#11:夢を降りて地上で叫べ
打ちっぱなしのコンクリ。疲弊した地下道。そこに赤ん坊の泣き声が響くが、地下道が入り組んでいるため、どこから聞こえるのかははっきりしない。
煩わしさを感じながら起き上がると、口の中が乾いていた。唾液を飲み込むのにも痛みが走るほどの乾燥は、もはや珍しいものでもない。ここで生きている殆どの人間が同じ症状に見舞われている。
「ジュン」
鼻にかかったような声で名を呼ばれて、男は気だるげに振り返った。地下道には大勢の人間が詰め合って暮らしている。かつては繁華街の一部であった地下道は、五年前の「異常現象」の時に強引に掘り拡げられて、周囲の人間達の避難シェルターとなった。
ベニヤ板やトタン、ビニールシートなどで区切られた生活スペースにプライバシーなどないが、誰も隣人のプライベートに頓着はしない。そんな段階は遥か昔に過ぎてしまった。五年前から、ここではすべての時間が止まっている。
流行も喜びも希望も憤怒も絶望も。
永遠に続くような絶望の中、彼らは残された限りある資源を細々と削って生きていた。
ジュンは自分に声をかけた同居人が、薄ら笑いを浮かべているのを見る。五年前、まだ世界が平和だった時に見せていたような純粋な笑顔は、どこにも伺えない。
「なんだよ」
「今日は旨そうなシチューだ」
衛生観念など消え去った、真っ黒に汚れた陶器の器。そこに、少し湯気の残るシチューが注がれていた。
「売れたのか」
「あぁ、勿論。あの女、嬉しそうに持って行った」
貨幣の価値はなくなって、彼らに残されたのはごく原始的な流通だった。大量の貨幣より価値があるのは細長い栄養失調の人参。それを丁寧に調理出来るものが、ここでは富を得る。そしてその富を注ぎ込むものを持っている二人は、この地下道では最も恵まれた者と言えた。
「しかし何が役に立つかわからないな。製薬会社に勤めていたとはいえ、実際に製薬することなんかないまま、世界は終わったわけだし」
同居人はシチューを口に運びながら、しみじみと呟いた。
「まぁそのお蔭で食い物には困らないんだけど」
「あんな粗悪品でも欲しいもんなんだな」
ジュンもシチューに口をつける。五年前まで彼らはこの地下道の近くにある製薬会社の社員だった。どうと言うこともない単調な毎日は、ある日唐突に終わりを告げた。
世界を、空を、宇宙のどこからか来たエイリアンの死骸が埋め尽くした。太陽の光が地上に届かなくなり、あっという間に世界は凍り付いた。地上ではとても生きていけることは出来ず、特に太陽光発電で生活をしていた地域は大きなダメージを受けた。
生き延びた者は政府の作った急ごしらえの地下道に逃げ込んだ。凍り付いた屍を蹴り飛ばすように地下道に入り込んだ時に、世界が終ったことを察した。
それまでの平和で暖かな世界を失った人々は、現実逃避のために様々な娯楽を求めた。賭博が流行ったのは最初の一年だけだった。賭ける物も得る物もなくなると、誰も手を出さなくなった。そんな時にジュン達は、ドラッグストアに残っていたものを使って、ある薬物を作り出した。賭博場にいた連中に与えると、それは瞬く間に広まった。
現実に絶望しかないなら、幻想に希望を求めるしかない。薄汚れた服と皮膚に包まれたまま、人々は幻想の中で王となる。美しい素晴らしい世界を独り占めして、そして薬が切れると汚い世界に戻ってくる。またその世界に行こうとして薬を求める。
既に薬物中毒で何人か命を落としたそうだが、二人にはあまり関係のない話だった。
食べ終わった皿を無造作に地面に放り投げたリュウが、歯の間に挟まった野菜クズを爪で弾きながら世間話を始める。
「噂じゃ、この地下道の奥で宇宙船が作られているらしい」
「宇宙船?」
「ほら、隣の市にあっただろ。宇宙開発機構。あそこの生き残りが集まって、この惑星を脱出する宇宙船を作っているんだとさ」
「馬鹿らしい。どこにエンジンやガソリンがあるんだよ」
「ミシキの爺さんが見たって」
「どうせ寝ぼけて幻覚でも見たんだろ」
「そうなのかなぁ。でも夢がある話だと思わないか?」
リュウはいつものように薬物調合のための道具を寝床から出した。手慣れた様子で器具を配置しながら話を続ける。
「もし別の惑星に行けて、そこが平和な世界なら、元の生活に戻れるかもしれない」
「俺たちが生きている間に完成するかも怪しいな」
「お前は夢がないなぁ」
「何ロマンチックなこと言ってんだよ」
薄汚れた世界。地下道だけで完結した冷え冷えとした世界は、歩いているだけで身を切られそうになる。
この地下道の他にも世界各地に似たような避難シェルターがあって、五年間の間にいくつかの場所が連結した。誰もが自分たちのいる環境よりもマシな場所を求めて地面を掘り進め、そしていざ別の場所にたどり着くと、自分たちがいた場所と大差ないことを悟って嘆く。そして暫く嘆いた後に、また別の場所へと掘り進める。
ジュンが昔読んだホラー小説に、似たような話があった。地中に閉じ込められた男が地上を求めて掘り進むうちにミミズ人間になってしまう話で、ミミズになるまでの過程がおどろおどろしく書かれていた。
ありもしない楽園を求めて地中を彷徨う彼らは、あの小説のミミズ男と変わらない。
地下道を歩きながら、薬を捌けそうな相手を探していると、瓦礫の間で体を小さく折り曲げて座っている老人が目についた。それは先ほどリュウが話をしていたミシキという老人で、いつも薬の原材料を探して持ってくる。
薬には興味を示さず食料だけを求めるが、痩せた老人の食い扶持などタカが知れていて、二人にとっても良い取引相手だった。
「よぉ、ミシキの爺さん」
「………あぁ、おはよう」
しわがれた声が応じる。時間感覚も狂う世界で、そんな挨拶はあまり意味もないのだが、強いて訂正するものでもなかった。皺だらけの手で何度か顔をこすり、茶目っ気を感じさせる丸い瞳で老人はジュンを見上げた。
着ているものは皆と同じく薄汚れているが、腰から下げたシガレットケースだけは磨き抜かれた銀の光を放っている。
「材料は今日は集めていないんだよ。ちょっと腰が痛くてね」
「そうじゃないよ。近くに来たから寄っただけだ」
ミシキ老人の住まいは、瓦礫に半分潰された店舗跡だった。どこかの地下道から来た削岩機が衝突して、こんな瓦礫を生み出したらしい。
「それより爺さん、宇宙船を見たんだって?」
戯れにそんなことを話しかけると、老人が何度か口を動かして頷いた。
「見たとも、見たとも。あの、北のほうの通路を使ってな、七番の方に抜けようと思ったんだが、道に迷ってしまって。気付いたら大きく開けた場所に出たんだ」
「そこに宇宙船があったのか?」
「そうだ。銀色の大きな宇宙船でな。きっとあれはあの…えーっと、ミツバ…じゃない、なんだったかね、あの研究所は」
「フタバ?」
「そうそう。双葉研究所の宇宙船だ。すぐにピンと来たよ。こう見えても記憶力はいいほうでね、五年前にあの研究所が宇宙船の開発を始めたって言ってたから、きっとそれの名残なのさ」
ジュンは話しかけたことを少し後悔していた。双葉研究所は宇宙船の開発などしていない。そもそもあれは個人の研究所だ。隣町にあったPG開発機構は宇宙ステーションの開発を始めていたので、それと混合してしまっているのだろう。
「思わずそこに立ち尽くしていたら、男が話しかけてきてな。多分あれはガイジンだと思うんだが」
随分古臭い言葉を使うな、とジュンは思った。外国籍の人間をガイジンとわざわざ呼ぶのはミシキ老人ぐらいの世代で終わった風習で、最近ではわざわざそんな区別をつけたりしない。
「そしたらその男は、俺の宝物を欲しいと言ってきた」
「宝物って、それを?」
銀色のシガレットケースを指差すと、老人は口元に嬉しそうな笑みを浮かべながら、何度かシガレットケースを撫でた。
「これには俺の宝物が入ってるんだ。知っているだろう」
「何度か見せられたからな」
シガレットケースの中には、大小さまざまな野菜の種が入っているのをジュンは知っていた。いつか太陽が地面を照らすようになったら、真っ先にこれを埋めて育てるのが夢なのだと、ミシキ老人はいつも夢見心地で語っていた。
「宇宙に行っても作物がある保証はないから、宇宙船の中にプラントを作って、作物を育てたいのだと。そのために種をくれと言ったんだ」
「で、あげたのかい?」
「いやぁ、考えさせてくれと言ったよ。素晴らしい申し出だが、まだこの惑星で作物を育てる夢が捨てられないからね」
「また行くときには教えてくれよ。俺も興味あるし」
老人は曖昧な返事をしただけだった。老人と別れた後、暫くしてからリュウが溜息まじりに呟いた。
「ジュンはそうだよな。理詰めなんだ」
「そんな眉唾話広められて、皆が浮かれて土掘りだしたらどうするんだよ」
「誰も信じやしないさ」
「お前は信じてたじゃないか」
地下道を歩き続けたために靴の底が抜けたのを修繕しながら、ジュンは口を尖らせた。だがリュウは案外冷めた口調でそれを否定する。
「別に信じてない。夢があるのはいいことだって言ったんだ。ミシキの爺さんは夢を持っている」
「何の意味があるんだよ、それに」
「意味がないといけないのか?」
その反論にジュンは眉間をよせた。それは余りに馬鹿らしい論争であることに気付いたからだった。
「人の感情を議論するのは無駄だ」
「だったら夢の是非なんかに突っかかるなよ」
「お前が言いだしたんだろうが」
そう言い返しても、リュウは肩を竦めるだけだった。
どこかでネズミの鳴き声がする。赤ん坊の泣き声はしない。生きているか死んでいるかも、ここではどうでも良いことだ。太陽を浴びずに育つ子供がどうなるか、この五年間で何度も目の当たりにした。
「そういえばこの薬」
空気を変えるためか、リュウが明るい口調で話題を転じる。
「何て呼ばれてるか知ってるか?」
「知らない」
「ドロップだってさ」
「………飴みたいな形状にした覚えはないけどな」
「そっちじゃない。落ちるのドロップだ。俺たちが地下にドロップした結果生まれたからだってよ」
くだらない、とジュンは言おうとしたが、リュウがあまりに可笑しそうな顔をしているのでやめた。
「それはそれは綺麗な宇宙船だったよ」
ミシキ老人の妄言は既に一週間ほど続いていた。
ジュンはいい加減うんざりしていたが、リュウは熱心にそれを聞いていた。一日毎に銀色になったり黒になったり、大きくなったり小さくなったりする宇宙船の描写に、なぜそんなにも心惹かれるのか、ジュンには理解出来ない。
「それで、ガイジンがやってきて」
そこだけはいつも変わらないのが、少し不思議だった。外国籍の男が、ミシキ老人のシガレットケースに入っている植物の種を欲しがる。老人はそれを拒否する。
その一節だけは、宇宙船の色がピンクになって、そこからネオンサインのような光が溢れていても変わらない。まるで幻想的な絵画に写真を貼り合わせたかのような違和感があった。
「断ったよ。まだ夢を捨てきれないから」
「爺さん、でも宇宙船を作っていたその男は、爺さんの宝物を必要としているんだろう?それがもしかしたら全人類を救うことになるかもしれない」
リュウがそう言うと、老人は少し困ったような顔をした。
「そのぅ、あれだ。宇宙船はそんなに大きくはないから、乗れる人間は限られてしまうんだ。この種は、もっと多くの人を助けるのに使いたいんだよ」
「そうか、やっぱり世界中の要人とか子供とか集めて飛ぶのかな。大人を連れて行っても、あまり意味はなさそうだもんな」
残念そうに溜息をついて首を振ったリュウに対して、老人は同調するように頷いた。
「次に会った時には、もっと彼の話を聞かなきゃならん。この宝物を渡すに値する計画が作られているなら、半分ぐらいはわけてやってもいいと思うんだ」
「爺さんのシガレットケースは綺麗だよな。どういう品だっけ?」
リュウがふと思い出したように尋ねた。老人は腰に下げたシガレットケースを取ると、両手で愛おしそうに抱きかかえる。
「これは若い頃骨董品屋で見つけたんだ。なんでも大陸の先住民が丹精込めて作ったもので、勇敢な戦士に与えられたらしい。彼らの言葉で「夢」という名前を与えられたとか。一目見て気に入ってしまってね。少々値は張ったが買ってしまったよ。タバコなんか吸わないのに」
「夢か。いい曰くつきなんだな」
「五年前もこれだけはと肌身離さず持っていたんだ。まぁ今じゃこんなものに価値はなくなってしまったが、いいんだよ。この中には俺の夢が詰まっているから」
皺だらけの手で何度も何度も撫でたせいなのか、それとも純粋に年月を経たからかはわからないが、シガレットケースの表面は妙に波打っていた。
「お前、爺さんの戯言聞く趣味なんかあったのか」
「別に爺さんの話を聞く趣味なんかないけど、面白いと思って」
「話がコロコロ変わることか」
「そうじゃないけど」
夕食は冷たいスープだった。しなびた野菜が入っていたが、不味くはなかった。地下道には基本的に作物は育たないので、何か月かに一度、体が頑丈で寒さに慣れている者が地上に出て、かろうじて生えている植物を抜いてくる。それを皆で分け合うことが決まりだったが、それすら薬に交換しようとする者が後を絶たない。
「あーぁ、偶には魚とか食いたいな」
リュウが遠い故郷でも偲ぶような顔をして呻く。
「春になれば少し氷が薄くなる。そしたら魚も釣れるさ」
「そういうこと言うと、外に行かされるからやめた方がいい」
「別に俺は構わない。寒いの嫌いじゃないし」
「物好きだねぇ」
お互いに黙り込むと、周りの音が耳に入ってきた。皆食事をする時間帯だったのか、食器同士を鳴らすような音が聞こえてくる。遠くから聞こえる金切声と怒鳴り声は、カレー屋の跡地に住んでいる男女のものだろう。数日に一度は派手に喧嘩をしているが、夫婦でも恋人でもないらしい。
そもそもこの世界で家族や恋人なんて何の役にも立ちそうにない。生き延びるためか、あるいは現実から逃れるために、皆他人を利用している。
「明日はちょっと遠くまで足を延ばしてみる」
リュウが再び口を開いた。
「製薬用の石を拾ってこないと」
「あぁ、もうだいぶ磨滅してきたからな」
「どっちがいいかな。東西南北」
「この前は北だったら、今度は南なんてどうだ?」
「あぁ、そうしようかな。また新しい道が出来ているかもしれないし」
翌日、カレー屋のところに住んでいた男が死んだとかいう話が流れてきた。二人には心底関係のないことだったので、それを数分後には忘れた。昔はもう少し人情があった記憶もあるが、この環境では邪魔なだけだ。鈍化させていかないと神経がすり減って死んでしまう。
「じゃあ行くか」
リュウがそう声をかけたので、ジュンは頷いて立ち上がった。
カレー屋の前は血だらけで、女が一人座って自分の髪の毛の数を数えているようだったが、リュウがそれを見て「楽しいのかな、あれ」と的外れなことを言ったきりだった。
南の方向に進んでいき、製薬に必要な材料を採取していく。小さい物から大きなものまで得る物は様々だが、選り好みはしない。限られた物資の中で生きている以上、手に入るものはなんでも手に入れておく。それが地下都市に住む全員の共通認識だった。
ジュンは製薬に使えそうな木の根と化学繊維を見つけると、それを丁寧に背負っていたリュックサックに入れる。元は淡いグリーンをしていた布地は、長い生活の中でくすんだ灰色と化していた。ある程度集めたところでジュンはリュウに声をかける。だが、いつも近くにいるはずの相棒は何処にもいなかった。
「リュウ?」
呼ぶ声は地下道の薄暗い空気に紛れて消える。終わった世界で生み出された言葉の行き先など、そんなものだ。
ジュンは相棒を探して、更に南へと足を進める。入り組んだ通路の奥、人の気配がした。そちらに近づいて覗き込んだ瞬間に、ジュンの頭の中に五年ぶりの感情が湧きあがる。その正体を認識するまでの間に、視界に入ったものを脳が冷静に判断する。
自分と同じリュックサックを左肩にかけて、右手には採取用の火掻き棒。つい数時間前に見た姿そのままで、リュウは背中を向けて立っている。だが火掻き棒から滴るのは、いつもの腐った水でも石油でもなく、真っ赤な血だった。
今朝、カレー屋の前に流れていたものよりなお赤いのは、まだ時間が経っていないせいか。
リュウの足元には、白髪頭の老人が転がっていた。頭から血を流して、小さく痙攣はしているものの、もはやその命の灯火が消えかけているのは誰の目にも明らかだった。
「リュウ」
呆然としながら名前を呼ぶと、相棒は振り返る。その手には、老人の持ち物であったシガレットケースがあったが、表面が血で汚れている。
「何、してるんだ?」
「………嘘なのは知っていた」
「え?」
「この爺さんの話には興味、なかった。爺さんがその話を信じていることが羨ましかった」
リュウはジュンではなく、別の何かに弁解するように言葉を紡ぐ。
「俺たちがとっくに失った夢を、爺さんは持っていたんだ。それと無邪気に戯れてる爺さんが羨ましかった。この何もない世界で、爺さんだけが夢を見ていられるのが」
「何言ってるんだ?」
「このシガレットケースが爺さんに夢を見ることを許してた。いつか地上に出て、いつかこの惑星を出て、いつかいつかいつか……」
だから奪った。と冷たい声がジュンの鼓膜を震わせる。そして漸くジュンは、さっきから自分を支配する感覚が「恐怖」であることを思い出した。
「でも間違ってたんだよ。夢は純粋に爺さんのもので、こんなシガレットケースに夢なんか入ってない」
歪んだシガレットケースを血で染めるように、リュウは表面を撫でる。ミシキがいつもそうしていたように。
そして指を留め具に引っかけると、ケースを開けた。中から零れ落ちたのは、ジュンがよく知っているものだった。二人が作る薬が、ケースの中には詰まっていた。
ジュンはそれを見た途端に、その場から逃げだした。人を殺したリュウが恐ろしかったわけでもない。ミシキの痙攣が弱くなっていくのを見たくなかったわけでもない。
夢だと謳ったものの中から出てきたのが、自分たちの作った詰まらない物体だという事実が耐えられなかった。
何処に行きたいわけでもなく、ただ逃げたかった。足が痛みを訴えてなお走り続けた。願わくばここで走り続けて死にたいほどにジュンは恐怖を感じていた。そう考えていないと、口から何か叫んでしまいそうだった。飲み込むのに必死になりながら、呼吸のために只管に肺を動かす。
だがそれを唐突に、一筋の光が遮った。暗い地下道に不釣り合いなその光が、ジュンの行く先に現れた。足を止めようと思ったが、疲れた脳でそれは間に合わなかった。無様によろけながら、光の溢れる空間に倒れこむ。そこは地下道の一部ではあったが、今まで見たことがないほどの眩い光があった。
「宇宙、船?」
光の中央に鎮座するその物体を見て、ジュンはそう呟いた。ありったけの塗装剤を集めたのだろう、その船体は銀色だったり黒だったり白だったりと無秩序な配色をしていた。ジュンはそれを見て、ミシキの話を思い出す。
そして遂に絶叫した。
「大丈夫ですか?聞こえますか?」
ジュン・レオグラードは目を開くと、心配そうに覗き込む若い女を見て微笑んだ。気分は最悪だが、それを目の前の女にぶつけない程度には彼は紳士だった。
「大丈夫だよ」
繭のような白い楕円球のカプセルに入っていたジュンは、ゆっくりと体を起こした。真っ白な部屋の中央に置かれたカプセルの中は人一人が収まるスペースがあり、上半分が蓋となっている。蓋の裏側には緊急事態を知らせる文字が浮かんでは消えていた。
装置と自分を繋ぐためのコードを手足から取り外していると、女が申し訳なさそうに頭を下げる。
「実はシステムにエラーが発生しまして…」
「仕方ないよ。人の記憶を吸い取って使っているんだろう、このバーチャルビューアは」
「病院に行かれますか?お送りします」
「そうだね。頼むよ」
女が慌てて支度しているのを眺めながら、ジュンが思考を巡らしていると、静かな足音が近づいてきた。その足音はジュンの真横まで来て止まる。
「バーチャルビューアの実験、ご苦労様」
「いいえ、所長のお役に立てるのであればいくらでも」
「本当は君には宇宙空間を楽しんでもらうつもりだったんだ。ICHIの実行部隊から抜き出したデータでね。それが制御不可能になってしまった。あぁ、心配しなくとも脳に伝える信号は一通だ。君の脳細胞を破壊しなかったことは約束しよう」
黒髪の女科学者は笑顔でそう言った。
「だが、もう少し改良は必要だね」
「そうですね」
ジュンはカプセルから出ると、肩を回して首を左右に振る。
「人々の体験を電子的に保管して、後世への資料として残すとともに、その追体験も出来る。様々な分野に貢献できるシステムとなるはずです。それにフェリノルダ所長のご協力も仰ぐことが出来た」
「教え子に泣き付かれると弱くてね」
アキホ・F・フェリノルダは仕方なさそうに言ったものの、口元には笑みが浮かんだままだった。
「君の所にいる私の教え子は、少々甘ったれでね。ゼミ時代からよく泣き付いてきては私を困らせたものだ。久々だったのでついつい甘くしてしまったが……まぁ面白かったから良しとしよう」
「あの人が甘ったれ、ですか。俺たちには厳しいですよ」
「そういうものだよ。自分とは真逆を人には求めるものさ」
ところで、とアキホが口調を転じる。
「君は何を見たんだ?」
「………よくわかりません。俺の知識にはないものでした」
「ほう?」
「暗い地下道に住み着いている夢です。そこはコートリア惑星群のどこでもなくて、そしてエイリアンによって凍り付いた世界でした。あれは旧星ではないかと思います」
「………旧星の記憶?」
「はい。旧星のことは誰も語らない。だから俺も知りませんし、普段は想像すらしません。なのにそこがコートリアではないことは、起きてすぐに認識出来ました」
頭の中にまだ残っている記憶を辿りながら話していたジュンは、ふと思い出したようにアキホに尋ねた。
「所長、一つ確認したいのですが」
「なんだね?」
若干顔色が悪くなった様子でアキホが聞き返す。疲れたような、何かを耐えているような表情で、ジュンは何処の誰とも知らない「リュウ」の最後の顔を思い出していた。
「所長のミドルネームはなんですか?」
「………フタバだ。秋穂・双葉・フェリノルダ」
「フタバ……フタバ研究所…」
何か思い出せそうだったが、しかしアキホの顔を見て思考を放棄した。アキホは先ほどの表情を無理矢理笑みにゆがめたような顔をしていた。
「早く病院に行った方がいい」
「……そうします」
ジュンはそう答えて、部屋から出て行った。残されたアキホの顔は誰も見ることが出来なかった。
End
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