#166 Water Lily(無垢と威厳)

 嫉妬?羨望?劣等?


 自身が渇望する──その唯一の一つ以外は大体何でも持っている有能で恵まれた彼が口にしたネガティブな質問。


 しかし、そのプシュケに似たパスを受け取るのは…望んですらいない一つ以外は大体、普通の人生で獲得すべき凡百な何かすら欠落していると言う事を考慮して配慮して欲しかったというのは、なんともと度を超えた甘えか、それとも空気を読めてない嫌味だろうか?


 そんな二択はさておいて、質問されたからには答えねばならない。

 それが社会的動物である人間の責務だから。質問を質問で返す訳にはどうにもいかない。


 例え、それがどんなにみっともない言葉だとしても…!


「…そんなのさぁ、普通に。お前は僕を、一体何だと思ってんだ?」

「マジかよ…あ、あんの…あんのかよ?」


 短くなった煙草を指から落とさんばかりに驚愕した表情と窺う様な言葉尻が多少なりとも不愉快に感じたので――このまま閉口してしまおうかとも考えたが――かつて「対話」による「相互理解」が大切なのだと、過去の自分が訳知り顔で恋人に説いて語っていたのをぼんやりと思い出して、すぐさま思い直す。


 そんでもって、これこそがこの瞬間の僕達に必要なプロセスなのだと、面の皮を分厚くしてから自分を鼓舞する。


「だからさ、マジで! 僕を何だと思ってんだよ? もし仮に全知全能のお釈迦様でも嫉妬に狂って天罰を下すぜ?」

「なにその斬新な神仏混淆。何処の誰が全知全能なんだか」

「うるせぇ…言いながら意味わからんとは思ったよ。流石にさ」


 僕のそれより少し高い位置にある肩に軽く右ストレートをヒットさせながら、「でもまあ…」とニタニタ笑う色男に向けて主張の本旨を続ける事にした。


「何っても、全知全能である前に僕は僕だからさ。脳死の繰り返しみたいだけど、それだけでまあ…って思う」


 嫉妬とか羨望とかネガティヴは感情はゼロに決して出来無い事は自明の理ではあるけれど、それは僕が僕である事と本質的には無関係だし、実質的にはそれこそ神仏混淆の合成獣なのだから。今更切り離し様が無い厄介な隣人でもある。


 とは言え、一般論では括れない程度には余りにも反応が希薄なので微妙に不安にならなくも無い。


 けれど、生来の能天気な性格が災いしたのか――或いは生来の製作者クリエイター気質が矢面に立ってしまったのか――身勝手な風を漂わせつつ続編を紡ぐ。


「そもそも、そんなの僕的には…、失望や全貌なんかのドス黒い感情は普遍で普通だからなぁ。作詞作曲で解消・昇華してるだけで根本的にはマジでどうしようもない事だから」


 だから、生きて行くのがデフォルトじゃねぇの?

 きっとそれは僕に限った話では無く。そういうものなんだと思う、きっとね。


「ていうか、そもそものそもそもとして。何年、と一緒にいると思ってんだよ」

「はあ?」


 安全装置のフィルターまで焼き切りそうな様相の煙草を慌てて離して靴で揉み消した男は心底不思議そうな顔。

 おいおい、マジでどうしたお前さんよ? 盛りに盛ったカタログスペックの欠片も出力出来ていない酷い有り様じゃないか。


 自分よりも遥かに無知な人間に「ふむ、こうしてみてはどうだろうか」と訳知り顔で厚顔無恥に提案する有能ぶった割に結構無能な僕は僕でリズムの合わない頓珍漢な解を示す。


「僕はさぁ…僕には物心ついた時――いや、つく前なのかな? 分かんねぇ――まあ隣にはずっと、生まれが良くて顔が良くて頭が良い上に社交性マックスな男が居たんだよ。なら、だから――」


 自分の限界を知るのは早かったよ。


「だからかな? 自分の能力げんかいを阿呆みたいに知ってるし、劣等感マイナスなんか死ぬ程理解してる」

「は、は」

「ん?」

「はははははははっはっ」

「おっ? お、お前…おお、マジで? 大丈夫か?」

 

 大丈夫かマジで? 本気で壊れてない?

 僕の放った遠慮な言葉が彼の奥底にひっそりと敷かれた最期の一線における臆病な結界をブチ壊してないか? マジのガチの卍でさ? ってか卍ってなんだ? 寺?


 そんな風にテンパる僕を更に加速させる嘲笑は勿論、相対する彼から発せられたものでなおいっそう混迷が速度を上げる感じである。


「いや、悪い。多分お前的にはフォローのつもりなんだろうけど、マジで悪いけど――救われ無いなって…。ちょっと自嘲気味になった」

「あれぇ……」


 そんな風に声高に砂漠の様に笑う彼に一体僕がどんな言葉を告げれば良いのか皆目検討が付かないよ。

 もっと丸く収まる場面じゃねぇのか? なんか一難去ってまた一難の展開ばかりだし、毎回エマージェンシーの常在戦場ばっかりに身を置いてないか僕?


 垣根を越えて分からねぇ思いを継続したまま所在無く、なんとなく。

 微かに震える左手で手癖のままにネックレスのトップをイジり、反対の手で短い髪の毛を摘む…うーむ、詰んだな、コレは。


 頭の片隅で描いた青写真に似た設計図とは程遠く、出来の悪いカーナビみたいに経路が意味不明な現在。


 ならば、理想的な着地点なんかもう知らねえよ。ガン無視で行くぜ。


 ガンガンいろいろな命令を絶対にさせない僕は「…こう言っても、きっと…同様に救われねぇけど」と前置きをし、予防線の構築に余念の無い小心者は即興の思い付きを見えない言葉で形成していく。


「悠一は――お前はさ、平均よりも優秀うえできっと色んなものが見えてるし、普通に聡すぎるから。そのせいで気付かなくても良いことに気付くし、些細な事を見落としたんだ」

「なんだよ今度は。説教交じりの嫌味か? それとも皮肉か?」

「率直な感想だよ」


 軽い返答の最中に右手でカモンカモン。

 安直に分かりやすく述べるならば、煙草を一本所望して、乞食の様に要求した訳だ。


「断腸の思いでヤメた割には結構翻すのな、アラタ…ほらっ」

「ん、サンキュー」


 幼馴染から嫌味と共に差し出された赤い箱から引き抜いたそれを口に咥えて形式的な感謝を代わりに返す。


 そんな言葉が届くかどうかのタイミングで彼が火の点いたジッポを低く、僕の口元に翳した。


 目線を暫し上げて目を合わせ、首肯でその行為に報いながら息を吸って重たいタールの煙を肺へと吸い込む。


 自身が持つ唯一の価値を傷付ける自傷行為そのもので、きっとプロ失格だろうけれど――僕はプロのミュージシャンである前に一人の人間だから――まあ、何というかギリギリセーフだろう、多分、きっと、おそらくは。


 割り切れなくて苦い気持ちを煙に混ぜ込んで吐き出す。


「その代わり、僕は大抵の事は見落とすし、大概の事は気付かない――出来過ぎた補完関係だと思わないか?」

「確かに出来過ぎだ。良くぞ…ここまで保ったもんだ」


 両手を広げながら軽くハンズアップ。


 僕もそう思う。出来過ぎだと。作為の匂いがすると。


 けれど、同時に確信がある。


「でもさ、逆説的には…その瞬間まで。僕達が道を分かつまでは――補完する価値があると思うんだけど――お前は、どう思う?」


 吹き抜ける冷たい風が夜を連れてくる。

 希望なんて聞き届けられなくても、それでもやって来る。

 それは他人の本心も同じで。僕の思いとは関係無く飛んで来るし、下手したら飛んですら来ない。連れてきやしない。ならば、幾分夜の方がマシかも知れないね。


 何度か灰を落としたり、煙を吸い込んだりを繰り返して煙草の長さが半分程度になった頃、ボールが返って来た。


「…そうだな。俺も所詮人間だから、どんなに優れてる様相フリをしていても完璧じゃない。それは痛感しっぱなしだ」


 僕の顔を見る事なく、大きな瞳は流れる川に向けられたまま彼は言葉を続ける。風に揺れる黒髪はきっと何のメタファーでも無い。


「でも、そうだな。お前の言う通り、いつかウロボロスが己のカラダを喰い終わるまで補完して行くのも悪く無いかも知れない」


 そこまで言って初めて彼は此方こちらを向いた。

 右手でちょいちょいと何かを促すジェスチャー。どうやら煙草を向けろという事らしい。


 彼は箱から新たに一本取り出して、僕のものから火を移す。立ち上る紫煙が二本に増えた。


「足りないものを埋めるのが相棒か…ったく、を言ったもんだな…俺もお前も」

「まあこれが正しい因果って奴なんじゃないか? 良く知らないけど」

「因果ねぇ…」


 下らない事を言い合いながら僕達はとっぷりと暗くなった一級河川を眺める。

 いつもは等間隔に並ぶカップルで溢れ返るこの場所に今は僕達二人だけ。


 傍から見ればまぁまぁ気持ち悪いのかも知れないが、それでも必要な事だったと僕は胸を張れる。


 これからメジャーを戦う上でのブリーフィングみたいなものだし、これからも生きて行く上でのオーバーチュアだから。


 僕は良かったと思っている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る