第24話 暗と明
チィ、と暗い路地裏にネズミの声が響いた。
排水溝の蓋から顔を覗かせていた茶色いネズミは、壁に寄り掛かりながら歩いてくる一人の青年に気づくとすぐに体を引っ込める。
足を引きずる青年の体は、暴行被害にでも遭ったかのようにボロボロだ。口の端は切れ、体の至る所に裂傷がある。
傷口から流れ出る血が、歩いてきた後に斑点を残していた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ……げほっ、ごほっ! ……くそっ! あいつらさえ、いなかったら……!」
悔しさと怒りから壁を殴る。力加減ができず、骨が砕けたような音と共に血が滲んだが、感覚が麻痺しているせいで痛みはない。
ただ、あの十二生肖の少年の笑みが浮かぶたびに苛立ちだけが募った。
月神の持ち主を追いつめたというのに、あと一歩のところでまた邪魔をされた。正確には、前回邪魔をしてきたのは彼ではないのだが、同じ十二生肖には変わりない。
「子峰悠」と名乗った
ネズミ達は人の体を這い上がり、不都合な記憶を食い尽くしていた。
あの場にいた一般人が記憶を奪われ、不気味な空間ができあがったのだ。
最も、記憶を奪われたのは外や近くの建物内にいた人だけであり、車道では多くの車が走っていた上、異変に気づいて路肩に車を止めて様子を窺う人もいた。
冷静に走行する車を見ていた悠が、「そうだ」と何かを閃いたかと思えば、笑顔で恐ろしいことを口走った。
――この光景を“日常”にすればいいんだ。
起こした自分が言うのもおかしな話だが、どう見ても町では異常が発生している。だが、彼はそれを普通の事へと変換させてみせたのだ。
もはや、今まで自分が見てきたものすら、普通だったのか信じられなくなりそうな行いを前に呆然としていると、悠はネズミ達と共にどこかへと姿を消していた。
入れ違いに現れたのは、メガネを掛けた優男と温和そうなショートヘアーの女性だった。
――十二生肖が“辰”、辰宮龍司。第三級破綻者、佐藤圭介の取り締まりに参りました。
――十二生肖が“丑”、丑条花音。取り締まりの為、付近一帯を一時隔離しています。貴方に逃げ道はありません。
新たに現れた二人は見た目こそひ弱そうだが、その力は十二生肖なだけはあった。
先の悠は手を抜いていたのかと思うほど、二人にはまともな攻撃もさせてもらえないまま、あっという間に追い詰められた。
目の前に現れた子狐が助けてくれなければ、既に塵となっていただろう。
「次こそ、絶対に――」
「へぇ。三級の君に、次があるの?」
「っ!?」
呆れ混じりの揶揄に勢いよく振り返る。
そこには、いつもと同じ灰色のパーカーを着たあの少年がいた。
息を飲んで固まる青年、佐藤に対し、少年は両手をパーカーのポケットに入れたまま、一歩一歩ゆっくりと近づいてくる。
マスクは着けていないが、路地裏が暗いせいもあり顔はよく見えない。
「何度も何度も失敗して、挙句の果てに月神はあの人に定着した。その等級でまともな会話ができているのは褒めてあげる。でも、『末期』のアンタがどうこうできるはずないだろ?」
「う、うるさい! そもそも、お前が……!」
佐藤が刻裏と接触できたのは、この少年の手引きがあったからだ。
復讐をしたいと願ったのは事実だが、こんなことになるなんて思わなかった。少年は破綻のリスクを話してくれなかったのだ。
文句をぶつけようとした佐藤を、少年がその威圧だけで制した。
「あーあ。負け犬はしつこいくらいに吠えるから鬱陶しいんだよねぇ」
「この、ガキ……!」
「後悔したって後の祭り。失敗作は黙って土に還りなよ」
「な、んだと!?」
「ばいばい、お兄さん」
鈍い音が下から聞こえた。
見れば、少年がいつの間にか手にしていたナイフが左胸に刺さっている。
顔を上げれば、少年の顔が僅かにだが見えた。
綺麗に笑った彼の顔には見覚えがあったが、なぜか記憶がはっきりしない。意識が朦朧として、うまく頭が働いていないからか、それとも――
――チチッ。
何処かからネズミの鳴き声が聞こえた。
直後、じわり、と今まで麻痺していた感覚が一気にそこに集まったかのように熱くなる。相変わらず痛みはないが、血が溢れているとよく分かった。
「ぐ、あ……」
膝から地に崩れ落ち、辛うじて残っていた意識を手離した。
体は土塊だったかのように崩れ、端から風化していく。
少年はそれを冷ややかな目で見下ろしていたが、すぐに背を向けて歩きだした。
「まったく。使えない奴」
吐き捨てられた言葉は誰かに聞かれることもなく空気に溶けていった。
どこからともなく現れた黒いネズミが、風化する服を見てキィ、と鳴いた。
* * *
久しぶりに温かい夢を見た。
今までの暗い雰囲気のものから変わって、懐かしい、家族で笑い合っていた頃の夢だ。
母がキッチンで料理をし、都季はリビングで父と一緒にテレビゲームをしていた。
どんな遊びでも手を抜かない父に、都季も負けじと食い下がる。その様子を、母はいつも微笑ましそうに眺めていた。
その空間が遠退き、目を覚ますと数日ぶりに見る天井があった。
「魁の、部屋……?」
ベッドから上体を起こして室内を見渡す。間違いなく、魁の自宅だ。
服も黒いスウェットに変わっている。腕に巻いていた布は取り払われ、綺麗な包帯が巻かれていた。
たしか、廃工場で破綻組や幻妖と戦っていたはず、と都季が記憶を辿り始めたのと扉が開いたのは同時だった。
「おっ。起きたな」
「魁……」
「昨日、戦闘が終わってすぐぶっ倒れたんだよ。服は破けてたりしたから、俺が着替えさせたんだ」
「そっか。ありがとう」
記憶がないのはそのせいか、と納得した。
月神の力を子狼の姿に具現化した反動とのことだが、使っていればその内身体が慣れてくるらしい。
布団を捲って端に腰掛ければ、会話が聞こえたからか茜と琴音も部屋に入って来た。
「更科。気分はどうだ?」
「もう、大丈夫……?」
「ちょっと怠い感じはありますけど、大丈夫です」
「そうか。一応、局にお前のこと登録しなくちゃいけねぇから、今日は学校休みな。着替えて飯食ったら行くぞ」
疲労感は忙しい日のバイトを終えたときに似ている。素人判断ではあるが、今日一日休めれば問題はないだろう。
手早く用件だけを言って部屋を出ようとした茜に声を上げたのは魁だった。
「イノ姐! 話が違うぞ!? 局には入れないって……!」
「月神の器は定着してんだろ? なら、入らずとも登録は必要だ。仕事に関わるかは本人の意思次第だが、魁はあたしらより先に都季を見つけてるし、無理強いはしない」
「局に入れるって?」
「お前を、月神の『保有者』として局の一員に加えるってことだ」
そうなれば、魁達と同じように依人達の世界に深く関わっていくことになる。
だが、もし関わるのが嫌ならば、「月神の保有者」ではなく「月神の“器”の依人」として局に名前を登録し、保護下に置かれるだけだ。
「意味は違うんですか?」
「『保有者』には『月神が認めた人』という意味もあるから、お前の立場があたしらに近くなるし、局での仕事もある。『器』なら、聞こえはあれだが月神が入っているだけだから、都季自身の立場は今と変わらないし、仕事はこない」
似ているようで意味は大きく違ってくるようだ。
どちらが良い選択肢なのか考える都季に、茜は諭すように言葉を続ける。
「月神を受け入れてんだから、もう一般人のままではいられない。依人として局に登録する必要がある。ただ、その後の道はあたし達には制限できない。義務付けられてるのは年に一度の診断と、むやみに能力を使わないことや、一般人を能力で傷つけないこと、幻妖世界のことを話さないってことくらいだ」
「あとは、更科君が選ぶの」
「俺が……」
「都季」
魁が都季の正面に膝をつき、両肩を掴んできた。その目は不安や後悔に満ちている。巻き込みたくない気持ちはずっと変わらないようだ。
「嫌なら、名前だけの登録で今までみたいに暮らせる。月神が離れない以上、俺達の警護はいるけど、もう危ない目には遭わせない。俺が全力で守ってやる。月神を離す方法だってまだあるかもしれないし、探してやる。だから、断ったっていいんだ」
「…………」
今までと違って、魁には焦りにも似たものも滲んでいた。まるで、過去に同じことがあったかのように。
しかし、だからといって従うこともできない。
あの廃工場で月神を具現化させたときに心は決めていた。
「ありがとう。でも、やっぱり、つっきーが離れる方法が見つかるまで魁達と頑張るよ。巻き込まれたって構わない」
「都季……」
「俺さ、実は対等に付き合える友達って久しぶりなんだ」
両親が亡くなって母の実家に引き取られた後、当然ながら学校は進学予定の所から変わった。
周りは見知らぬ人ばかりだったが、噂というものは早く回る上に尾鰭がつくもので、母親は名家の出だというのに駆け落ちをして都季が産まれただの、両親は交通事故で亡くなったが本当は自殺だったのでは……などと影で言われていた。
かといって虐めに発展するわけでもなく、どこかよそよそしい付き合いばかりだった。
だからこそ、高校に進学して魁と知り合って、久しぶりに気兼ねなく話せる友人ができて嬉しかったのだ。
「まさか、こんな大きなものを隠してるとは思わなかったけど……でも、それでも友達の力になりたい。『警護』なんて形で傍にいるくらいなら、同じ立場でとは言わない。近い場所にいたいんだ」
「……だそうだが?」
魁を真っ直ぐに見て言い切れば、固まる彼に茜が答えを促した。
目に涙を溜めた琴音が、呆然としたままの魁の肩を揺する。
ハッとして我に返った魁は、都季の様子を窺いながら確認するように問うた。
「本当に、それでいいのか?」
「うん」
「死ぬかもしれないのに?」
「死ぬのは嫌だけど……その時はその時かな」
「……でも」
「魁。更科の覚悟を否定すんなよ」
まだ渋る魁を茜が軽く窘めた。
開いた口を閉ざすと、思い詰めたように視線を都季から外す。大きな溜め息を吐いてから再び口を開いた。
「分かった。なら、俺はもう何も言わない」
「頑張ろうね」
魁の表情が優しいものへと変わり、琴音も柔らかく微笑んだ。
一区切りがついたのを目処に、茜が仕切り直すように言った。
「さて、そうとなったら悠に決定の連絡入れとかないとな」
「そういえば、悠は?」
「先に局に行ってるって。なんか、用事があるとか言ってたぜ」
やけに静かだと思っていたが、その理由はここにいなかったからだ。やはり、十二生肖のトップというだけあって仕事は多いのだろう。
琴音が何かを考えるように下を向いたが、誰もそれに気づかなかった。
それぞれがやるべきことに動き出したとき、突然、都季の胸から光の球が飛び出して目の前に浮いた。
その光が弾けると、現れたのは相変わらず小さな姿の月神だった。
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