第2話 【谷山 空】

けたたましい音を立てる目覚まし時計。時計上部のボタンを勢いよく叩くと、ジギッと嫌な音を立てた。6時20分だ。


「兄ちゃん、早く起きて!」


妹の海が叫んでいる。


「はいはい。何?」


「今日は私が作ったおにぎりなの!」


ああ、嬉しい。でも俺は、ある理由のせいで、ほかほかのおにぎりを食べることはできない。6時25分、急いで支度をする。


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「それじゃ、行ってきます。」


家を出る6時30分。できるだけ急いで扉を閉め、庭から出る。あとは、走るだけ…!


「あ、空!迎えに来てあげてるのに先に行こうとしないでよ!」


「…ああ。」


…今日も、来た。


「許してあげる!一緒に行こ!!」


何を許されたのか分からないし、俺はこの女が誰なのかも知らない。


この女と合流した6時30分過ぎ。俺のいつも通りは、いつもここで狂わされる。最初の頃は6時40分くらいに現れていた。だから、少しずつ家を出る時間を早くしていった。37分。36分。それでもあいつはついてくる。恐怖と、どうしようもできない怒りで、今にも狂いそうだった。でも正気でいないと。狂ったら、この女と同じ狂人だ。


「ねえ、なんでいつも置いて行こうとするの?私も大変なんだよ?」


「いつ出ても付いてくるじゃねぇか。俺は気分で家出てんの。」


「そうなんだぁ」


嫌味のつもりで言ったのに、少し嬉しそうにうんうんと頷くその女に、更に怒りは募った。


「うん、そっかぁ。ごめんね困らせて!」


爆発しそうだった。不意に感じた鉄の味で少し冷静になり、黙り込む。困ってる。困っているよ。なんでついてくるの。なんで?早く家を出てるのに?どうして?


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「今日は、学年で12番目かぁ。私たちが一緒に学校に来た初めての日は、80番目くらいだったよね」


「そうだな」


ああ、最悪だ。こんなに早く来てどうしろと言うんだ。


「あ、空、バイバイ!また帰りにね!」


返事もせずに机にリュックを降ろす。最後についあの女をちらりと見てしまう。するといつも気味の悪い笑みを浮かべられる。しまったなと思う。


「あ、衣織おはよう!今日も早いね!」


隣のクラスから、会話が聞こえる。最初の頃はあの友達とーーー美玖とーーー会うためにある程度早く登校してて、偶然会うものだとばかり思っていた。しかし、時間を早めても早めてもついてくるし、何よりあの女の家から俺の家は、学校とは逆方向らしい。


「えへへ、数学の宿題多すぎなんだよね」


衣織と呼ばれたあの女は、いかにも普通の女子生徒のように笑っていた。もしあの女が狂っていないと仮定したら…。嫌な考えが頭をよぎった。ぶんぶんと頭を振ってかき消し、その感情そのものに蓋をするように、もかもかと妹のおにぎりを口に放り込んだ。


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「それでは帰りの会を終わります…こら空、まだ立つんじゃない。」


ああ、早く帰らなきゃ。帰りもあの女はついてくる。衣織。気持ち悪いあいつのことを考える。あいつの行為が心にさくさくと刺さって、全身を寒気に支配される。


「はい、じゃあ、さようなら。気いつけて帰れよ。」


本当にそう思ってるなら、俺と一緒に、俺のことを守りながら帰ってくれ…。心の中でつぶやいて、荷物をまとめた。


玄関から出ると、ぶるりと震えた。寒い。早く帰ろう。そんで、コタツで温まろう。ぬくぬくの、いつも通りの日常。


「空ぁっ!!!もう、遅いって!」


「ん…。」


…邪魔だ、この女が。いつも通りの日常。その中に、この衣織はいないはずだ。


「…今日もついてくるの」


決着だ、衣織。今日でこんなくだらないことはやめてもらう。ついてこい、ストーカーらしく。真実を伝えてやるから。


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「そろそろ周りに誰もいないよ」


「え?あぁ」


俺が何か言おうとしたこと、察してる…のか?気持ち悪い。とことん気持ち悪い。


「…早く帰れよ」


「待って、空、私____」


「あ、待って。」


やっぱり、察されてる。それなら逆に、ぶちまけてやるよ、その何かを。


「あのさ。言いたいことがあるんだけど」


ああ…傷つくだろうか。いくらストーカーという軽犯罪者予備軍だからと言って、人を傷つけるのはできれば避けたいが…でも…。俺だって限界なんだ。ごめんね。


「隣のクラスの、衣織、で合ってる?そろそろ迷惑だからさ、やめてくれない?」


「え?えっと…何を?」


「何をって…登下校の時についてくるのとか」


「あ…あ、そっか」


…悪いことしてる…っつか、そういう自覚が、ないのか?どうして…?


「うん、分かった!じゃあね空!…一緒に学校には行かないから、でも明日の朝、会いに行くね!絶対!うん、また明日!」


必死に訴えるその女を見ていた。キィンと不快な高音が脳内に響く。なんだ。なんで。俺が悪いのか?この女は俺を知っているのか?


「おい、待てって!!」


「…え?」


「まだ話終わってねえから。あのさ」


どう言うべきなんだろうか。お前は誰だ?なんで俺を知っているんだ?と、問うべきなんだろうか。この女がもしかして知り合いかもしれないと、必死に痛む頭を回転させるが、痛みが増すばかりだ。…そうだ。敢えてきつく言おう。それなら、もし知り合いなら、『何言ってんの?私たちは…』と関係を明かしてくれるはずだ。


「…関わりもないのにそういうことされても、その。正直…ウザい。」


「え?」


「ていうか、気持ち悪い。なんで俺の家知ってるの?なんでそれだけ早く登校しても付いてくるの?お前、気持ち悪いよ」


「どういうこと?私たち、付き合ってるじゃん!」


…ちょっと、待て。


「…俺はお前のこと知らない。付き合ってるわけないだろ。」


「ちょっと冗談キツイよ…」


いくらなんでもそれはないだろ?付き合ってるってことは、彼氏彼女ってことだろ?知らない相手が彼女?そんな、ことは。


「それはこっちのセリフだから。…もう二度と、恋人ごっこだか知らないけど、ああいうことはしないで。」


ない。はずなのに、どうしてこんなに頭が痛いんだろう。もしかしたらこの女を知っているのだろうか?無意識下の別世界や、前世での関わりが?非現実的だが、この頭の痛みはどう証明すればいいんだろう。


「ねぇ、待って、空、空!!!」


なんだ、なんだ。朝とは違う恐怖と、どうしようもない怒りが、脳細胞をぐちゅぐちゅと握りつぶしてくるようだ。あの女を知ってるのか?知ってるならなぜ思い出せないんだ?


とりあえず落ち着こう。家に入ろう。卒業アルバムとかも見てみよう。それで知り合いだったら、付き合ってないにしてもとりあえず謝ろう。知らないなんて言ってごめんって。でもやっぱり付き合ってはないと思うから、そういうのはやめてくれって改めてちゃんと言わなきゃ。ドアノブに手をかける。扉を開ける。中に入る。まだあの女の泣き声が聞こえる。でも、思い出す前は相手しちゃダメだ。今はとりあえず…ごめん、放置する。


ドアを閉める。ガチャン、と無機質な音がして、痛かった頭がさらに痛くなる。高音と一緒に、ガチャンという音が頭の中で響く。


カチャン。


頭の中で、それらとは別の音が、一回だけ鳴った。その瞬間他の音も止んだ。代わりに夥しい量の映像が流れ込んできた。


その映像の中の小さな衣織が、俺に向かって微笑んだーーー

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