第3話 【吉野 空】
「やっぱり空ちゃんには、水色が似合うわ」
そう言って、30代半ばくらいに見えるその女性は、ひらひらした服を渡してきた。
「お母さん、俺は…」
「もう、女の子なんだから、俺なんて言っちゃだめでしょう?」
そうだ、お母さんだった。お母さんは、女の子が欲しかった、っていつも言ってた。
「うん、ばっちり!スカートならもっと可愛いと思うのに、なんで履いてくれないの?」
「お、お友達と鬼ごっことかしたいし!」
「あら…まあ、いいわ。小学生だもの」
なんで忘れていたんだろう。うちは父1人、俺、妹が1人の3人家族。この母とは離婚した。
「それじゃ、外で遊んでくるね!」
でも、なんで、離婚したんだっけ…??
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「う…っ」
昔の映像が少しだけ流れ込んできた。小学生、の頃だろうか。小学生の頃の記憶、思い出そうとしてもどうにも思い出せない。印象的な出来事が一つもなかったんだな…なんて片付けられることじゃないくらい、全く、ごく一部も、思い出せない。
「野崎…衣織…」
口に出す。唇に触れる。どこか懐かしい動きで、懐かしい響きだった、ような気がした。
「……衣織…ちゃん…?」
…衣織ちゃん。衣織ちゃん。そうだ、衣織ちゃん。そんな子が小学校にいた気がする。
他に誰がいたっけ、と思い出そうとした。どうやらそれは、タブーだったらしい。
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「……ちゃん!!」
女の子の、声。
「………空ちゃん!!」
「…衣織…ちゃん?」
幼い少年の声が聞こえた。それは間違いなく自分から発されていたものだったが、自分が意図して発したわけではない。
「目、覚めた…あいつら、頭殴るなんてやりすぎだよね!!」
頭…殴られたのか?確かに頭は痛いが、先の耳鳴りと共に襲って来た頭痛との区別がつかない。
「うう、衣織ちゃん、俺、なんでこんなひどい目にあうのかな…。」
「空ちゃんのお母さんが、女の子みたいな服着せるからだよ…!」
ひどい目に遭っていた?記憶にない。頭を殴られたことなんて一度もない。お父さんと妹と、のほほんと暮らして来た記憶しかない。
「衣織ちゃん、俺…」
「あ!!いた!!オカマがいたぞ!!」
幼い頃の俺が何を言おうとしたのかは分からないが、だいたい状況をつかんだ。俺は、お母さんに女の子みたいな服を着せられ、それが原因でいじめ…に近しい感じの状況だったらしい。
「あんた達、そんなに寄ってたかって1人をいじめて楽しいの!?」
「うるせえ!衣織は関係ないだろ!」
「あるよ!空ちゃんいじめられたらかわいそうだもん!」
「うるせえ!!」
いかにも小学生という感じの感情的で単調な会話をした後、坊主軍団の1人は衣織に飛びかかった。
「や、痛い、痛いってば!!」
「女なんか髪引っ張ったらすぐ泣くもんな!お前もそうだろ、空!!」
「うっるさい!じゃああんた達は泣かないの!?」
「い、いだあああああ!!何すんだこの暴力女!」
いじめられている俺を、衣織は守ってくれていた…のだろうか。
「せ…せんせぇーーーーー!!」
叫んだのは、自分だった。駆けつけた先生によって、お役所仕事な仲直り(ほら謝りなさい、握手しなさい、って奴だ)をさせられ、無理やり教室に向かわされた。
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「でさー…あっ、最悪、オカマ帰ってきた」
「雰囲気悪くなるから学校来ないで欲しいんだけどー」
「ていうか衣織が助けなきゃ絶対もう不登校になってるよね、衣織うざぁい」
「ほんとにね、2人とも学校来なきゃいいのに」
「…あ、見た?今衣織こっち睨んだよ」
「うわぁ、うっざー」
教室に戻ると、ひそひそと囁かれる悪口が聞こえた。いじめを助けるといじめられっ子側になり、先生がそれをひたすら無視してお役所仕事な対応しかしない。そういうよくない態勢の小学校だなと感じた。
「お…女の子…みたい…な…」
その時だった。自分が、ぼそりと呟いた。
「え?あいつなんか言った?」
「え?うっざぁー」
「…女の子みたいな服着て何が悪いんだ!!別にお前らに何も迷惑かけてねえだろ!!」
うわ、俺、正論。
「俺だって着たくて着てるわけじゃない!お前らだって自分で選んでる服よりお母さんに買ってきてもらったから着よう、って感じだろ!?俺はたまたまお母さんの趣味がちょっと女性寄りだっただけで…!」
自分の顔は自分で見えないけど、多分必死な顔をしているのだろう。自分が女の子として無理やり育てられても、その母親の悪口を言うでもなく、あくまで好きな服を着る権利を主張できる。というか、そうしないと、自分が望まれていないことを認めてしまう。そんな俺は、多分側から見れば理屈っぽくて、服装とか関係なく嫌なやつで、それで嫌われていたとしてもおかしくない。
「う…うるせえ!!!」
さっき衣織の髪を引っ張っていた坊主が、俺に向かって椅子を振り下ろした。うるせえじゃなくて、言葉で反論しろよ、低脳。…多分、俺があの時、そうやって一回一回言い返す勇気があれば、嫌われはしても、いじめられはしなかったのだろう。
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「空。」
「…父さん?」
家だ。と言っても、今の家ではない。さっきお母さんに女の子の服を着せられていた、あの家だ。
「クラスのお友達…衣織ちゃんだっけな?その子に話を聞いた。…母さんのせいで、辛い思いしてたんだな。お前は相談してくれなかったし、それに、おにごっこをするとか言って家を出て行くから、友達がいて普通に過ごせているものだと思っていたが…」
空白で、空白だったことにすら気づかなかったその穴に、どくどくと記憶が注ぎ込まれている。図書館で本を読んだりしていた。公園で1人で遊んだりしていた。
「空、言ってくれよ、辛い時は。もちろん、何かができるわけじゃないし、学校に乗り込むなんてことも俺にはできないけど、でも……母さんと別々に暮らすことくらいなら、俺はできるんだから…!」
「…暮らしたい。別々で。俺、もう嫌」
俺の声は、ひどく冷たくて、無感情だった。椅子で殴られて、何かの糸が切れてしまったのか、ただ疲れてしまったのか。
「小学校のみんなとお別れだけどいいのか?」
「その方がいい。…待って、衣織ちゃんだけは、お別れ言いたい」
「じゃあ父さん、学校に電話するから。その間に行ってこい。」
「…うん」
ベビーベッドの中の妹が、「ばいばい」と、手をぶんぶんと振っている。きっと海にも、この頃の記憶はないんだろうな。
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ピンポーン。という音。野崎の表札。なんで俺の家を知ってるんだといつも思ってたけど、俺もこいつの家を知ってたのか…
「空ちゃん?どうしたの、珍しい」
「衣織ちゃん、俺ね、」
次の言葉は、明日でお別れなんだ、とかだと思っていた。でも、違った。
「衣織ちゃんのこと、ずっと好きだった」
「…私も空ちゃんのこと、好きだったの」
「衣織ちゃん、俺と付き合ってくれる?もしよかったら、俺のこと、呼び捨てで呼んで。」
「…空…空…!!」
「…ありがとう…衣織…それじゃあね」
「うん、また明日…空!」
そんな、それじゃ、俺と衣織は…?
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「空、引っ越す前に、お医者さんのところ行こうな」
「え?なんで?」
「うーん…新しい家が病気の菌だらけになったら嫌だろ?」
「…嫌だ。…海はいいの?」
「海はいいんだ。まだ小さいから」
「…小さいと病気にならないの?」
…そんなわけない。どこに連れていかれたんだろう。…でも、想像はつく。
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「君が空くん?」
「はい」
「…この炎、じいっとみてね」
「病気を燃やすの?」
「まあ、そうだよ」
暗い部屋で、揺れるライターの炎をじいっと見た。見て、いた。
「ちょっと学校のことについて話せる?」
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「これで記憶は消えました。」
「ありがとうございます、お医者さん」
「…きおく?なんのこと?」
「キオクっていうウイルスなんだよ。だって空くん、思い出の方の記憶はあるだろ?」
「うん。これはお父さん。妹、海。」
学校についての記憶が消されたんだ。というか、封じ込められたんだ。
カチャン。
さっき鳴った、あの音は。
「本当にありがとうございました」
「いえ、いいんですよ」
ライターの蓋の、閉まる音だったんだ。
衣織の恋檻 @yozakura_
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