蛇の月 二日

 今日は面倒なことがあった。

 「君子危うきに近寄らず」という言葉が人間にはあるらしい。賢い者は危険にまず近づかない。やはり人間は狡猾で油断ならない種族だ。成りだけイカついここの連中よりよほど恐ろしい。しかし、世の中には避けられない危険というものがある。

 「厄災」という言葉で表現される、空に拡がる黒雲のように音もなく滲み寄り、辺り一帯に無差別に災害をまき散らす類の存在。奴はまさしくそれだった。

 黒毛に象頭の半巨人で、名前はボルティス・ヘルベロス・ディル・エキドゥナとかなんとかいうやつで、事あるごとにそれを名乗るのだが長すぎて誰も覚えない。皆からはボルティスと呼ばれている。魔神獣ティフォンの傍系という触れ込みだが、確認した奴はいない。しかし腕輪にはめ込まれた黒瑪瑙を見れば、或いは本当かもしれないと思わせられる。その黒瑪瑙の中心に浮かぶ燃えるような紅はただの模様ではなく、封入された高純度の魔力による輝きである。

 この「イフリートの瞳」と呼ばれる宝石は、帝国お抱えの職人だけに代々受け継がれる門外不出の製法で作られており、製法を盗む事は勿論、複製を試みただけで極刑に処される。そしてこれは戦場で何らかの手柄を立てたものに対し、その栄誉を称える勲章として与えられる物。つまりこいつが人間界帰りの軍人くずれであることの証明だ。

 そんな物をこんな世界の果てで見せつけても却って哀れなだけなのだが、それを面と向かって指摘する奴はいない。哀れだろうが何だろうが、それが凄まじい力の証明であることに変わりはないからだ。そしてここでは、誰かが誰も気に留めはしない。そういう場所だからだ。

 それを知ってか知らずか、こいつは鬱憤を晴らすように誰彼構わず絡む。だから誰も近寄らないのだが、そうなれば向こうから寄ってくる。そして今日は俺の番だった。


 「よう豚野郎、まだ生きてやがったのか。先日のご馳走を見てよ、俺はついにお前が調理されちまったのかと嘆いたんだが、無事で何よりだぜ」


 「おうそうかい、心配してくれてありがとうよ。おかげさまで元気にしてるよ」


 「そのようだな、以前にも増していい肥えっぷりじゃねえか。頼むから、坑道に詰まって塞いじまうのだけは勘弁してくれよ。掘り起こすのも面倒だし、吹き飛ばすにしても発破が勿体ねえからな!」


 傍に座っていたバルドが立ち上がりかけたがそれを後ろ手で抑えた。いくら単眼鬼キュクロプスでもこいつには敵わない。俺よりは良い勝負になるだろうが、むしろその方が傷は深くなる。黙ってやり過ごすのが最善だ。


 「良いか豚野郎、調子に乗ってんじゃねえぞ。お前が何年ここにいるか知らねえが俺には関係ねえ。魔族にとっては強さこそが全てだ。豚は黙って鼻を下に向けてりゃいいんだよ。おい、当りが出そうな気配がしたらすぐに俺に知らせろよ。黙って掘り出したりしたらタダじゃ置かねえからな」


 言うだけ言って気が済んだのか、ドアを乱暴に蹴り開けて奴は出ていった。バルドは何も言わないなりに何か言いたそうにしていたが、気にすることはない。「当たりが出そうなら俺に知らせろ」か。奴は何もわかっちゃいない。所詮奴もここではルーキーに過ぎないのだ。

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