#136 Way To Fall(奈落へ落ちる)

 僕は思う。


 目の前の男が過去に採択したのはきっと、選び様の無い究極の選択、その中の一つじゃないかと。

 頭を絞って魂まで削ってなおどちらも選べないのに──どうしたって選びようなんか無いのに──それでも断腸の思いで持ち得る全てを捧げて、裏切って、裏返してようやく決断した一つの道だと。


 例えば、僕の身と愛する彼女の安全。

 その二つを天秤に載せられた場合は極めて簡単で、簡潔に躊躇ためらい無く即答出来る。


 彼女の方が大事だと。


 けれど、彼女の尊厳と生命が天秤の両翼にある場合はどうだろうか?

 彼女の意見を尊重し、救いたがる自分を殺す事が出来るだろうか?

 彼女の望みを叶える為に自分のエゴを律し、理屈に依って制御する事が可能だろうか?


 彼の話を聞いて、彼の気持ちを聴いて。

 僕はそう思った。


 数秒あとに悟って。

 無機質な息を吐く。


「その否定の一貫として、拒絶の現れがその…浮気に当たる事なのでしょうか?」


 愛する女をうしなう現実が恐ろしくて、喪わない女に慰みを求める…それは一見すれば矛盾している風の行動に見えるが、その実は一貫した筋がある――どうしても閉じた一種の自己防衛だ。


「随分とストレートに聞くんだな。かなり私的で聞きにくい話題だと思うが…」


 初見時よりも随分老けた印象の新山ニイヤマ一幸イッコウはそんな嫌味を口にした。

 ジャブ代わりの嫌味は兎も角、狼狽とは違う形で疲労を重ねた彼を見ていると――真実の吐露という行為はすっきりとした爽快感を与えるものでは無いと実感出来る。 

 この件で、世界的な文豪に無理な心労が重なって、積み重なって。

 挙げ句、体調を崩して倒れたりしない事を身勝手ながらも切に祈ります。


「まだ…僕には分かりません。外殻や概略はそれなりに把握出来ましたが、肝心の中身や仔細ディティールを知りえません。それは勿論極めて私的なものだとは理解してるつもりですが、そのナカまでは…」

「本当に飾らないねぇ……」


 一応、申し訳程度に嫌味で返してみたが、更なる嫌味を重ねられた気がする。これ以上の泥沼化はデフレスパイラル的な底無し沼で好ましい状況では無い気がするな…潔く撤退しよう。


「生意気を言ってすみませんでした」

「若人から元気を取ったら何も無いよ。それを貫くと良い」

「は、はあ…そういうものですか……」


 急に年寄りめいた分かるような分からない事を言われると反応に困る。

 そもそも僕と元気って全然結び付かないし、くっつくどころか離れていく一方の対義語みたいなもんだし!


「しかし、君の言う通りかも知れないな」

「あえっっ?」


 何が? 何か言いましたっけ僕?

 え? うそ、待って…そんな一人覚悟を決めた顔をされる覚えは無いぞ?

 口に出したのは他愛の無い感想で、心中で抱いたのは精神の安定を兼ねたくだらない軽口くらいですよ?


「全てを告白すると宣って置きながら、何処かで逃げていた様な気もする。背景を説明する事で核心を先延ばしにしたかったのも有るだろう…男らしくズバリと言い切る事にしよう」


 大きな溜め息でタイミングを図った後、彼は高らかに宣言めいた断言をした。

 それは恋人の傷痕を為す根幹であり、同時に新山家の核心でありながら、尚且つ議題の大前提をひっくり返す言葉。


「結論から言って、…!!」


 それは梯子はじごが外れるガチャリとした無慈悲な宣告めいた音色に聞こえて、僕は足下が不安定に揺れる様な――全てが揺らぐ感触を味わった。


 前提はあくまで前持った予測であり、現実の姿を映す事は稀なのだという事実が僕の身に降り掛かる。

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