#10:恋人の日・郷愁
深い闇の中で、煌めく星々はどれがかつての星座を構成していたかもわからない。
そもそも星座なんて、同じ座標に並んでいるものではなく、地上から見た時に偶然そう見えるものばかりで、こうして宇宙の中に身を置けば、それが如何に無意味であったかわかる。
遥か彼方に見える、かつての人類の棲家は黒く淀んだ靄に覆われている。宇宙船からそれを眺める女の腕の中で、赤ん坊は頼りない四肢を動かしていた。まだ何も知らない黒い双眸には、母親たる女の横顔だけが刻まれている。
母親の思いつめたような雰囲気を察して、ぐずるような声を出すと、女は優しげな笑みを浮かべて顔を向けた。赤ん坊はそれで安心して無邪気な笑みを返す。
「何があっても、あなたには幸せな世界をあげる」
母親は赤ん坊にそう言った。
「そう、私の願いは………」
アキホ・F・フェリノルダはその明晰な頭脳に似つかわしくない感傷的な夢から目を覚ます。事実と夢想の入り混じったそれは、彼女にとっては理解不能な夢だった。
薄暗いラボの、片隅に置かれた長椅子。数日前に出かけた市場で手に入れたものだが、寝心地は悪くない。
「………」
壁にかけられた光時計を見る。まだ殆どの人間が眠りについている時間帯だった。
「あぁそうだ。実験結果を見ようとしていたんだ」
そう独り言を言いながら、持ち主が寝ている間も健気に働いていた装置の前へ移動する。しかしその液晶に表示された数値を見て、アキホは苦々しげな顔をした。
「やはりだ。サレゴールの言ったとおりだな。外殻の磨滅と大気の密度は純粋な反比例にあるわけではない、ということか」
アキホは暫くその場で考え込む。
コートリア惑星群のすべては、彼女の頭脳の中に収められている。そこに住む人々の命が彼女に掛かっているといっても過言ではない。類まれなる頭脳と行動力を持ったアキホは、その後継者を生み出そうと長年努めてきた。しかし、彼女の持つ数多の才能に匹敵する者は現れていない。
例えば、全く違う分野で彼女を凌駕する者は珍しくないし、いくつかの才能において匹敵する者もいる。だがそれでは彼女の後継者にはなれない。
「………目が覚めてしまったな。気分転換に出かけるとするか」
アキホはそう言うと、実験中に愛用している白衣を脱ぎ捨てた。
どの惑星にも繁華街に行けば夜通し営業している店は珍しくない。アキホが足を向けたのは、第一惑星「フラスコ」にある小さなバーだった。
第一惑星の名前の通り、一番最初に人類が移住し、開発を始めた土地であり、それ故に他の惑星よりも方向性が定まっていない。その混沌とした存在が、アキホは好きだった。
「いらっしゃいませ」
丁重に迎えてくれたマスターは、アキホだとわかると口元に笑みを浮かべる。
「どうしました、珍しいですね」
「研究に明け暮れていたら、体内時計が狂った。モーニングコーヒー代わりに何か作ってくれ」
「わかりました」
バーの中には客が一人いた。アキホが入ってきた時に少しだけ振り返ったが、すぐに戻してしまったので顔はわからない。アキホの右側、三席分となりにいるだけなので、顔を向ければわかるのだが、それは流石に無作法だった。
「どうぞ」
差し出されたのは珈琲を使ったカクテルだった。ホットチョコレートをメインに使っているのが、女性に人気のバーらしい心遣いだった。
暫くその表面をアキホが眺めていると、マスターが不安そうな声をかけた。
「失礼。チョコレートはお嫌いでしたか」
「いや、そういうわけではない。ずっと昔にバレンタインに作ったなと思い出しただけだよ」
「バレンタインは女性が一番張り切るイベントでしょう」
「そうだな。私もその点は普通の女性と変わらない。むしろ劣っているだろう。何しろ満足にチョコレートも作れなくてね。仕方なく市販のチョコレートを溶かしたドリンクを渡したんだ」
「それは興味深いですね。そんなお相手がいるのですか?」
「いたんだよ、一応。その時の相手の顔と言ったらなかったな。私がそんなものを作ってきた驚きと、そんなものしか出来なかったことへの納得が入り混じっていた」
「参考までに、どのようなものを作ったのか教えていただけませんか」
「と言われても……。ナッツのチョコレート、ミルクが入ったやつだ。それを鍋にかけた」
「………え、そのままですか?」
「焦げた」
「でしょうね……。湯煎をしてからのほうが良いと思いますよ」
「湯煎?」
マスターが説明しようとしたときに、数人の客が大分酔った状態で入ってきた。そちらへの接客に回ったマスターが戻ってくるのをアキホは暫く待っていたが、結局その日はそれ以上聞くことが出来ないまま店を出ることになった。
それから数日後、フラスコの中心街にある巨大ショッピングモールで、アキホはチョコレートを探していた。バーで飲んだカクテルが、かつて自分が作ったものを思い出させたせいもあるが、丁度バレンタインの季節であることを帰宅後に気付いたせいでもある。
「………」
目の前に広がるチョコレートの渦。左右に積みあがったチョコレートや、製菓材料は、その華々しさも伴って一角を異様な風景へと変えている。
それはアキホの知識には殆ど存在しないものだったし、理解も出来ないものだった。催し物が展開しているエリアの中央には、チョコレートで出来た可愛らしいウサギや熊がメリーゴーランドに乗ったオブジェがある。精巧な動物を感心しながら眺めていると、急に声をかけられた。
「あのぉ」
「ん?」
「何かお探しですか?」
この店の従業員らしい女はそう言って微笑んだ。可愛らしいフリルのエプロン姿で、胸元にネームプレートが付いている。年のころは二十代前半といったところで、笑窪が可愛らしい。豊かな茶色い髪を清潔感のあるシニヨンでまとめていた。
「あ、あぁ」
「何を作るんですか?」
そう聞かれてアキホは困り果てる。豪奢なチョコレートに囲まれて、それらを溶かしてチョコレートドリンクにしたいと言ったら馬鹿にされるような気がした。
生粋の天才科学者は、料理が非常に苦手だった。原子を整列させて別物質を作ることは出来るのに、牛乳を温めるのは何回かに一度失敗する。返答に窮しているアキホに、店員は含み笑いで言った。
「チョコレートドリンクですか?」
「どうしてわかる?」
「この前、バーにいたでしょう?私、すぐ近くにいたんです」
アキホは暗がりで見えなかったもう一人の客を思い出した。
「君だったのか」
「すみません、盗み聞きしたわけじゃないんです。でも私、ここの仕事だからチョコレートとか聞くと気になっちゃって」
「気にしなくていい。それより丁度よかった。私の話を聞いていたなら、私が何で悩んでいるかわかるだろう?」
「チョコレートドリンクの作り方でしょう?えーっと、何のチョコレート使います?」
「出来ればナッツの入ったものがいい」
「あぁ、ナッツは後で入れたほうがいいですよ。ベースはブラックのほうがいいですか?」
「ブラック?」
「………試食しますか?」
店員に勧められるがまま、いくつかのチョコレートを口にする。ミルクの殆ど入っていないビターチョコレートを気に入ったと告げると、店員は売り場の中を身軽に動き回って、いくつかの商品を持ってくる。
「これ便利ですよ。レンジで温めるだけでチョコレートドリンクになるんです。で、こっちが乾燥させた果物をチョコレートコーティングしたもの。こっちが、お砂糖を色づけした星形の飾りで、チョコレートドリンクにぴったりです」
「温めるだけ……」
その簡単な手順にアキホは心惹かれる。だがその時に、不意に邪魔が入った。
「こんにちは」
アキホは首だけ右に向けて、発言者を視界に収める。高校生らしい、少々似合わない背伸びしたファッションに身を包んだ少女がそこにいた。
「………ショウレ・ミーズラン」
「なんかこういうところに所長がいるのって面白いですね。バレンタインですか?」
「そういうわけではないのだが、ちょっとな。君こそ、こういうところは少々不似合だな」
飴職人の娘は、不満そうに眉をよせた。
「あたしはこういう方が好きなんです。チョコレートのほうが女の子っぽいし」
「飴をあげればいいじゃないか」
「嫌ですよ。あれは家業っていうか、仕事っていうか……。とにかくお金取るものなんです」
「私にはタダでくれたのに」
「フェリノルダ所長も食べた飴って言うと、ミーズラン商店に箔がつくんですよ」
涼しい顔でそう言うショウレは、その時だけ生粋の職人、商人の顔だった。
「まぁそれとは別に、チョコレートって飴よりも色々出来るから好きなんですよね。去年はウサギ作ったんですけど、今年はもう少し頑張ってペリカンにしようかなって。所長は何作るんですか?」
アキホは、先ほどの数倍返答につまった。あっさりとした性格のショウレは、アキホの返答を聞いても何も言わないだろう。だがアキホは自分の言葉に自分で傷つく可能性を知っていた。
手先が器用な少女は、きっと見事なチョコレート菓子を作るのだろう。先ほどメリーゴーランドで回っていたウサギよりも少々現実的なものを。
それに比べてチョコレートを溶かして、しかも溶かすのも不安だから専用のキットを買おうとしているとは言えなかった。
「………実は実験でチョコレートを半導体代わりにしようと思ってね。それでいろいろ見ているだけだ」
「はんどーたい?よくわからないですけど、実験材料集めなら邪魔しちゃ悪いですね」
お邪魔しました、とショウレが手を振って立ち去る。安堵の溜息をついたアキホが、ふと店員のほうを見ると呆れ顔が残る微笑となっていた。
「どうなさいますか?」
「重ね重ね済まないが、チョコレートドリンクの作り方を電子データでもらえないか」
バレンタイン当日、アキホはチョコレートの匂いで満たされた研究室で、爪の隙間に入ってしまったチョコレートの残滓をピンセットで摘まみだしていた。
「でもさー、こんだけチョコレート無駄にして出来上がったのがこれだけっていうのが、らしいというかなんというか」
円形の研究室はアキホの自室とも兼ねており、ミヤビの古い様式に合わせた、紙と木で出来たパーテションで壁を作り、乾燥させた草を編んだ床材を敷き詰めている。
アキホは仕切りを開け放って、研究装置の群れを見ていたが、その言葉を聞いて後ろを振り返る。正座をしてチョコレートドリンクを飲んでいる少年と目が合った。
真っ黒な髪と真っ黒な瞳はチョコレートドリンクの色より遥かに濃い。ミヤビ人に多くみられる切れ長の一重は、常に笑みを湛えているかのように濡れている。宇宙機構大学附属高等学校の制服を着ているのは、ここに帰ってきて早々にアキホに自室に呼び出されたからだった。
ラボ・フェリノルダに住み着いてアキホの手伝いをしている少年は、彼女の持つ多くの謎のうちの一つだった。研究員ではないが、血縁者でもなく、恋人でもない。アキホは周囲に、孤児である彼を住み込みの清掃員として雇っていると説明していた。
「バレンタインに女からチョコレートを貰っただけで御の字としろ」
「んん?チョコはちゃんと貰ったよ。義理チョコだろうけど」
少年はマグカップを置くと、自分の通学用バッグの中からいくつかのチョコレートを出した。いずれも手作り感の溢れたデザインになっている。
その中に精巧なペリカンの造形をしたチョコレートを見つけて、アキホは手を伸ばした。
「あ、ダメ。取らないで」
「見るだけだ。同級生からもらったのか?」
「あいつ、この前のお祭りの時に焚き付けてから、何かと俺に器用自慢してくるんだ。それもその一環」
「義理チョコなのか」
「じゃないの。皆に配ってたし」
「その割には気に入っているようだな」
他のチョコレートと比べて丁寧に取り出したのを見逃さなかったアキホが指摘すると、少年は少しだけ戸惑った顔を見せたが、すぐに生意気な表情で繕った。
「ほら、俺は紳士だからさ。食べる前に壊したりしたら失礼でしょ。というかそんな細かい壊れやすそうなもん作ってくる方が悪いんだよ」
「そういうことにしておこう」
「それに俺、甘いものは好きだし」
何やら必死な少年を、アキホは大人の余裕で受け止める。しかし、ふとあることに気付くと真顔に戻った。
「それより、クルエ。来月どうするつもりだ」
「え、何が?」
「ホワイトデーのお返しといえば飴が定番だろう。飴職人に飴を渡すとなると苦労するぞ」
「うわ、そうだよ。忘れてた………あれ?ミーズランのことなんて言ったっけ?」
「私にはわからないことはない」
慌てている少年に少々罪悪感を感じながら、アキホは漸くいつもの余裕を取り戻した。
End
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