#135 Look back(追憶)

 それは今から約十五年程の前の事だと言う。

 僕が昨今急接近した新山ニイヤマ家の母親、相対する彼の妻の身体に異変が起こり始めたのは。


 始めは些細な問題だと思ったらしい。

 日常生活の範疇である家事の最中における小さな違和。

 調理器具を落としたり、調度品や日用品を何処に仕舞ったのかをど忘れしたりと軽微な兆候だった為、周囲の発覚が遅れたとの事だ。


 重い溜息が過去を回想する。


「家事に疲れているのだと思った。私はこの通り基本的に家で仕事をしているし、娘達も大きくなって…精神的な疲労や気苦労が閾値と一定値を超えたせいで不調をきたしていると思った」


 それで新山氏は家長として、妻を愛する夫として行動を起こした。気晴らしに旅行に連れ出したそうだ。

 普段の雑事を忘れてリフレッシュすればすぐに復調すると考えたらしい。


 今にして思えば全くの逆効果だったと自責の思いを口に出した彼を――その行動を誰が非難出来るだろうか?

 当事者や周りの他者の誰もが、その結末を誰も想像出来なかった筈だ。恐らくはおっちょこちょいなミスだと看過していた筈だ。


 その新山さんの言によれば、旅行中は特筆すべき点は無かったと言う。

 或いは熱に当てられて見落としたかも知れないと吐き捨てたが、部外者の僕に真実は分からない。


 とうの昔に終わってしまった事情に対して今も尚存在するのは僅かな欠片カケラ達で、僕が得るのは擬似的な追体験を通して過去を検分する現在だけ。はは…安楽椅子探偵かよ。気取るにも笑えない。


 いよいよ調子が看過出来なくなって、奇行めいた奇妙さが目に余る様になって医者に見せた時、病状は深刻で――既に末期であったらしい。

 現代の高度に発展した医学を持ってしても完治の見込みは無く、投薬治療による延命だけが残された道だった。


「私はそれを拒否しようとした。無理に延命させて、これ以上心身に負担をかけることは無いと妻に言った。だが…彼女は延命治療を望んだ」


 少しでも長く、家族と一緒に過ごせるようにと。


「その間彼女は母であり、妻で有り続けた。日に日に細くなって行く身体を引き摺ってくれた甲斐も有って、私達は紛れもなく家族だった。どうしようもなく繋がっていた」


 末期治療。ホスピス。緩和ケア。

 残された時間を家族と共に過ごす。


 言葉尻を捉えれば何とも――現代の高齢化社会にはありふれてヒネりの無いフレーズに見えるけれど、それでも僕には分からない。

 両親共に存命で、自身も今の所は結構健康体である僕。そんでもって親しい人にはそういう限界の人を持たない身には虚構の様に現実感が希薄である。


 それこそ"死"なんてものが遥か先に所在無く揺らめく概念めいた話に思えて。

 人生の瀬戸際に何を思い、どう行動するかなんて――そんなのは当たってもいない宝クジの使い道を想像するのと大差無い青写真みたく遠い場所に思える。


「妻は気高く立派だった。強い心で病気と現実に付き合った。けれど、私は違った。彼女と違って耐えられなかった。耐えることなど不可能だった」


 愛した女をうしなう恐怖に。

 愛した女が弱る今日に。

 愛した女が不在の未来に。


「私は弱かった。とても愚かで救いなど無い程に。妻も娘も関係無く、その立場や心情を一切慮る事もなく! 私個人の心がそれを拒否した。現実を拒絶したかった…」


 嗚咽と慟哭が小波さざなみの様に寄せては去っていく。

 そして波に運ばれた過去は、確実に現在に近付いて。

 その後、僕は確信を共に現在に至る…。

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