『老鴉』(2007年01月08日)

矢口晃

第1話

 晩冬の日が当たる川原近くの一本の枯木の枝の上に、一羽の老いた鴉がその尖った嘴をちかちかと反射させながら、時折風が吹くと肌寒い空気の中で、静かに時を送っていた。水かさのすっかり減った川には白い石の岸が大きく広がり、すなどる渡り鳥の類も多くは見られなかった。老鴉はこの肌寒い枝の上に身を震わせながら、自分のすっかり年老いたことを自覚していた。若い時は豊かにあった翼の羽も最近では抜けがちになり、頭頂部や胸を覆う産毛も薄くなり白い地肌さえ見えているところもあったのである。一昔前まであれほど食欲に盛んだった体は今は体力も衰え、少しくらい腹が減っても枝の上にこうしてじっとしている方が却ってくたびれないから楽である。そして幸いにも、いったん川原に降りればそこには午前の内に拾ってきた食料が、まだ石の下に隠してあるのである。老鴉は目を瞑ったり開いたりしながら、見慣れた山の模様や蛇行する川の容子などを、心の中に焼き付けようとでもするかのように、じっと見つめていたのである。

 今でこそ痩せた老鴉になりはてたこの鴉であるが、まだ若かった時分にはそれこそ色々の悪いことも行ってきたのである。例えば人家の軒先に吊ってある干し柿を横領するなどはここに取り立てて言うべきほどのことでもない。あるときは魚を釣る人の後ろでじっと気配を消しながら身を隠し、釣り上げたなと思う瞬間その獲物を攫っていったこともあった。またある時は八百屋の軒下に燦々と盛られてある林檎や蜜柑に手をつけたこともある。それがしばらく続くと店の人間が箒を持ってずっと店先で睨みを利かせるようになってしまったから、その後からは八百屋で果物を買った人間の頭上を襲い、驚いて手放した買い物籠の中から目当てのものを奪いとるということまで考え付いた。春の頃はあちこちで猫が子供を産む。その生まれて間もない子猫を、親猫の見ていない隙にねぐらから掠め取っていくということも稀ではなかった。とにかく、若い頃には悪知恵を働かせて、思いつく限りの悪事を働いて来たのである。

 しかしそれもこれも全ては己の生きるためであったのだと、生まれてから十回目の冬を迎えている老鴉は一人思う。もちろん人間の作ったものや育てたもの、鳥の雛や鶏の卵を奪うことが賞賛されるべき行いでないことくらいはいかな自分たち鴉にも分かってはいたのである。だが一方で腹の減るのはいかんとも度し難い。やった行いは確かに悪いかも知れぬ。しかし生きるためを考えれば、人間が家畜を育てて殺すことと自分のしてきたこととの間に、それほど大きな違いがあるようには思われなかった。生きるためにしたことである。だからそれは、仕方のないことであった。

 長い時間枝の上でじっと寒さに堪えていた老鴉は、この時ひときわ強く空腹を感じ始めた。老鴉は体を覆うように閉じていた翼を徐に開くと、冷たい風に細い胴体をさらしながら、ゆっくりと白い川原に降り立った。それから転がる小石の上をとんとんと器用に両足で跳びながら、食料の隠してある枯木の根方まで進んで行った。そこにはさっき午前の内に拾ってきた身のついた魚の骨がまだいくつか隠してあるはずである。老鴉は嘴の先で積んである小石を一つずつどかしながら、その食料を掘り出そうとしていた。

 しかし最近ことに見えづらくなった老鴉の視力は、用意に老鴉自身にその仕事をさせ得なかった。老鴉は詰んである石を何度も咥え損なっては、意のままにならない己が体と攻め立てる空腹とのために気を急かせていた。

 その時である。急に老鴉の背中に何か重いものがのしかかってきたかと思うと、その首筋にとげのようなものが突き刺さった。何の前触れもなく襲ってきた激痛に驚いて老鴉は再び枝の上に飛び上がろうとしたが、もうその時には老鴉の翼には何か鉤のようなものが頑丈にひっかかって身の自由を奪われていた。たまらず老鴉は声を上げた。しかしその声は無情にも乾いた川原の上に僅かに響くばかりで、他の鴉の耳には届かなかった。老鴉が抵抗のために激しく翼を振るうと、振り落とされた無数の羽根が辺りに飛び散り、白い川原の中にあって老鴉のいる周辺だけが黒い模様を浮かび上がらせていた。

 石の下から餌を探す老鴉に突然襲い掛かったもの。それは体の成熟した大きな雄の野良猫であった。この若い野良猫は一羽の鴉が枯木の根方で何かに夢中になって気をとらわれているのを見逃さなかった。猫は身を屈めて音も立てずに鴉の背後に忍び寄ると、狙いを定めて一気にその背中に飛び掛ったのである。

 老鴉の力はその後急速に乏しくなった。若い猫は口の周りを赤い血に汚しながら、誰か他の猫がこの獲物を横取りしに来ないか辺りに注意を走らせつつ、捕らえた鴉の肉を己が命に換えん為、熱心にその肉にかぶりついた。



追記 「老鴉」と云ふは「おいがらす」と読むに非ず「らうあ」と読まれんと期するもの也

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『老鴉』(2007年01月08日) 矢口晃 @yaguti

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る