#16:ジョセフ
宇宙船サンライズは、凍り付いた旧星からコートリア惑星群に人々を運んだ栄えある宇宙船である。
サンライズは着陸後にその役目を終えたが、分解されたという記録は残っていない。人類が最初の惑星「フラスコ」に降り立った日は、最も大事な祝日となっているが、サンライズの行方は誰も知らない。
「そうだ」
アキホ・F・フェリノルダは、その日新しい流体力学を利用した論文を一本書き上げた。脳が疲弊したと言って、養子であるクルエの作ったココアを飲んでいた時に、不意に口火を切った。
「クルエ、私は今から出かける」
「また教え子のところに行くの?」
自分の分のココアも淹れながら尋ねるクルエに、アキホは短い否定を返す。
「今日は大事な日なんだ。忘れていた」
「サンライズ着陸記念日でしょ」
「それよりもっと大事な日だ。私としたことがうっかりしていた。今日は結婚記念日なんだ」
クルエは口に含んだココアを思わず吐き出した。
宇宙機構大学附属高等学校で首位の成績を収める少年でも、天才科学者の突飛な行動にはついていけない。
「け、結婚記念日?誰の?」
「他人の結婚記念日を祝うわけがないだろう。というわけで私は今から夫のところに行ってくる。クルエは留守番をしていてくれ」
「え、待って。アキホの旦那さんって何処にいるの?俺、聞いたことないよ」
「さぁ急がなければ。そうだな、偶には化粧をしよう。彼は化粧をしない私が好きだと言ったが、私の乙女心を否定しない紳士だからな。喜んでくれるはずだ」
弾んだ声で言いながら、アキホは席を立つ。珍しく鼻歌を歌いながら、研究室の奥に置かれた、ミヤビ式のスペースに上がり込むと、障子と呼ばれるパーティションを閉めた。
だがすぐに、顔が覗く程度だけ開くとクルエに向かって悪戯っぽく笑った。
「私が良いと言うまで開けるんじゃないぞ」
「それ旧星の童話で読んだことある……」
それから数十分後、再びクルエの前に現れたアキホはいつもと違う装いをしていた。
黒い髪には丁寧に櫛を入れて艶を出し、顔には薄化粧。いつもの白衣は脱ぎ捨てて、真っ白で裾に凝った刺繍を施した、ドレス型のワンピースに袖を通し、足元は薄い銀色のハイヒールで飾られていた。
クルエはそれを見て、思わず感嘆符を零す。
「アキホ、女らしい恰好とか出来たんだね」
「普段は必要がないからしないだけだ」
「へぇー……、ってそうじゃない!」
うっかり感心しかけたクルエは、辛うじて踏みとどまった。
「アキホの旦那さんなんて初めて聞いたよ」
「まぁ普段は一緒にいないし、お前を育てることになってからはデートも出来なかったからな」
「デート!」
クルエは雷に打たれたかのように口を半開きにする。
「え、なんで俺に話してくれないの?俺、アキホの息子だよね、一応」
「当たり前だろう。だが夫にはお前のことを教えていないし、一方的に教えるのも変かと思って」
「………じゃあ、いつか教えてくれるの?」
そう尋ねると、アキホは困ったような表情になった。
「そう、だな。いつかは教えてやらないと、お前は納得しないだろうからな」
「当たり前じゃん」
「まぁ、それは次の機会として、今日はとりあえず私だけで行ってくる。いいだろう?」
優しく肩を叩かれて、子供を宥めるような口調で言われると、クルエはそれ以上何も言えなかった。
硬い椅子に腰を下ろして、フラスコにある花屋で買った薔薇と、ミヤビにいる教え子から買い求めたミヤビ菓子をテーブルに置いた。
辺りには静寂だけがあり、揺蕩うような時間が流れている。
「何から話そうかな。前に来たのはクルエを養子にする前だから二十年前だったか。あぁ、養子を育てているんだ。賢い子だよ。ちょっと元々の出生のせいか、天然気味だけどね」
庶民の給料一年分が吹き飛ぶような値段の酒と、反して子供でも買えるような安いグラスを取り出して、アキホは二人分の酒を注ぐ。
「高校の同級生が気になっているようだ。でも彼女は残念なことに私と同じ、好きなものに夢中で色恋沙汰など興味なさそうでね。いつになったら進展するのやら」
乾杯、とグラスを合わせるとアキホはゆっくりと一口目を飲んだ。
「ショウレというのは、ほら、前に話しただろう。此処に来るための宇宙船を作った時に、塗装を請け負ってくれたミズムラの孫娘だよ。苗字を変えてしまったので、今はミーズランになっているが。あぁ、この酒は美味しいね。好みだろう?」
アキホはテーブルの向こうを見て微笑む。
「子孫を見ると言うのは面白いことだ。……そうだ、アゲハの子孫がこの前役者としてデビューしたよ。ドラマの準主役に抜擢されたようでね。俄かにファンをつけている。……うん、なかなかいい男だ」
その俳優は子供向けのヒーローショーで人気を集めて、それがある監督の目に止まってドラマに起用された。アキホは滅多に映画やドラマには興味を見せないが、その俳優が出ているものだけはよく追っている。
「なんだ、妬いているのか?君のほうがいい男だよ」
当然じゃないか、とアキホは柔らかい口調で言う。
「あぁ、そうだ。サイトーがいるだろう。……あぁ、まだ元気なんだよ。彼の研究所でイルカを作ってね。懐かしいだろう。遺伝子情報を元にしただけだから、背びれのあたりが少し鋭すぎる気もするが、あの可愛さの前では取るに足らないことだ。君と行った水族館で見たイルカは可愛かった」
そこでふと、アキホは困ったような顔をした。酒を飲んで喉を潤した後、短い溜息をつく。
「色々話したいことが多くて、何から話せばいいのかわからないな。特にクルエについては沢山ありすぎる。何しろアゲハが嫁いでから、子育てなんて遠ざかっていただろう。試行錯誤が多くてね」
ミヤビ菓子に手を伸ばして、アキホは続ける。
「特にアゲハの時は君がいたからよかったが、クルエの時は一人だったからな。女の子を育てるのと男の子を育てるのでは、食事一つ取っても勝手が違う。食べたくないものを食べて泣き出した時なんて、何処にそんな体力があるのかと、こっちが呆れるほどだった。今はなんだか澄ましていて可愛くないな。そこも可愛いのだが」
その表情は研究者としての物ではなく、母親としての慈愛が滲んでいた。
「クルエのいる学校に、バルバラン准教授の息子がいてね。レイトというんだ。……そんなに古臭くないさ。古風な名前ではあるが。随分好奇心旺盛な子でね。あの分だと私のゼミに入るだろうな。あの目は、カレンによく似ている」
グラスを手にしたまま、アキホは立ち上がった。硬い床を踏み鳴らして、ゆっくりと歩いていく。
歩くたびに床が光って、アキホを先へと導いていく。コートリア惑星群では殆ど見ることのない、金属で出来たドーム状の天井には、剥き出しの計器やコードがそれぞれの役割に従って動いていた。
「此処で結婚式をした時のことを覚えているだろう?皆に祝ってもらったな。アゲハなんて訳も分からないだろうに、笑っていた。指輪なんてもう誰も持っていなかったから、そこらへんのものを寄せ集めて作ったっけ。あの頃はなんでも寄せ集めだったな。結婚式も指輪も、この船さえも」
アキホは立ち止まって顔をあげた。ひび割れた硝子の向こうには、彼女の愛するコートリア惑星群が見える。
二百年前に旧星から飛び立った、人類の希望「サンライズ」の操縦室にアキホは立っていた。
コートリアの人々の殆どは、サンライズが現存していることは知らない。だが、違う形でその存在を耳にしたことはある。
「惑星ゼロ、か。誰が考えたのか知らないが、素っ気ない名前だと思わないか?」
人々がゼロと呼ぶ幻の惑星は、実際にはただの宇宙船だった。二百年間、各惑星の周りを飛び続けているのを、偶に見かけた人々が、その正体を巡って議論し、「誰も知らない惑星」だとしただけである。
アキホは各研究機関や個人からの問い合わせに全て「そんな惑星はない」と答えて来た。彼らが呼ぶ「惑星ゼロ」は宇宙船なのだから、アキホは嘘をついていない。
「ゼロでもサンライズでもなく、君にはちゃんとした名前があるのに。でもそれを誰かに教えたくない。君の名前を呼ぶのは私だけだ」
計器が一斉に電子信号を発した。それは笑っているようでもあり、何かに拍手を送っているようでもあった。
「そう、その通り嫉妬だ。最近、少々嫉妬深くなったんだよ」
アキホは信号に合わせて愉快そうに笑う。宇宙船は静かに空間を漂い、遠くに見える惑星たちに近づきすぎることもなければ遠ざかりすぎることもなく、一定の位置を保ち続けていた。
「この星々も綺麗になった。私たちが接近した時には、何もなかったな。辛うじて人が住めるフラスコだけがあって、他の惑星は人が住むどころか水すらなかった」
アキホはガラスに近づき、かつてと同じように惑星を見つめる。
その手に我が子を抱きながら見下ろした惑星群の姿に、当時のアキホは愕然とした。
旧星を飛び立つ前に、いくつかのロケットを飛ばして、移住出来るだけの酸素や気圧調整を行っていたが、その時に行った予測計算と、実際に目にした現実はあまりにかけ離れていた。
このままでは人が移住したとしても、すぐに食糧不足や極端な気候変化によって死んでしまう。惑星群の間に浮かぶ、無残に壊れた装置が、その原因を物語っていた。
「幸い予備の装置は積んでいたが、それを動かす高度なコンピュータがなかった。……惜しむらくは、私が君よりほんの少し、そういったことに精通していたことだな。逆だったら今頃この船を動かしているのは私だったのだから」
船がゆっくりと軌道を変える。窓の外には第一惑星フラスコが見えた。
「結婚式の後の初めての共同作業としては、恐らく最も最悪な部類だろう。でもお陰でサンライズに乗ってやってきた子孫たちは、ここで幸せに暮らしている。そして私も、君のお陰で何年もこうして生きている」
電子信号が再び音を立てる。二進法で刻まれたその音に、アキホは首を傾げた。
「恨むなんてとんでもない。毎日毎日、君が私を原子レベルから再構築してくれるお陰で、私は全ての事象を忘れることなく生きていけるんだ。そうでないと、こうして会った時に、話すことが減ってしまう」
美しい惑星の光を浴びながら宇宙船はいつまでも飛び続ける。人類の希望の象徴は、まだその役目を終えていなかった。
「大体、私は君の妻だぞ。他の連中に夫の世話を頼むなんて出来るわけがない。君が嫌だって言っても私は離婚なんてしないからな」
人類の希望に乗って、天才科学者は幸福な気持ちで愛する惑星を見つめていた。
「私は君が命を張って作り上げた惑星を、いつまでも護り続けよう」
元サンライズ開発責任者、双葉秋穂はグラスを持った手を伸ばすと、ひび割れたガラスに映った自分と乾杯をした。
「愛しているよ、ジョセフ」
サンライズ開発責任者
双葉秋穂(双葉研究所所長)
ジョセフ・フェリノルダ(LI大学宇宙工学部准教授)
Fin
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