#159 Overflowed(溢れて)
いつも彼が漂わせているはずの余裕、纏っていたと思っていた威風堂々とした高貴な雰囲気は一体何処に行ってしまったのか。
きっと鞄の中には絶対無いし、机の中にもありはしないのだろう。鏡の中へは…生憎行った事が無いので分からない。
そんな経験の乏しい無知なるアリスの目の前で
どうして?
「なァ…教えてくれよ。どうしてなんだ? なんでなんだよ? お前はどうして、いったい何の為に歌ってたんだよっ…!」
短い前髪の下の向こう側、眼の前に広がるのは縋り付く様な視線と求める様な声音。僕はそれに良く似た光景を知っている。痛く青々しい経験則で学んでいる。
例えば、恋人たる新山
彼女は虚偽と傷痕を含めて、僕をその感情的かつエモーショナルな領域から拒絶した。
例えば、恋人たる新山彩夏の妹である聡明な義妹である
彼女は欺瞞と贖罪を含んだ領域に姉と僕――そして自分すらもその才知と幼稚を以て策謀の黒渦に巻き込んだ。
などと、こうして無機質に列挙してしまえば何てこと無いありふれた事象に思えて、個々人の感情なんかは細かなバグに似た不純物にすら思えて。
それらは全て憂い無く切り捨てられる雑データに感じられるから不思議だ。勿論、そんなはずは無いし、そんなこと有ってはならないのだけれど。
然しながら、思えばここ数日、僕はこういう場面に幾度と無く立ち会って来た。
それと同時に、今回はそれらの総決算なのだろうという確信めいた予感もある。
その予想を現実にするべく、僕なんかよりも遥かに優秀で聡明な人間の言葉が容赦なく僕を叩く。
「お前はさ、それ程の才覚があって――世間が認める"声"があって、他人が感じる
対面する自分以外が加速度的に熱して列する程に、それに比例するみたく指数関数的に冷たくなる自分は心象風景の方位磁針の何処にいるんだろう?
それは自分以外に興味が無い、熱血の代わりに冷血が流れるに足り得る何よりの証拠だろうか?
わからない。
冷静になってるつもりで、存外テンパってる気もするが、それでもこういった――自身が相対する現実を一つの現象として客観視している自分と、それを更に後ろから揶揄する厭世的な自分が内在的に確かに存在する。それくらいは引いて見ている気がする。
「一旦待てよ…。僕は、僕はっ――」
「お前にさ、」
曖昧で噛み切れない。
稀薄で煮え切らない感情をどうにか言葉にしようとしたけれど、それは悠一の言葉に遮られた。
「答えてくれ、アラタ。本当にさ、お前の音楽活動の先に、サクセスフルな自己本位の野望は本当に無かったって言うのかよ?」
揺れる。搖れる。
明滅する過去と不確定な未来。
その狭間に漂う男の声。
僕の中にそういう感情が全く無かったとは思えないし、口が裂けても言えない。
鈍く愚かな僕だけど、最低限度の文化的な承認欲求とか自己顕示欲とかが人並み程度にはある。
けれど、それを意識して…そういう感情を軸に据えて、そんな思いの成就を目的に曲を作った事はない。そういった無知で移ろいやすい上に――僕が感情移入出来無い大多数に向けて歌ったことは一切無いよ。
いつだって、自分の感情を発散させて、発露する為に歌って来た。それ以上でもそれ以下でも無い。僕は僕の思うがままにやって来た。
故にその点について、僕は今更誤魔化さない。僕はどうやっても僕でしかないのだから。
「それなりに自分本位な感情ではあったと思う。けれど、富や名声を求めてたとは思えない」
冗談みたいにリッチな生活を送るスーパースターや自分にも他人にも有益なレインメーカーの様な特別な存在に憧れた頃もあったかも知れないけれど――それは実現可能な夢としてでは無く――自分には起こり得ない破天荒な御伽話を頭の隅で求める事に似た拙く幼稚な願望だから。
冷たい空気を肺に入れて、血液が酸素と共に全身に冷気を循環させる感覚。段々と意識がクリアになって行く様にも感じる。霧が晴れて徐々に全景が明らかになる。
「ただ…やりたいようにやってきた。歌いたいことを歌ってた。それだけだ」
響く声は凛とした鈴のように寒空に伝播していく。それを受けた悠一は小さく「マジかよ」と零したきり、いつもは饒舌に流れる言葉を閉ざした。会話が途切れて、その代わりに沈黙が後釜を務める。
思えば、こうして進路について真面目に二人で話すのは初めての事かも知れない。長年に渡ってバンド活動をやってきて、指針と羅針盤の行き先を相談する事は無かったのか?
それは決して絶無とは言えないけれど、客観的には皆無であったんだろう。
その理由はお互いに色々あると思うけど、僕側についての問題点は怠惰で鈍感な依存心が根底にある気がする。
僕が流されやすくなあなあで、決定的な亀裂を見過ごしたのだ。今更ながら気が付いたが、きっとそうだ。
ダムなんて大層なものじゃなく、ショットグラスの心に穴が空く。ブザーも警告も無い突発的な放流。
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