#150 Sugar Moon(砂糖玉の月)
「その痛切な表情を何と言い表わせば良いのか。情けないが――まるっきり皆目検討も付かない。全く…同じ様に言霊の仕事をしているのにな…」
彼はその当時を虚無的に振り返った。
出会って間もなく、その期間に比例する様に大して信頼関係も結べていない僕に――彼は一体どれ程の真実を語ったのだろうと――こういった疑念は、これまでに何度も繰り返し述べて来たが、この言葉だけは少なくとも虚構やデマカセでは無いと思う。
何故なら、そう語る彼こそが…彼の作る表情こそが―――彼と同じく…と言えば
あの後悔と絶望、悲哀と逃避の混じった絵を顔のキャンバスに作為的に描いたのだとしたら、筆なんて折って舞台に上がった方が良い。絶対そっちの方が向いてるよ、演技派ってレベルじゃない。
とは言え、終わってしまった昨日ばかりを振り返った所で、無慈悲に零れた覆水が盆に
「だからこそ、僕達はより具体的に、より詳細に話を深めて掘り進めよう…って、あ、
思索に耽っていて気が付かなかったが、隣に座る恋人の顔は蒼白である。元々色白な為分かりにくいが、普段の顔色と全然違う。明らかに血の気の引いた病人の様な顔。
おっかなびっくりの慣れていない所作と動作で彼女の肩を抱く。一人の人間のリアルな体温が指先に充満する。
「大丈夫? まだかかるし、少し休憩しようか?」と提案。
「心配しないで…私は大丈夫、大丈夫だから」と却下。
彼女がそう言う以上、無理強いは出来無い。
そもそも僕に無理強いとか何かを強制する類の行為は無理だ。趣味じゃないしスタイルじゃない。気は進まないが続行だ。
「
どうしてそんな提案がと。
病気が判明して家族のこれからを検討して行くべき時に何を言い出すのかと。
至極
互いが互いを純粋に思っているのに、互いの為を思って行動した末に誰もが不幸になる―――それこそが悲劇なのだと僕は思う。そういうのは、どうしようもなく堪らなく切なくて、何て繕おうにも辛いんだ。
細い肩を抱く指先に思わず力が入り、それを感じた彩夏が反射の様に小さく身をよじる。
おっと、気をつけねば。遠くの過去に囚われて、現在の彼女を傷付ける事は最も避けなければならない悲劇の連鎖だから。
「妻は言った。『自分がいなくなった後はどうする気か? 幼い娘二人を男やもめで育てられるのか? そもそも家事育児をずっと自分に振ってきた男にそんな事が可能なのか?』とそういった家族の今後に関わる事を枕にして理由を明かしたそうだ」
「お母さんが? どうしてそんな事を…」
「母として、妻として…その、病床の身でも出来る事をしたかったらしい…その、最期に」
「ああ…どうして……そんなの」
溜め息とも付かない
「彼女はその心中を述べ続けた。『自分の事はいいから、娘達をとにかく頼む。幸い貴方は売れっ子の作家で地位も財産もそれなりにある。そしてまだ充分に若い』だから…」
自分を忘れて、新たな女を妻にする様にと。
「そんな感じに彼女は締めたらしい」
僕の声が場から消えて、恋人の部屋には静寂の帳が訪れる。暖房で暖まったはずの空気に糸の様な冷たさを伴って。
「それで…あの人は。父はなんて答えたの? どういう結論を出したの?」
「取り合わなかったって言ってたよ。病気のせいで精神が参っていて、正常な判断力を喪っていると判断したと本人は言っていた」
恋人の父親は極めて常識的に理性的な判断を下した訳だ。少なくともその時点では。
それが彼女の誤認の全てで、この物語の大枠なのが
だけど、続きがある。
「けれど、そこから妻を見舞う度に同じ事を言われた男は、果たしてどうなるんだろうね…」
「っていうのは? やっぱり…それは」
「違うんだ。誓って浮気などしていないと彼は言っていた。僕はそれを保身や虚言の類だとは思えなかった」
「じゃあ、どういうことなの?」
首を傾げる反応は当然だ。僕の言い回しが良くなかった。煙に巻いて含みを持たせた口振りが悪かったのだ。
だけど、自己弁護をするつもりも無いけれど―――やっぱりストレートには言い難いよ。話題がデリケートでセンシティブかつプライベートなだけに、つい気を抜くと迂遠で暗喩めいた物言いになってしまう。集中しろ僕、何より大事なのは新山彩夏を過去から解放することだろ!
「しかしながら。彼の持つ常識的な精神も次第に、大概ヤラれ始めたのだろう。病気の妻と幼い子供達、仕事も出来ずに何一つ上手く行っていない時期だったらしい」
「そう…なのかな? 私の記憶ではそんな印象は無いんだけれど……」
「そこはほら、父親の『意地』みたいなものがあったのかも知れない。娘の前では虚勢を張って強がっていたのかも」
「そういうもの…なんだろうね」
そう呟く様に零した恋人の表情、少しは落ち着いたのか血色が若干戻って来た様に見えて取り敢えず一安心と言った所か。倍プッシュでは無く、普通に続行。
「次第に彼は妻の言う事が合理的で正しい事なのかもしれないと時折思う様になったそうだ。当たり前の人間味を差し引いて、冷徹に考えれば理に適った行動じゃないかと思い間違えることもあったらしい」
それに至る絶望的な逡巡を誰が責められるだろうか?
人間が生来より有する弱さと脆さが表層を支配する感触、他人には到底分かり得ないし分かり合えない。何よりも無関係な他者がとやかく言える部分じゃない。
けれど、もし仮にそれでも非難出来る存在があるならばそれは血を分けた家族だけだと思う。隣の恋人とその妹、その二人だけだ。
だから僕は部外者なりにその間に立ち、その分を
経過はどうあれ、彼女がその権利を獲得出来る様に根を回し、場を作った。
そしてもう間もなく訪れる決着の際、新山彩夏がその権利を行使するか否か。
その結末を見守る権利位は、部外者で外様に位置するこの僕にもあるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます