#151 The Only Reason(それだけだ)

 甚だ頼り無き船頭の導きであると自覚している僕ではあるけれど、どうにかなんとか目的地に辿り着けそうな気配をひしひしと肌と心で感じている。


 そんな柑橘類みたいなピリピリした結果がどう転ぶかはキュートでセクシーな乗客である恋人カノジョ次第なのは相変わらずで―――そもそも到底覆しようの無い必要十分な最低条件なのだが、案外どうにかなるんじゃないかと僕は楽観的に踏んでいる…と言うかそうなって欲しいと願っているし、みっともなく本音を吐露してしまえばマジでどうにかなって欲しい…マジで。


「多分…それは、その。ああ…えっと。君の母親の、本当に今際いまわきわの頃の話だと思うんだけど、彼は…ただ一度だけ背信を犯そうとしたらしいんだ」


 遂に核心へ一歩踏み込もうとする発言はしどろもどろで締まらない。だって、めちゃくちゃ言葉にし難いだろ! 凄い口にするのがはばかられるだろ!


 その口が糸で縫い付けられたみたいに重たいのは何も、僕が臆病者の小心者であるからだけでは無い。

 何度も口が酸っぱくなる程に―――その空想製の酸で焼ける位に何度も繰り返すけれど、ここで取り扱うのは他人様であっても他所様では無いご家庭の「恥部」と「暗部」である。意気揚々と楽しく明るい軽快なトークの交換はかなり難しい。

 もし仮にそんな軽薄な奴が存在するなら出て来いよ、それでもって選手交代してくれ…いや、代わらなくていいや。これは僕の役割だ。投げ出せない。


「それが…よりにもよってその日が――あえっと、君達の…母親の――命日らしいね」

「そう。私の認識ではその日。寄りにも寄って母が亡くなった当日。私達姉妹は病院で母の最期を看取みとった―――その夫は…私の父親はその席に不在だった」


 痛ましく目を伏せる姿が彼女の心根を表現している。

 その痛切な姿が彼女に居座る「問題」の根深さを示している。


 けれど、実情は虚像の様に惑った後に儚く消えてしまう胡蝶の夢なんだ。

 嘘か真か両面の可能性を含んでいる様に見えて、そもそもの出題自体が仮初めの瑕疵カシそのもので不完全なんだよ。


 僕はそこに浸け込む。

 世界で最も愛しい女性の最も弱い部分を利用する。


 我ながら小悪で小物過ぎて笑えてくる。

 そうでもしないと彼女を救えない運命に唾を吐く。


「まさにその瞬間だったらしい。不義理で不適切な行為を働こうとした。妻への愛を示すために、家族を裏切ろうとした男がいた」


 けれど、出来なかった。


「出来無かったんだよ。彼には。どうやっても」


 それは一人の人間の心中で揺らいだ小波だ。

 いつかは収束する事が運命付けられた当然の帰結。


 そんな当たり前を告げる僕の表情は見えない。自分では判らない。 


「どんなに合理的に見えても、どんなに建設的に思えても不可能だった。だから彼は思い留まって思い直したんだと語っていたよ」

「え? ちょっとした待って…じゃあ、つまり…どういう…ことなの…? 何処までが私の勘違いで、何処までが正しい認識なの?」


 頭を抱えて縋るような声を発する彩夏の手に自分のそれをたどたどしく重ねて僕は言う。


「多分、途中までは正解で。結末がちょっと…違うのかもね」


 切っ掛けなんてきっと本当に些細なものなのに、拗れてしまうのは何故だろう?

 誰もそんな複雑性を含んだ状況なんて望んでやしないのに、こんがらがってしまう不思議。


 身に似つかわしくない高尚な不思議を浮かべる僕と身を削る様に固唾を呑んだ彼女。


「アラタくん、ありがとう。私をずっと気遣って、言葉を濁してくれてありがとう。だけど、もう本当に大丈夫」


 だから、話して。


 決して大きいとは言えない声量で彼女は決意の程を告げた。

 僕としては一体いつ覚悟が決まったのかを捉えづらく、豹変とも呼べる様な様変わりに見えるけれど、きっと思う所があるのだと思う。


 部外者には理解出来ない心境の波紋がきっとそこに産まれたのだろう。


「つまり、簡潔に言って父親は…私のお父さんは私達家族を裏切ったの?」


 裏切り。

 それは冷たい別れの言葉。

 そう歌っていたのは誰だっけ? 誰でもないかもね。


「All right、了解だ。マジでシンプルに行こう。君の言うように新山ニイヤマ一幸イッコウは妻ではない別の女性と背信行為に及ぼうとした…それは事実だ。合理的に論理的に正しい行動だと信じたという彼なりの正義があったことも忘れられないけれど」


 けれど、それでも出来なかった。

 家族に背を向けたのは一瞬の事で、確定的で致命的な間違いを前に踏みとどまった。


「しかしながら、その一瞬の間に奥さんは亡くなってしまった。寄りにも寄って自分が背を向けた瞬間に、愛する女はいなくなってしまった。彼は、それが”鎖”だと言っていたよ」

「でも、あの人は私達に何の言い訳もしなかった。謝罪も釈明さえもっ! それが謂れなき誤解ならどうして何も言わなかったの?」


 豊かな左胸を掻き毟る様に抑えながら新山彩夏は声を上げる。怨嗟のような絶叫のような。弱々しくも猛々しい、矛盾を孕んだ声なき声。


 落としたはずの何かを、必死に求めて想いを声を出す。


「だったら何か言えば良かったのに…、それは誤解だと、自分は無実でそれは勘違いだと! 何故潔白を訴えなかったのよ……なんで、どうして……」


 嘆くのは本質的にはポーズ。

 、彼女が求めるものはきっと―――


「そうしたら、私は…私は今よりもだったかも知れないのに。こんな風じゃなくて、それで全てを誤解せずに済んだかも知れないのに…ねぇ、どうして?」


 目尻に感情の涙を溜めて僕に問う。どうしてと。

 だけど、どうしてと言われても、どうしたって僕には事なんだ。


 君の個人的な感傷と傷跡の全ては既に終わってしまった出来事で、僕にはもう一切の干渉が不可能な過去だから。

 陳腐でありきたりな慰めの言葉位はそれでも捻り出せるけれど、それはきっと君の望む声ではないし―――僕の望む願望とはかけ離れている。

 

 故に、だから。

 僕はここに立っている。

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