるが?」
刻裏が一夜の隣に歩み出た。その口元は笑っているが、目は剣呑に細められている。
一夜は刻裏と知り合ってまだ数年だが、初めて見る激昂の片鱗は、それだけ「更科都季」という存在が大事だと示していた。
ピリピリとした空気を前にしても、フードの少年は可笑しそうに笑いながら狐を宥める。
「あははっ。忘れてないさ。それに、別に彼を手にかけなくたっていいんじゃないの? だって、器は彼自身じゃない。巧妙に隠されているけれど、彼が着けているピアスだ。だから――」
――“月神だけ”を壊せばいいんだろ?
そう続けた少年の言葉がやけに腑に落ちた。
月神の器が都季にあるとはいえ、命まで繋がれているわけではない。
都季の役目は、あくまでも器であるピアスが壊れないよう、その身に安定させているだけなのだろう。
一般人は巻き込みたくないが、月神の器であるピアスだけを狙えばいいのではないか。しかし、それは結局は巻き込むのではないか。
頭の中で肯定する自分と否定する自分とが言い合いをする。
「局を外から見てどうだった? 中は何か変わってる? 変わるわけないよねぇ。だって、変えようとする人がいないんだもの」
「…………」
「お兄さんなら夜襲とか簡単でしょ? それに、護衛の十二生肖は二十四時間張りついてるわけじゃない」
そう言うと、少年は小さく折った紙を一夜に握らせる。
開いて見れば、どこかの住所と部屋の番号が書かれていた。
その意味が理解できずに見ていた一夜だったが、「更科都季はそこにいるよ」と言われると同時に少年を見る。
だが、彼は既に目の前にはおらず、刻裏がいた塀に囲われた民家の屋根の上にいた。
「せいぜい頑張りなよ」
「おい!」
あっという間に姿を消した少年を追うこともできず、一夜は住所が書かれたメモに再び視線を落とす。
隣にいる刻裏が小さく溜め息を吐いた音が聞こえ、メモを握りしめた。
「どうする?」
「……殺しはしない」
「……そうか。ならば、好きにするがいい」
刻裏はそう言い残して姿を消した。
一人になった一夜はメモを上着のポケットに入れ、澱んだ空気が溢れる方角の空を見上げる。
「俺は、間違ってないよな……? 『
暫くその場で思案した後、背を向けて歩き出した。
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