第10話 白い狼
――……い、…………ろ。
「ん……?」
遠くの方で誰かが呼んでいる。はっきりしない意識の中では、その声が何を言っているのかは聞き取れなかったが。
だが、次に聞こえた声はやけに近く、まるで耳元で言われているようだった。
――起きろ。
「んん……誰だよ……? ……って、ええ!?」
都季は漸く目を覚ますと、辺りが靄に埋めつくされた空間になっていると気づいた。
先ほどまでは自分の部屋にいたことや、帰宅してからは何事もなく就寝したことから考えると今は夢の中だろう。随分とリアルな夢ではあるが。
ベッドもなくなっているため、ただ白い地面の上で寝ていたような状態だった。
驚きで上体を起こしていた都季は、唖然と周囲を眺めて呟く。
「夢でこんなにはっきりした意識があるの、初めてだ……」
意識どころか、両手を握ったり広げたりしても感覚はある。現実にいるのとほぼ同じだ。
座っていても仕方ないか、と立ち上がった都季は、声の主を探すように再び辺りを見回す。どこを見ても真っ白で、端があるのかすら分からない。
声の主がまた呼びかけてくる気配はなく、都季は小さく息を吐いた。
同時に、ぞくり、と背筋を悪寒が走った。
「っ!?」
背後に何かいるような気がして、勢いよく振り返る。
すると、真っ白い靄が徐々に引いていき、太い注連縄が巻かれた大きな木が現れた。頂点まで見ようとしても、上の方は白い靄に包まれていてよく見えなかった。
「すごい……」
素人目でも分かる。この木はただの木ではないと。
何千年と生きていそうな巨木は、枝の先から葉の一枚一枚までも強い生命力に溢れている。木の根元には、大型犬が余裕で入れそうなくらいの大きな穴が開いていた。どこまで続いているのか先は暗くて見えないが、都季も身を屈めれば入れるだろう。
巨木を見上げていた都季の耳に、自分を起こしたテノールの声が届いた。
――おい、童。
「そんな年齢じゃないんだけど」
夢ならば慌てる必要もない。そう思うと自然と冷静になれた。
声の主の姿は依然として見えず、どこから話しかけられているかも特定できない。
それでも声の主からは都季が見えているのか、都季の言葉を無視して話が進められた。
――お前か?
「なにが?」
――「長」の宿主は、お前か?
「おさ? 何の?」
体内の月神のことだろうか。しかし、夢とはいえ安全も確認せずにこちらから「はい、そうです」とは言えない。
すると、相手は疑問系だった言葉を確信へと変えて言い直してきた。
――月神様は、お前の中か。
「えっと……」
こちらの心の内を見透かす力でもあるのか、それとも、夢だからこそ分かっているのか。
どちらなのか判断がつかず返答に詰まっていると、声は先ほどよりも近くから聞こえてきた。
――見つけた。長。幻妖の長。
「ちょ、ちょっと待てよ」
靄の向こうに一対の光が灯った。獲物を狙う獣のような鋭い光に、都季は思わず後ずさる。
声の主の気配がさらに近づく。「長」と言うからには月神を慕っているのだろうか。それにしては剥き出しの敵意が痛い。
声の主は、どこか嘆くように言った。
――よもや人の子を器にするとは……人界で思考が鈍ったか。ならば、我が喰ろうて長と成り代わろう!
「え、わっ!」
突然、靄から輪郭の不明瞭な黒い塊が飛びかかってきた。小型犬ほどの大きさのそれは、唯一、形がはっきりとしている鋭い爪を容赦なく振り下ろす。
顔を庇おうと翳した右腕に痛みが走った。
「っ、てー……」
容赦ない攻撃に片膝をつき、広がる痛みに顔を歪める。
赤い血が飛び、腕を伝って滴り落ちた。ぱたぱたと地面に斑模様を描くそれは、地面が白いからかやけに目立った。
そこではた、と気づいた。
(『痛い』って、どういうことだ?)
ここは夢の中だ。夢でも痛いことはあるが、今の痛みはその比ではない。血の流れ出る感覚も現実味を帯びている。
だが、相手が答えを出すのを待ってくれるはずもなく、黒い塊が再び迫ってきた。
何も持たない都季に対処法はなく、強く目を瞑ったときだった。
『下がれ!』
「っ!」
背後の巨木の穴が光り、新たな影が飛び出した。
それは都季の真上を越えて塊に食らいつくと、遠くへ投げ飛ばす。守るように都季の前に立ち、塊を投げた方を低い唸り声で威嚇する。
今度は何だ、と都季は恐る恐る目を開けて腕を下ろした。
「おお、かみ……?」
目の前にいたのは、純白の毛並みを持つ狼だった。
都季の声に反応して顔だけを後ろに向けると、狼はどこか不満そうに言った。
『癪ではあるが、狐に力を借りてな』
(あれ? この声、どこかで……)
起こした声とは違うが、つい最近聞いた声と同じだ。
ただ、どこで聞いたものかは思い出せなかったが。
『あまり時間がない』
「うわっ!? な、なんだよ? ――った!」
歩み寄ってきた狼は、思い出そうとする都季の思考を遮って巨木の穴へと鼻で押しやる。
尻餅をつくようにして穴に入れば、入口に立った狼が真っ直ぐに見下ろしてきた。
青空を映したような瞳は澄み、どこか神聖な雰囲気すら漂う。右頬には蔦のような赤い模様があった。
『ここは人の世ではない。お主の在るべき世界は向こうだ』
「どういう――」
『またの。――の子よ』
何と言われたのかは聞こえなかったが、狼が小さく笑うと辺りが眩い光に包まれた。
意識が遠退いたかと思えば、水面から浮上するような感覚に襲われる。瞼の向こうでだんだんと光が収まり、ゆっくりと目を開いた。
「……うち、だ」
今度は見慣れた部屋だ。白い靄は微塵も残っておらず、ベッドから出た形跡もない。
上体を起こして壁に掛けられた時計を見れば、針は朝六時前を指していた。起きるには僅かに早いが、先ほどの夢を思うと二度寝をする気にはなれない。
「まぁ、いっか。今日から魁達が迎えに来てくれるし――っ!」
左手で布団を捲り、ベッドから降りようと右手をついた瞬間、鋭い痛みが腕から全身を突き抜けた。声にならない声が上がり、左手で腕を押さえて上体を丸める。
「っ、くっ……いっ、てぇ……!」
昨日はケガなどしていない。ただ、夢では痛みと同じ場所にケガをした。もしかして、あれは現実だったのだろうかと嫌な予感が過った。
額に汗が滲み、激痛に息が詰まる。それでも傷の状態を見なければ、と押さえる手をゆっくりと退かした。
じくじくと痛む肌に袖がなるべく擦れないよう、慎重に捲っていく。シャツの袖は切れておらず、血も滲んでいないが、尋常ではない痛みからして何かあるはずだ。
「……え?」
夢の中で、獣のようなものの爪で切られた右腕。
そのときと同じ場所……手首と肘の間には、まるで古傷のように切れた跡があった。
傷跡を見た途端、不思議なことに痛みは徐々に引いていく。
「な、んだ、これ……」
傷跡に触れてみても痛みはなかった。過去にこれほどのケガをした記憶もない上、昨日までそこには何も跡はなかったはずだ。
気味の悪さを感じて身震いをすれば、耳に夢で聞いた声が響いた。都季を襲ったものではなく、助けてくれたほうの声が。
――案ずるな。我が共にいよう……。
「え?」
優しい声音に、部屋を見渡す。声の主らしき姿はなく、窓に引いたカーテンを捲っても誰もいない。
窓を開ければ、朝の冷えた空気が肌を撫で、「寒っ」と反射的に言葉が漏れた。
(なんだろう? でも、安心できるような……)
どことなく、雰囲気が今は亡き父と似ている気がした。だから、自然と安心できたのかもしれない。
都季はまだ違和感の残る右腕を擦りながら、登校する準備に取り掛かった。
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