第2話 異常気象


『東北地方では、五月に入っても雪が降る日が多く、路面の凍結による車のスリップ事故や歩行者の転倒による怪我が――』

『今日、午後一時過ぎ、恵月町東区にあるこちらのパーキングにて、駐車中の車が突然、炎上するという事故が――』

『ご覧ください、この絶景! 窓一面に広がる銀世界! とても初夏とは思えませんねー。この旅館では、今なお山に積もった雪が溶けないということで、普段とは違った光景を――』


「楽しめるかっつーの」


 旅館の窓からの真っ白な雪景色を映し出していたテレビが、女性の不機嫌な言動によってあっさりと黒一色へと塗り替えられた。

 画面に映るのは、テレビの置かれた事務室内と三つ並んだデスクの一つに座る一人の女性、亥野茜いのあかねだ。

 茜はテレビのリモコンを目の前のブックスタンドに挟んで立てた資料の上に置くと、深い溜め息を吐いた。背中の中頃まである艶やかな黒髪は高めの位置で一つに結わえられ、切れ長の目には疲れの色が滲む。

 壁に掛けられた時計を見れば、夜の七時を少し過ぎている。

 五月も半ば。しかし、依然として季節は春先から暖かくなる気配を見せず、日本の一部地域では未だ雪が降るという異常気象に見舞われていた。

 また、謎の事件や事故も多発しており、最近になって増えてきたオカルト系番組では、『今の日本は未曾有の危機に瀕しているが、それらは未知の生物による侵略の兆しである』と言われている。


「方や異常気象や事件を恐れ、方や異常気象を恐れず、か……痛っ」


 目の前に広げた店の帳簿に手をつける気にもならず、茜は背中を椅子の背凭れに預ける。その瞬間、走った痛みに僅かに顔を歪めた。

 静かな事務室内には、扉一枚を隔てた向こうにある喫茶店のBGMが微かに聞こえてくる。昼間であれば深みのある独特な香りも漂ってはくるが、閉店の近い今はそれもかなり薄い。

 茜が経営する喫茶店は珈琲や紅茶に拘っており、幅広い年齢層の女性を中心に人気となっている。ペットの同伴も許可しているため、昼間には平日でもそこそこの人がやって来るのだ。

 穏やかなメロディを背にしているものの、茜の頭の中は先ほどのニュースでいっぱいだった。


「さーて、どうしたもんかねぇ……」


 頬杖をつきながらぼんやりと虚空を見つめる。

 事務室には茜以外に誰もいないため答えが返ってくるはずもないが、代わりに聞こえたのは扉の開く音と寒さに震えた少年の声だった。


「うー……さすがに更衣室はちょっと寒いですね……」


 開いたのは茜の右斜め後ろにある店と繋がる扉ではなく、茜から見て左手奥にある扉の一つだ。扉には「更衣室」というプレートがつけられており、出てきたブレザー姿の少年は先月からここのアルバイトをしている更科都季さらしなときだ。

 四月にこの恵月町の北側にある『恵月学園高等部けいげつがくえんこうとうぶ』に入学したばかりの彼は、進学と同時に家を出て一人暮らしをしている。自宅は隣町のため通学圏内ではあるものの、彼なりに何か考えがあってのことのようだ。

 難しい顔をしていた茜を見た都季は、帰宅のためにコートを羽織りながら訊ねる。


「あれ? 店長、どうかしたんですか?」

「あー……いや、この寒さだから、夏のメニューを考えにくくてな」


 例年ならば、もう夏のメニューを出していてもおかしくはないのだが、今年はこの冷夏だ。

 出したところで売れるのかというのが経営者としての大きな悩みでもある。


「まだホット頼む人も多いですしね」

「そうなんだよなー。せめて、この異常気象が収まってくれたらいんだけど」

「さすがに、天候は人にはどうしようもないですよ。温暖化の影響とかって話も聞きますけどね」


 世間ではこの異常気象に様々な議論が飛び交っている。

 だが、明確な答えが見つかるはずもなく、一部の人達の間では『異常気象をいかにして楽しむか』という話に切り替わっているようだ。

 茜は何度目かの溜め息を吐きつつ、投げやりになりつつ言った。


「いっそ、お前が何とかしてくれ。更科」

「いや、無理ですって。俺、ただの一般人ですからね? じゃあ、お疲れ様でーす」


 なぜそんな無茶振りをするのか、と思いつつも冗談だと分かるため、適当に返しつつ茜の前を通り過ぎて従業員用の出入り口へと足を進める。

 ドアを開ければ、ひんやりとした空気が暖まった頬に触れた。更衣室もそれなりに寒かったが、やはり外は比べものにならない。

 挨拶をしてドアを閉めようとした都季に届いたのは、茜の耳を疑うような言葉だった。


「更科が店長見放したー!」

「人聞きの悪いこと叫ばないでくれますか!?」

「あはは。悪い悪い。お疲れさん」


 事務室と喫茶店を隔てる扉は防音ではない。オーダーストップが入っている今、店内にいた客はさほど多くはないものの、都季が事務室に入る前はゼロではなかった。

 聞かれていたらいらぬ誤解を招いていそうだ。従業員はともかく。

 珍しく無邪気に笑う茜は、ひらひらと手を振って都季に帰宅を促す。

 一体、誰のせいで引き留められているんだ、と言いたくなった言葉を飲み込んで、都季は「お疲れ様です」と返してドアを閉じた。

 再び一人になった室内で、茜は重い息を吐く。


「……はぁ。ホント、悩みが夏のメニューだけならいいんだけどな」

「一般人にはまず無理だろ」


 返答はないはずだが、いつの間にか店内へ繋がる扉の前に一人の青年が立っていた。

 赤銅色の短めの髪に整った顔立ちはかなり人目を引く。接客が上手いこともあり、彼狙いでやって来る女性客もいることは間違いない。

 焦げ茶の目にはやや呆れが混じってるが、茜はそれには触れずに店長らしい言葉を投げかけた。


「煉。ホールはどうした?」

「ラストの客帰ったし、今日の伝票持ってきたんだよ」

「仕事が早いな」


 どうやら、茜の発言はいらぬ誤解を招かないで済んだようだ。

 傍らに置かれた伝票の束に、いくらなんでも処理が早くないかと煉を見れば、彼は小さく肩を竦めて見せた。


「この後も『予定』詰まってるし、明日の仕込みの手伝いが終わったら上がるよ」

「はいはい。ご苦労さん」


 煉の言う予定については茜も把握している。

 だからこそ、未成年が夜間に外出すると言外に言っているにも関わらず、窘める気配を見せないのだ。

 伝票を捲りながら、茜は苦手な事務処理が増えたことに頭痛を感じた。



   * * *



 都季が暮らす恵月町は、南に海、北東から西にかけて山が聳える自然に囲まれた町だった。町は京都を模して碁盤状に整備され、東西南北と中央の五つの区画に区切られている。

 それぞれが異なった特色を持っているが、その中でも都季が通う学校がある北区は、大半を恵月学園の校舎や寮に占められており、この町が「学園都市」と言われる所以にもなっているのだ。

 店を出て学園から南へと伸びた大通り沿いを歩いていた都季は、吹き抜けた寒風に身を縮めた。


「(あー……寒っ)……あれ?」


 ふと、落としていた視線を前方に向けると、見覚えのある赤茶の髪の青年が見えた。

 高校に進学してから友人になった同じクラスの青年、戌井魁いぬいかいだ。襟足が肩に少しかかる髪が尻尾のようだ、と思ったことは記憶に新しい。

 彼は家電量販店の店頭に展示されたテレビを見たまま、何故か険しい顔をしている。

 進行方向にいるため、このまま近づいて声を掛けようかと思った矢先、魁は都季に気づくことなく、背中を向けるとどこかへと走り去った。

 

「なんだ? あいつ」


 テレビの映像がそんなに不愉快だったのだろうか。

 疑問に思いつつ近づいてテレビを観るも、数台並んだ店頭のテレビはニュースやバラエティー、アニメなどを流しているだけだ。


(まぁ、いっか。週明けに聞けば)


 携帯電話の連絡先は知っているが、何やら急いでいる様子でもあった。すぐに聞くのも迷惑になるかもしれない。

 明日明後日は土日で学校は休みだが、月曜日になればまた顔を合わせる。

 そう思い、都季も帰ろうと足を踏み出したとき、足下に違和感を覚えて見下ろした。


「……え?」


 レンガが敷き詰められた歩道は、通行量の多さからか所々にヒビが入ったものもあるが、都季の足下にあるレンガにはまるでがあった。

 犬猫がつけられるようなものとは思えず、得体の知れない不気味なものを感じた都季は、早々にその場を立ち去ることにした。

 その家電量販店の屋上から、都季を見下ろすが一つ。


「約束は破らない。けれど、“偶然”ならば仕方がないだろう?」


 長い金髪が夜風に靡く。月の光を受けて輝くそれは薄を思わせる。

 洋服の多い現代にそぐわない、平安時代からタイムスリップしてきたような濃紺の狩衣を纏った青年は、どこか楽しげに呟くと一瞬で姿を消した。

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