第4話 突如彗星現る(2)

 僕は走っていた。何かおぞましい生物が僕の背後にいて、そいつの触手が僕の足首をかすめる。僕の直感がこの触手に捕まったら一巻の終わりだと、そう告げている。なぜだかわからないけれど、そう思うのだ。足が空回りして転げそうになる。

 ——もう終わりだ。それならば、その僕が逃げ回っている相手の姿をこの目で見てから死のう。そう思い思い切って振り返る。

 そこにいたのは、美しい女性——緑川ユキ——がいて、優しく微笑んでいた。

「逃げなくても大丈夫だよ。高橋君。私は高橋君の味方だよ。どうして逃げるの?怖いの?」

「どうして逃げるって、それは……」


 眩しい。朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。そうして、僕は夢を見ていたのだと気づく。

 緑川ユキ——僕は彼女を恐れているんだろうか。

 フロイトに僕の夢について尋ねたら、どうせ性的なことと関連付けた夢診断をされるだろうし、夢なんかに大した意味はないのだと思っている。それでもどこかで夢というものは現実世界とどこかで繋がっている何かなのではないかと思う時がある。一説では夢というものは僕が歩まなかったもう一つの現実——平行世界パラレルワールド——を見ているのであるというものだ。

 この現実というものは絶対の存在と僕たちは考えている。しかし、実際は、この宇宙空間で起こるすべての出来事はデータとして存在していて、そのデータ上の一点から別の点へ移動しているだけで、その移動の際に僕たちの意識は時間というものを感じるようになっているという。そのデータ上の世界である現実世界ではある意味で連続性が保たれている。つまり、瞬間的に場所を移動したり突然人が姿を変えたりすることはない。一方で、夢の世界ではそうした連続性が保障されておらず、意識は瞬間的にすべての出来事の集合の他の点に移動できる。そのため、夢は基本的に平行世界を見ているのだが瞬間的に任意の点に移動できるので一見すると荒唐無稽なことが起こっているようにのだ。

 この夢もある種の平行世界の旅なのかもしれない。そうしてみたところで、僕の今の気持ちや不安感を説明できる気もしなかった。ただ、緑川サキにはどこかでこうした台詞を言わせてしまう場面はあるように思われる。

 彼女ははっきり言ってしまうと可愛い部類の女性だった。あくまで僕にとってという注釈をつける必要があるかもしれない。女性の外見の好みなどというものは千差万別、人によって異なるものだろうから。だからこそ、僕は自分の何かを彼女に吸い取られてしまうようにも感じられるのだ。それに身を委ねると心地よさそうに思えるにも関わらず、それを良しとしない気持ちが同時に湧いてくるのである。

 そんなことを考えている間に、1限目の講義の時間が近づいていた。早く家を出ないと講義に間に合わない。僕は、急いで適当な服を着て、冷蔵庫にあったチーズを食パンに挟んで食べて、大学へ向かった。


 1限目の講義は線形代数だった。線形代数というのは高校でいうベクトルや行列に類するものだ。高校の時と違って、この講義ではベクトル空間をユークリッド空間における矢印として説明するのではなく、和とある体の元によるスカラー倍の定まった集合として定義する純粋数学寄りの講義だった。

 講師の先生も数学科の助教をやっている先生で、僕のような工学部ではなく理学部出身らしい。しかし先生の方もなるべく工学部の学生向けに応用例などを紹介しようと努力しているようだ。

 ふと講義室を見回してみる。そこには緑川サキの姿は見当たらなく、少しほっとした。


「おーい、高橋!」

講義後に生協の購買の本棚でプログラミングの本をチェックしていた僕は、突如呼び止められた。この声の主は、

「おお。赤森君」

のっそりとした背の高い男が顔をくしゃっとした笑顔を見せている。短く切った髪を軽くワックスでセットしており、イケメンじみた雰囲気を醸している。ただ顔はまだ少年らしさを残しており、まだ発展途上な感がある。

「君はいいよ、赤森って呼べよ。俺も高橋って呼び捨てしてるしさ。」

「うん、わかった。赤森って呼ぶよ。」

「つーか、お前さ、昨日すげー可愛い子と図書館で話してなかった?知り合い?なら、俺にも紹介しろよー」

 緑川さんのことだろうか。

「それって、どんな子だった?」

「うーん、ちょっと大人びてそうだけど、幼さもあるようなちょっと謎めいた雰囲気があったな。でも顔は超可愛かったぜ?なんかお前と知り合いっぽい感じの会話してたじゃん。」

 やっぱり緑川さんのことらしい。そういうことなら、きちんと赤森に説明した方が良いかもしれないと思った。赤森は、同じ文芸部に所属していて、少し軽い印象を受けるが、信頼の置ける人物と僕は感じていた。

「その女性というのは実は僕の知らない人なんだが、向こうは僕のことをなんでも知ってるなどとのたまうようなやからでさ、ちょっと僕は困ってるんだよ。」

「何を言ってるのかよくわからんけど?」

「いや、僕も正直よくわからないんだ。あの女は何なのか。」

 ふーん。と赤森は少し遠くを見て言う。

「まあでも、人間なんてよくわからないものだと思うぜ?実際、俺もこんなこと言うのもアレだけど、高橋とはまだ出会って二ヶ月ほどだしお前がどんなやつなんかわからない。第一お前は昔のことを話したがらないし、聞いてもはぐらかす。お前だって俺のことをわかっているとは到底言えないだろ?」

「まあ、そうだけどさ。僕は、赤森は信頼できると思ってる。なんか好きなんだよね。君のこと」

 赤森の顔が少し赤くなる。慌てた様子で体をくねらせる。

「はァ!?何それ、俺たち男同士だぜ?何それ告白か?俺は、俺は……あ、ありがたいお言葉だけどさ、そういう関係にはなれないっていうか、さ、そのさ」

 僕はおもわず吹き出してしまった。

「別にそういうつもりで言ってるわけじゃないし、何を慌ててるんだよ。別に、僕はホモとかゲイとかじゃないし、ヘテロタイプの健全男子だよ。」

 赤森は、ちょっと気まずそうにしてから、でもまだ若干恥ずかしそうに付け加えてくる。

「おい、高橋。そういう言い方はよくないぜ。今時ゲイだっておかしくない世の中なんだぜ?だからヘテロが健全なんていっちゃーいけないんだよ。」

「じゃあ、僕がゲイでガチ告白だった方が良かった?」

「はァ!?何言ってんだよ、そんなわけない……ことも、」

 そう赤森は言って口をモゴモゴさせた。

「なんて言ったの?よく聞こえなかったけど?」

「う、うるせーよッ!」

 

 休み時間中だと時間が短くてきちんと話せないから、赤森とは夕方に一緒に餃子を食べに行く約束をした。そこで、僕は緑川ユキについて相談しようというつもりだ。

 僕は二限目に向かった。空は雲ひとつない快晴で日差しは暖かくすがすがしい天気だった。

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恋愛パソロジー 古吉春雨 @tamago_soup

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