#160 Mirror Mirror(鏡よ鏡)

 静謐かつ冷淡な空気がぼんやりと揺蕩たゆたうのは僕と幼馴染の間に存在する近い距離。

 その刹那に近い永劫の時間の中で延々と深化を続ける彼の心と、その代わりとばかりに能天気な仕草で表面にふわりと浮遊する内面。


 物心ついてから初めて視るその光景に、表面化する心象風景に動揺するのが自然なのだろうけれど、何故だかそういった種類の振動は…思った程では無い。


 愚鈍で鈍感な僕に限ってまさかではあるけれど、それをきっと予め予期していた訳では無いだろう。

 恥ずかしながら、その程度の有能さを持ち合わせていない事くらいは理解出来る。他ならぬ自分の事だから…残念ながらね。


 ならば、何だろう。

 きっと知っているのだ。

 僕は、彼のことを。

 彼が隠してきた人間性を。

 多分、知っている。

 ずっと前から。


 何故なら、僕達は幼馴染で親友でバンドメンバーなのだから。


 隣りにいる彼ほど非凡な聡明さは無く、禿筆するまでには成績優秀でも無く語彙の多くない僕には…的確かつ明確に言語化出来無いだけで、その実ずっと昔からその解答こたえを胸中や脳内の何処かしらに抱いていて、今に至るまで持ち合わせていたのた。

 

 今更ながらそれに気付いた。それならば合点が行く。

 ようやくと言えば救いがあるが、間に合ったかどうかは今後の展開次第。浅く息を吐く。


 沈殿物たるそこに独善的な意見を真っ直ぐに加える。


「僕は、いつだってやりたいことをやってきた」


 知性を失くした猿でさえ可能な繰り返しの言葉。言うべき感情を見失っている証拠。堂々巡りの思考を雄弁に語る言外の意。

 息吹の様にゆっくりと喋りながら道を辿る。既にルートが確定していながら、未踏である為にまだ見ぬ道である獣道をジャメブめいた心音で開拓する。


「歌いたいから歌って、ギターを弾いてきた。それだけじゃ駄目なのか? 仲間と一緒に音楽をするのが楽しいだけじゃあ駄目なのか?」


 荒く吐き出された呼気と共に波打つ声に我先に反応したのは他者では無く、他ならぬ自分自身。

 

 そりゃあ、勿論では駄目なんだろうな。

 自己満足の対価を求めぬ趣味人を超えて、その道のプロになろうというのならば、当然ながらそれだけでは駄目なんだ。


 想いを歌に載せて、お金を稼ぐ。


 口にするのは容易く、その志は尊くて美しいものだけど、その道は決して平坦でもなければ、絶対に容易では無いと断言出来るものだ。


 きっと個人の趣味嗜好を越えた強い「何か」が必要になってくる。

 才能とか運とか、自身から湧き出す感情オモイ以外の外部的な要因が絡んで、そして初めて夢の舞台に立つことを許される。


 ならば、逆説的に考えれば…現状この僕にもきっとその為に必要な「何か」があったはずで――フェアリーテールの世界におけるプロの資格足り得る「何か」を有しているはずなのだが――が何なのか分からない。一つも知らない。何一つとして見えやしない!


 皆が口々に口にする…才能なんて非客観的な水物が僕にあるのか?

 絶対的なオラクルに似た確信めいたものなんて、本当にこれっぽっちも無い。歌もギターも作詞作曲も。自身の中で明確にそれを感じる瞬間なんて今迄にあっただろうか?


 曖昧で移ろいやすい主観的な見解的に、運には――恵まれている…のか?

 音楽的才能よりは客観的に判断出来ると思うけれど、それでも判断しかねる実情。運の定義や裁量にもよるけれど、人との縁を含むのであれば恵まれていると言えるのだろう。


 しかし、それだけでプロのミュージシャンと呼べるとは到底思えない。何が足りないんだ?

 僕にあって、僕に見えてないものは一体どれだ?


「分からない。知らない。見えない。求めるものが無いんだ…本当に。分からなくて僕は…、」


 絞り出した声は会話の為では無い。生理的で反射的な感情の露出。纏まらない感情をそのまま他者にぶつけるだけの最低の行為。

 

 けれど、同時に祈りの様な思いもある。どちらにしても身勝手には違いないが、それでもと考えざるを得ない。

 目の前の男ならばそれを知っているのだろうかと。僕より遥かに優秀で、僕に無いものを全て兼ね備えた彼ならば。


 何一つ解決しないまま、具体性を持った意見など伝えないままに立場をパスした僕と聞き役に徹していた悠一の役割の交換。これは多分、甘えの一つ。


「もう分かった。全部理解した。お前は基本的に実直で素直だから。きっと事実なんだろうよ」


 吐き捨て様な声で彼は右手を払う。「隠し事なら顔に出るし」と嫌味の追加を忘れずに。

 僕の反応を待たずに彼は短くなった煙草をブーツで踏み潰して、シニカルな笑みを口の端に浮かべた。


「つまり、アラタは全然欲なんか無かったわけだな。音楽バンドをしていたのはただのお遊びで自己表現の一つ。目標こそが目的で、人並み外れた成功への通過過程足掛かりでは無かったって事だよな」


 幾ら僕でも悪意ありありの物言いに対して、黙っていいられる程に大人では無い。と言うか、年齢以上に(或いは以下に)僕は幼稚で小僧である。


 脊髄反射的で感情論しか含まれないディベートには向かない反論をいくつか考えて、ぶつけようとした僕の行き足は「俺とは違うんだな」という冷たい波にさらわれる。


「えっ?」

音楽で成功したい。自分の才能を大好きな分野で発揮して、高く遠くに行きたい」


 数秒前に思い付いた感情論は敢え無く霧散して、シャボン玉より儚く消え失せる。急速に視野が狭まり、加速度的に血の気が引いていく感覚。


 確かな筈の足元に微細な振動を幻視しながら彼の続きに耳を傾ける。


「でも、無理だった。俺にはそんな才能なんか無くて、人の感情こころを動し振るわせる楽曲きょくなんか創れなくて、大衆を魅了する歌声を持ってなかった」


 なぁ…アラタ。


「なんでまた――なんだろうな?」


 それは問い掛けの体を取った別の何か。

 僕との質疑では無く、きっと田中悠一ユーイチの中で幾度も反復してきた願望に似た絶望。


 僕にだけは知られぬ様にひた隠しにしてきた――それでいてとても頼りない存在で、紛れもなく彼を構成する重要な原子の粒子だ。

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