第3話 異端の者


 中央通りを西へと逸れ、住宅街を歩いていた都季は、先ほどの不気味な傷を忘れようと必死に今夜のご飯をどうするかと考えていた。

 大通りを離れた今、周囲の明かりはぐっと減っている。建ち並ぶ民家から漏れる明かりと点在する街灯、そして、半分より少し膨らんだ月明かりだけが頼りだ。

 通り過ぎる民家から焼き魚の香りが漂い、そういえば最近は魚を食べていないなと思考を切り替える。


(でも、魚買いに行かないといけないしなぁ……)

「そこの少年」

「……へ?」


 さほど大きくもないのにやたらと通る爽やかな声に、都季は思考を一時中断する。

 今、周りに他の歩行者はいない。

 『完全に自分しかいない状況』で、一体、どこから声がしたのかと辺りを見回す。


「ああ、上だ。上」

「上? ……え!?」


 可笑しそうに言われた方向を半信半疑になりつつ見上げれば、確かに声の主は上にいた。

 左横にあったに。

 都季は全体を確かめようと見上げたまま街灯から離れる。

 月を背にして佇んでいたのは、この世の者とは思えないほどの美しい青年だった。

 闇夜に紛れそうな濃紺の狩衣を纏っているものの、腰ほどまである月光に煌めく金髪が存在感を際立たせている。切れ長の目は月と同じ色だ。

 だが、青年は立っている場所や格好だけでなく、身体的特徴も普通ではなかった。


(俺、疲れてんのかな。耳と尻尾が見える)


 都季が警戒するのは、青年の頭には狐のような耳が、腰からは九本の尾が生えているからだ。

 作り物にしてはやけにリアルで、毛の質感も獣のそれと同じに見える。

 すると、青年は都季の思考を読んだのか尻尾を動かして言う。


「偽物ではないぞ?」

(危ない人、か?)

「ははっ。ある意味、間違ってはいないな」

「なんで会話が成立してるんだ!」


 口に出しているつもりはない。だが、何故か青年は都季の内心を読み取ったかのように返している。

 思わず声を上げたものの、危ないと本人自身が半分認めているなら関わるのは避けたほうがいい。

 都季は青年の前から逃げるために地面を強く蹴った。

 しかし、それはすぐに止めざるを得なくなったが。


「少年。一つ忠告してやろう」


 街灯の上にいたはずの青年が、一瞬にして目の前に降り立った。

 高い位置から飛び降りたはずなのに、青年は骨を折るどころか痛みすら感じていないのか平然としている。

 反射的に数歩下がった都季に青年は言葉を続けた。


「これから面白い事が起こるぞ」

「面白い事……?」

「そうだね。今まで経験したことのないような……夢物語のような――」

「ま、間に合ってます!!」


 やはり、関わるべきではない。

 舞台の前口上を述べるように語り出した青年の言葉を聞き終えるより先に、都季は強く断りを入れると踵を返して走り出した。

 残された青年は、離れていく都季の背を見ながら口元に笑みを浮かべる。


「逃げられないよ。もう“こちら”に踏み込んでしまったからね」


 ――最も、私が関わる前からでもあるが。


 呟きは誰かに聞かれることなく、青年の姿と共に夜の闇へと消えていった。



   * * *



 青年の前から駆け出して、何回角を曲がっただろうか。尾行されているかもしれないと思うと、真っ直ぐに自宅へ帰ることはできなかった。

 だが、逃げることに集中しすぎて、他のこと――角をいきなり曲がると危ないということを忘れていた。


「なっ!?」

「うわっ!?」


 角の向こうから飛び出してきたのは、二十代半ばの青年だった。酷く焦った様子だったが、先ほどと違って服装は現代人と分かる洋服であり、当たり前ではあるが獣の耳や尾は生えていない。

 避ける間もなく青年に突き飛ばされ、衝撃で後ろに倒れた瞬間、都季とは違ってよろけただけの青年の手から何かが宙に舞った。


「いたたた……」

「あ!」

「え?」


 地面に打ち付け痛む腰を押さえていた都季だったが、青年の声に反応して顔を上げる。

 すると、眼前に球体が――青年が持っていた拳大の水晶玉が迫っていた。

 避けることもできず、都季は襲ってくるであろう痛みを覚悟して目を強く瞑る。

 しかし、痛みは一向に襲ってくる気配がなく、代わりに鳩尾の辺りに何かが詰まる感覚がした。


「っ!」

「そんな……『月神つきがみ』が!」

(つき、がみ?)


 一気に襲ってきた息苦しさから疑問の声は口から出ず、顔を顰めながら青年を見た。

 彼は愕然として都季を見下ろしていたが、「くそっ」と吐き捨てると都季の胸倉を掴んだ。


「器が死んだら出てくんだろ。悪いな」

「え……!?」


 不穏な言葉を口にした青年の右手が、視界の隅で変化したように見えた。

 五本の指に備わるのは、とても人間のものとは思えない鋭利な爪。

 本能が生命の危機を知らせるも、胸倉を掴む手は固く解けそうにない。また、恐怖と息苦しさで声も上げられなかった。

 手が振り上げられ、このまま死ぬのかと走馬灯が脳裏を駆け巡る。

 しかし、それを止めたのは角の向こうから聞こえてきた新たな声だった。


「待てコラァッ!」

「ちっ。あと一歩だったのに……!」

「いっ……!」


 彼は悔しそうに顔を歪めると、都季を突き飛ばして離れる。

 再び体を打った痛みに目を瞑った都季だったが、ゆっくりと瞼を開くと目を疑うような光景がそこにあった。


(羽が生えた……!?)


 青年の背中にはコウモリを思わせる羽が生えていた。落とした水晶玉を拾う余裕もないのか、青年はそのまま飛び去ってしまった。

 周囲には吊り上げるワイヤーや機械はない。

 あり得ない光景に都季は胸の苦しさも相まって目眩がした。


「テメェ、逃げんじゃねぇ!」

(なんで、こう……人間離れした人に、会うかな……)


 胸元を掴みながら、先ほど出会った狐の耳と尾を持つ青年を思い浮かべる。彼も姿や高所から落ちても平気という体は普通ではない。

 複数の足音が近づき、物騒な声の主に反して軽い調子の少年の声がした。


「あ。誰かいますよ、借金取り先輩」

「誰が借金取りだ! って、都季!?」

「更科君、なんでここに……?」

「先輩方のお知り合いですか?」

(魁と、卯京うきょうさん……?)


 曲がり角の向こうから姿を現したのは、中性的な顔立ちの少年と先ほど家電量販店の前で見かけた魁。そして、クラスメイトの少女、卯京琴音うきょうことねだった。

 少年は魁を「先輩」と呼ぶ辺り年下なのだろうが、あだ名的にも敬っている様子はない。灰色のショートヘアーは、長めの前髪を紫の蝶の飾りがついた黒いヘアピンで左右に分けていることもあってか、一見すると少女にも見える。

 また、都季に駆け寄って片膝をついた魁の後ろにいる琴音は、両サイドが肩を過ぎる純白の髪が人目を引く。垂れがちの赤い目と大人しい性格、小柄な体格や可愛らしい顔立ちもあって、一部では「垂れ耳の白兎みたい」と言われている。

 都季が彼女と会話をしたのは、幼馴染だと言う魁を挟みながらの程度だ。元々口数が少なく、人付き合いも得意ではないと魁が言っていた。

 どこか弱々しい表情もあまり変化を見せることはなかった彼女だが、都季を見て何故か顔を歪めた。


「あの『依人よりびと』さんが盗ったの、更科君の中」

「は!?」

「わぁ、すごい。月神を取り入れちゃったんですか? どんな感じです?」

「感心してる場合か! 大丈夫か? 都季」

「うっ……。だい、じょ、ぶ、じゃ、ない……かも……」


 意識がぼんやりとしてきた。息苦しさもあって、死ぬかもしれない、と嫌な考えが過ぎる。

 突然、誰かに腕を力強く引っ張られ、何かに寄り掛かるような姿勢になった。何事かと都季はうっすらと目を開ける。

 すると、傍らにいたはずの魁の顔がすぐそばに見え、魁に背負われているのだと分かった。

 そこで、漸く中性的な顔立ちの少年をまともに見ることができた。

 街灯に照らされた彼の濃い灰色の目は、都季に対して僅かな好奇心を滲ませている。口調こそ関心があるのかないのか分からなかったが、一応の関心はあるようだ。


「しょうがねぇ。俺の部屋がすぐ近くだから、そっち運ぶか」

「手伝う」


 魁は小さく息を吐いて言えば、琴音は手早く都季の荷物を持った。

 残った少年は何をするのかと思いきや、あろうことか冷やかしに徹した。棒読みではあるが。


「きゃー。魁先輩、大胆ー」

「ぶっ飛ばすぞ」


 後輩に対して容赦ない言葉を返しつつ、魁はあまり都季に負担を掛けないようにゆっくりと歩き出した。

 琴音も魁の後に続く中、少年だけはその場に留まって三人の背を見る。そして、追跡対象の青年が逃げた方角へと視線を移した。

 星の瞬く夜空には青年の姿は見当たらない。

 だが、少年には彼の通った“跡”を感じ取ることはできた。もちろん、それは少年だけではなく、魁や琴音も感じ取ることができるものであり、本来ならば追跡を切り上げる必要はない。

 そうせざるを得なくなったのは、魁が背負った都季によるところが大きい。

 少年は悔しそうに顔を歪めると舌打ちをした。


「……あとちょっとだったのに」


 小さく呟かれた言葉は誰の耳にも届くことはなかった。

 すると、やって来る素振りのない少年に気づいた魁が足を止めて振り返る。


「おーい。置いて行くぞー」

「はぁ……。まぁ、いいや。憂さ晴らしに魁先輩の部屋で怪しい本探してやろう」

「ねーよ!」

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